二の二
神々が見守る中、スサノオは杖刀人(衛兵)に追い立てられ、天の浮橋へと辿りついた。未練がましく振り返るが、杖で小突かれ已む無く浮橋の上へと歩み出す。
浮橋上は雲が掛かり、足下がおぼつかない。欄干を手探りで辿り、ひたすらに歩き下る。髭と爪を取り去られ、情けない姿となってしまったスサノオには、この道行は堪えた。細面の整った顔立ちに似ず、身の丈六尺余り、筋肉隆々たる巨漢なのだが、今は精彩を欠いている。何の能力もない下界の人間と同じになってしまったのだ。
角髪に結った黒髪に馬の蹄鉄のような形の黄金色の輪をはめている。深い紺色の袍の上に短袖の直垂羽織、胸に浮かぶ稲妻模様が二つ、背には剱を交差させた刺繍がある。下は浅葱色の褌を穿いて、背中には愛用の十拳剱を紐で縛って吊り下げている。
どれほど歩いたことか、ようやく雲が途切れ、下界の様子が見えてきた。
「おお、何と眺めの良い事か、葦原中国だな。しかし、淡海(淡路島)は見えぬ、ははは。下界から隔絶された所だからな。尤も吾は淡海にだけは行かんぞ。そうだ忘れておったな、根の国に行くのだった。一体根の国とは何処にあるのか」
良い眺めに見惚れていると、欄干が靄に包まれたかのように霞んできた。
突然浮橋がすぅっと掻き消えてゆく。
「ああ、おい、まだ下りてないというに。姉上・・」
大空にスサノオの声が吸い込まれていく。遥か上空から真っ逆さまに落ちていくスサノオは、あまりの風圧と恐怖で気絶してしまった。
着ていた直垂羽織が、風を捉えて綿雲のように膨らんでいる。
やがて樹木の生い茂った森の梢に落下して、枝をバキバキへし折りながら地べたに穴を空けて弾んだ。
途端に転がりだして空裁ちに出た。
転がっている途中、一旦気が付いたのだが、崖の端に突き出た大岩に激突し、
「うう」
と言って止まり、また気絶した。
辺りは奇妙なほどの静寂に包まれている。ここは肥川(斐伊川)の上流、鳥髪山の麓(奥出雲町鳥上村、船通山)。体中痛めたが幸い大事には至らなかった。樹木の枝の柔軟さと蘚や枯葉の堆積のお陰であろう。
やがて息を吹き返したスサノオが、上体を起こし起きあがろうとしたが、
「いたたた、あつつ・・」
体中に激痛が走り、仕方なくまた寝そべって和らぐのを待つことにした。
スサノオは空を見上げながら考えた。
「一体吾が何をしたというのじゃ。よそ者とみてあること無い事でっち上げて、吾をのけ者にする・・これもみな嫉妬深い姉上の策略じゃ、天安川で吾に負けたことで不安になったのだろうな。なにも高天原が欲しいと言うた訳でもないのに、いやに警戒されたものじゃ。居心地の良さに甘えて、ちと長居し過ぎた吾が悪かったのじゃな、ふふふ」
ゆっくりと過ぎゆく雲を眺め、痛みの癒えるのを待った。背の高い木々の梢も揺れている。上空には幾分風があるようだ。
ふと横向きに寝返ると、痛みに貌を歪めながら遠くに目が向く。日が右側から射し込む山々に、雲の立ち込める場所を見つけた。
「おお、日の照り具合からすると、あの方角は北じゃな、まだ昼前か。それにしてもかわった雲じゃな、山々の頂に寄り添っているようじゃ」
また寝返りを打ち、上を向いた。
「んん、だいぶ痛みも取れてきたな・・さてこれからどうするかな。根の国がどこにあるかも分からんし、まずは現状偵察とするか」
起き上って体の各部位の状態を確かめながら節々を動かし、ほぐしていく。今度は目を南に向けて、遠くの山上からひと筋の糸を曳く滝の姿を追った。辺り一面鬱蒼としたブナやコナラの森林が広がる山並の中に、滝の水を引き受けた谷川が山裾を這うように蛇行して流れ下っている。
ここは、その谷川に隣接する森のはずれの高台だ。遥か昔から水と風の作用で抉られて、切り立った崖になったものだろう。谷川は熊や川獺の生活の場であろうか。
北側のすぐ真下の河原には直径三メートルはありそうな丸い巨岩や奇岩がごろごろ転がっていて、その脇を流れの速い清流が飛沫を上げてサラサラと心地よい音を立てている。しかし、崖が急すぎてここからでは下りて行けそうもない。上空とは違って、風もない暑い日の午前であった。
…島根県の山岳地帯にある鬼の舌震と呼ばれる大渓谷である。…
ふと西を向くと、彼方に煙の立ち昇るのが見えた。
「野火か、それとも人間の使う火か。あそこに行けば生きものと出会えそうだな・・」
そう思って森の中を西に向かって歩きだした。しかし、行けども行けども鬱蒼とした森が続き、周りの地形が掴めない。どれほど歩いた事か、汗だくになり、吐く息も荒くなって、スサノオはふと喉の渇きを覚えた。
「これは駄目じゃ、とてもあの煙の彼方へは辿り着けぬ。水じゃ、水を探そう」
スサノオは鼻をひくひくさせて水の匂いを嗅いだ。そして視線を北に向け、森を掻き分けながら歩きだすと、水のせせらぎの音が聞こえてきた。森を抜けると眼下に蛇行した川が見える小高い丘に出た。川原には黒い砂の縞模様(砂鉄)が幾重にも重なっている。足場を探し、木の根や岩を掴みながら何とか水辺まで下りてきた。
「ふぅー、なんてことだ、爪が無いということは、こんなにも不自由なことなのか」
ものを掴む力も、足で地を踏みしめる力も思うようにならず、汗だくになって降りてきた。
「それにしてもこの世界は暑い所じゃ、体から露が滲み出すとは、ついぞ経験したことがないわい、はっはっは」
神の能力を削がれた今のスサノオは、人間と同様に暑さも、痛みも感じやすい体となっていた。
両腕の袖をまくりながら水辺に近づき、靴を脱ぎ褌の裾をたくし上げて河中に入った。
「おお、水が冷たくて気持ちがよいわ」
言いながら尚も数歩進み、手で水を掬おうと屈んだ。
「おやおや、なんとも締まらん顔じゃ、髭がないと女子のようだな、ははは」
と、顎を撫でている。そしてじゃぶじゃぶっと水を被って顔を洗った。角髪に結った黒髪に飛沫が光る。
ふと何かこの場の雰囲気に違和感でも感じたものか、立ち上がって気配を窺った。そして河中の岩に寄り掛かって目を虚ろにして何か物思いに耽っている。強い日差しが水面に反射し、スサノオの顔に魚鱗のような模様を描く。
音がないのだ、川の流れの音以外に何も聞こえてこない。スサノオは自身の心臓の鼓動を聞いてそのことに気付いた。
(妙な所だ・・)
と思いながら川面を見つめていると、ふと違う煌きが目に飛び込み、吾に帰った。どうやら何か光る物が流れてきたようだ。スサノオは流れに手を伸ばして掬い上げた。
「なんだ、箸か・・」
紐で繋いである一膳の箸であった。紐の中央に綺麗な玉が付いていて、煌きの主はこの玉のようだ。調理用の菜箸なのか囲炉裏用の火箸なのかは分からなかった。
「この川を流れてくるということは、上流に人がいるということだな。はっは、少しだけ安堵したわい。あの遠い煙を目指すより、こちらの方が余程近いわ」
河中にすっくと立ち上がって、遥か先の滝の白糸をしばし見つめ、
「よし」と、小さく叫んだ。
意を決して水音高く河原に上がると、身支度をし、無数に敷き詰められた丸くてごつごつした巨岩や奇岩の原を、慎重に飛び伝って、滝に向かって進んで行った。
「この美しい景色は高天原にも負けぬほどだが、果たして住み心地はどうかな」
しばらく進むうちに、所々に巨岩の面が湿っているのを見かけた。中には直径五メートルからある巨岩もある。
「ややっ」
思わず立ち止った。
岩の面に鮒虫がたくさん蠢いている。この地に来て初めて見る生き物であった。
「これは今しがた岩が引っ繰り返った跡だぞ、こんな大きな岩がどうして」
スサノオは戦慄し、しばし上流にじっと目を凝らす。こめかみには汗が滴っている。それでもとにかく行ってみようと歩き出したが、異様な臭気に歩みが鈍る。
「んん、なんだこの嫌な臭いは、魚か、いや違う。生臭さは魚とも思えるがどうも違うきが・・あつっ」
目の前が疎かになり、木の枝に頭をぶつけた。
「ああ、酷く歩きにくいわい、爪がないのが悔しいのぉ」
爪や髭は神々が変化や神生みに使う道具であった。巨大な大多良坊っちになれば高見から辺りを見廻すことも出来るし、ひと跨ぎでこの谷を抜けられる。爪が伸びるには何ヶ月もかかることだろう。
奇妙な河原の大岩小岩を飛び越えながら、数刻も過ぎた頃、川を覆っている木々が急に途切れ、視界が開けた。巨岩の谷が終わり、傾斜のゆるい谷川に変わった。スサノオは汗だくになりながら終いの巨岩に腰を下ろして前方に目をやった。
「見事な滝じゃ、天辺が霞んで見えんわい。途中で水が雲に変わっているのだな、地面まで落ちてくる水がないではないか。待てよ、最前見た時は下まで確かに水が届いていたと思ったが、見間違いだったかな」
気にも留めずに、汗を拭ってひと息入れたのち、今度は川の脇の葦原を十拳剱で薙ぎ分けながら進み、とうとう滝の下まで辿り着いた。目の前には青々と底の見えない淵が広がり、対岸には高さ百メートルをゆうに超える屹立した岩棚がある。
見上げると、
「おや、なんだあれは。流れる水が見えんと思ったら、大きな岩が滝に覆い被さっていたのか・・それにしても妙な岩だな・・」
スサノオは淵を回り込み、対岸の岩棚から落ち込む滝の真下に向かった。
激しく打ちおろす奔流が、淵の水底を抉り、湧きだす泡が砂礫を掻き回して押し流す。
おもむろに見上げたスサノオは、
「こう塞がっていては滝が見えまいのぉ・・おや、岩盤から何か変な蔓が垂れとるな」
蔓を触ろうと手を伸ばすと、
ひゅうっ
と蔓が動いて遠のいた。
「おおっと、危ない」
蔓が急に撓って、スサノオの顔を目がけて飛んできた。勢い、スサノオの頬を掠め、血が滴る。蔓は先が銛のように三又の形で尖っていた。
手をあてて傷の具合を確かめるが、
「こ、これは何事じゃ。たった今、この蔓が吾の顔を目がけて斬り込んできたように思えたが。この世界の草木は生き物なのか」
来て早々得体の知れないものに出っ食わし、さすがのスサノオも気弱になった。
蔓を避けて少し後ろに下がり、どこから登ろうかと足場を探していると、また風に揺られているのか、さっきの蔓が向かってきた。スサノオはさすがに用心して右手を肩越しに剱を掴んで身構え、近づいたところをスパっと切り落とした。
「ギャアー・・・」
という不気味な獣の声が遥か上空から、余韻を放って響き渡ってきた。蔓は地に落ちて巨大なミミズの如くバタバタと蠢いている。
霞の為によく見えないが、滝の上を飛んでいる猛禽の類であろうか、スサノオはただならぬ気配を感じた。するといきなり何かが、どさどさっと幾つも降って来て、一斉にスサノオを襲う。
「な、何だこれは・・・ええい、煩わしい」
どうやら最前の蔓と同種のものである。切り込んだが蔓が素早く避けた。空を切る刃を掻い潜り、数多の蔓が襲ってくる。
「こ、こりゃ堪らん」
手に負えず剱を振り回しながら駈け出して、どうにか木々の陰に逃げ込んだ。
生きている蔓がスサノオを見失って追うのを諦めたと思ったのも束の間、すぐに変事が巻き起こる。ゴゴゴゴゴと地鳴りがして、次の瞬間、
ザッブーン!
と、けたたましい音を立てて岩盤が淵に落ち込んだ。辺り一面に水飛沫が飛び散り、淵の水があらかた無くなってしまった。
凄まじい水音と、押し寄せる波に慌てたスサノオは、流されながらなんとか木の枝を掴んで堪え、そのまま大木の陰に回って木に登った。三の枝付近まで登ってじっと動かず見つめていると、淵の底にうずくまる大岩に、散った水がまた押し寄せてくる。やがて大岩は渦の中に完全に水没してしまった。
淵は渦の勢いを益々大きくし、逆巻いている。
すると渦の中心から巨大な大木ほどもあろうかという鉛色の大蛇の鎌首がにゅぅっと登ってきた。
辺りをキョロキョロ窺っている。その目の不気味さよ、どこを見ているのか判別不能の、卵型でやや突き出ている猫のような目。血のように赤く、熟したホオズキのような色をしている。
「シャーッ!」
擦れたような声を発して口を開け、二股に分かれた舌をチョロチョロ動かす。口の中も血のように赤い。空気を舐めまわしてでもいるように、舌を周りに向けて盛んに動かしている。首の太さは直径三メートル半、目の玉だけでも大人の頭の倍もある。
ここで見つかってはひとたまりもないと、スサノオはじっと息を殺して大木に縋って死んだふりをした。視線を動かさず一点だけを見つめながら堪えた。ピクリとでも動けば見つかってしまう、そうスサノオは感じた。
(こ、これは何ということじゃ、斯程に巨大な蛇がこの世界におろうとは。滝に覆い被さっていた岩盤はこ奴じゃったか、蔓に見えた物は奴の尾だったのか・・・待てよ、初めの一本はいいが、後から出てきた尾は一体・・・ややや、鎌首がまた出てきたぞ)
やがて水の中からザバザバと音をたてて、次々に大蛇の鎌首が現れ出でた。全部で八つの頭が四方八方を探るように暴れだした。
火炎を噴きあげて吠えるもの、二本の長い角を鞭のように振りまわして大木に絡ませて引き抜くもの、滝に向かって白い息を吐き瞬時に水を凍らせているもの、目が黄色く輝いたかと思うと光線を発し岩を粉々に砕くものなど、八頭もの大蛇がそれぞれ違った能力を見せ付けている。
大蛇は尻尾を切られて怒り狂っていたのであろう。やがて諦めたのか淵から這い上がり、ずるずる音を立てて谷沿いに海へと去って行く。
スサノオがそっと視線をやると、何と、八頭いると思っていたが、八つの頭に八つの尾を持つ一頭の怪物だった。八岐大蛇である。体中に杉蘚や日陰鬘が生い茂り、青々と苔むしている。いったいどのような環境に住んでいるのか。
四足で支える胴体は重過ぎて殆んど地べたを擦りながら這っている。巨岩を引っ繰り返したものの正体はまさにこの化け物の仕業。察するに、生物の気配がなかったのは、この八岐大蛇を怖がって、皆逃げてしまったからであろう。
滝の高さは百メートルを優に超える。大蛇は滝の上に首から上が隠れていたから、その大きさたるや百五十メートルにもなる。胴の太さが直径二十五メートルほどなのに比べて長さが尋常ではない大きさである。
「偉いところだぞここは。あんなものがいたのでは落ち落ち寝ていられん、またも体から水が湧いてきたわい」
スサノオは額の雫を手の甲で拭った。
読みづらさを軽減するため、これ以後の部分において一部尺貫法ではなくメートル法で表記しているところがあります。




