二の四
迮鹿文も茫然として見つめている。ただ、この小娘が夕方厚鹿文に酌をしていた美しい娘であることは分かった。あの小娘が贄役だったなんて、何か変だとは思ったが、酒のせいか考えが纏まらない。
脳天を足で手酷く小突かれ、贄台に顎をぶつけて、うつ伏せになった厚鹿文が、
「おのれ小癪な小娘だ、叩き潰してくれよう」
と階を降り掛けたが、うっかり足を踏み外して、
だだだーっ
と転がり落ちてしまった。頭を揺すって唸っている厚鹿文が、化身が解けてふっと吾に返った。
その不様な姿を見て、
「ふははははは、あーっはっはっは・・」
広場中に小娘の笑い声が響き渡る。小娘とは思えぬ、下卑て、老獪で、妖気を感じる笑いであった。
「何だ、どうしたんだ?」
厚鹿文は状況が分からずまごまごしている。
「兄者、あの小娘が兄者に挑んできたのだ、早く身構えろ」
迮鹿文が棍棒を携え、厚鹿文に渡した。
「な、何だと、小娘が挑んできただと・・」
厚鹿文は前方を睨み返した。
そこには、小刀を逆手に握ってすっくと立った小娘がいた。髷から垂れる髪が、折からの強風に煽られて、散ばらにはためいている。着ている服こそ違うが、紛れも無く最前酌をし、抱き付いてきた小娘であった。
「さっさと来ぬか、木偶の坊め。いまこそわが手で過去の恥辱を雪ぐ」
ゆっくりと立ち上がる厚鹿文は、棍棒を片手に小娘に近づき、
「これ、小娘、いい加減目を覚ませ、儀式が台無しではないか」
「御託は骨灰になってから言え、いざ」
小娘は姿勢を低くし、小刀を構えた。広場中央の篝火を背にして、鬼髷に白衣姿の小娘は、いじらしくもあり妖艶でもあった。
皆は神の化身と思っているだけに、どうなる事かと祈ったり、顔を上げて覗いたりを繰り返している。
厚鹿文は仕方なく進み出た。
「ふはははは、悪い事は言わん、今からでも謝れば許してやる、よさないか?」
酔いはだいぶ覚めてきたようだが、足のふらつきは隠せない。
「ええい、さっさとかかって来ないか、棍棒野郎」
小娘は尚も挑発する。
とうとう怒った厚鹿文が、
「そんなに言うなら相手をしてやる、死んでもわいを恨むなや」
と、棍棒を振り被って喚きかかって来る。小娘は身軽にひょいと躱した。棍棒はむなしく空を切る。厚鹿文はすぐさま振り返って再び棍棒を肩に担ぐように構えた。
酔っているとはいえ、さすがに闘い慣れている厚鹿文は縦からの攻撃では逃げられてしまうと思ったか、棍棒を横に振り回しながら小娘に迫る。風車のように振られる棍棒に小娘も近づけず、焦った。
神が化身しているとはいえ、自分から挑んだ以上、逃げる訳にもいかない。
小娘が思い切って飛び込もうとした瞬間、厚鹿文の棍棒が、
パキーン
と、小刀を弾き飛ばした。小娘はその反動で、右手が痺れて倒れ込んだ。その瞬間、ふっと憑き物が取れてしまった。辺りをキョロキョロ見回し、夢遊病のような状態で厚鹿文に挑んでしまったと理解した。小刀は遠くに転がっている。
これを見ていた群衆はほっとして胸をなで下ろし、拝むのをやめた。
「おい、小娘、正気に戻ったか。ふっふっふ、戻ったのなら儀式の続きをやろうじゃないか、のぉ、どうだ」
厚鹿文は舌なめずりをして小娘の姿を睨め回す。
「おだまり、厚鹿文、これからが勝負よ」
小娘は立ち上がり、ゆっくりと旋回しだした。
「何だ、まだやるのか、正気か、負ければ死ぬのだぞ。小娘、命を粗末にするな」
「ええい、うるさい」
小娘は一瞬視線を小刀に飛ばすが、まだ遠い。
「ただでかいだけの針ねず頭め、さっさと戦え」
言うや否や、小娘は素早く小刀を拾って身構えた。
…ちなみに古代には日本固有種の針ねずみが生息していた。…
罵倒されて途端に眉間にしわを寄せ、険悪な表情になる厚鹿文は、
「ええい、最早勘弁ならん、おのれ小娘、そこを動くな」
と、喚きかかってくる。ブルンブルン棍棒を横に振りまわして小娘に迫る。
小娘は慌てて飛退き、逃げ廻る。
「あっはっは、どうした小娘、頑張れや」
周りからやじが飛ぶ。周り中は、小娘の憑き物がとれたことで終末伝説の恐怖も消し飛び、いい余興と思い始めて囃している。
厚鹿文は斜め方向に左から、右から棍棒を何度も振り下ろしながら小娘に迫る。その都度小娘は反応良く飛び退いて躱した。
「ほんなこつ、ちょこまかと動きさらして、叩き潰してやる」
厚鹿文が大きく棍棒を振り被った。棍棒が小娘の脳天近くに来た瞬間、すっと小娘が消えた。棍棒は勢い余って固い土を抉り、
バキーン!
と、鈍い音を出して柄もとから折れた。
折れかすが凄い勢いで遠くに飛んでゆき、群衆が慌てて避ける。
(なんだ、何が起こったのだ・・)
厚鹿文は折れかすを唖然として見つめている。折れるはずのない丈夫な棍棒が折れてしまったのである。
小娘はすかさず背後に廻り込み、厚鹿文の右足首の腱(アキレス腱)をスパッと斬って走り去った。
「あうっ」
と呻いて、倒れ掛かる厚鹿文は、
「おのれ小癪なあまっ子め」
わなわなと震えながら立ち上がり、小娘を睨みつけ、棍棒の折れかすを投げつけた。
群衆も最早笑ってはいない、どっちが勝つのかと興奮しだした。そして微かではあるが、また終末伝説が気になりだした。
今し方までとはまるで違う悪鬼のような形相となっている厚鹿文が、足を曳きずりながらも小娘を追い詰める。
小娘は逃げた、群衆が囲む円内を、逃げて、逃げて、後ろを見つつ逃げ廻る。そしてとうとう広場中央の大篝の前まで来てしまった。
厚鹿文は姿勢を低くし、逃げられないようにと両手を大きく広げて、えいとばかりに抱えようとした。しかし小娘はぴょーんと飛び上がって脇に躱し、走り去る。厚鹿文は大きく前のめりに倒れ込んで地面に手を突いた。
(今だ)
横目で捉えた小娘は、ピタッと走るのをやめ、つむじ風のように厚鹿文に迫る。そして背後から飛び付き、厚鹿文の首っ玉にしがみ付くと、小刀を、
スパッ
と横に走らせ飛び退いた。手応えあった。
ざっくりと喉首を斬られた厚鹿文が、
「ぎゃぁー」
と、言わんばかりの形相をして振り返る。
声を断たれ、首から血を噴水のように飛び散らせながら立ち上がり、小娘を探す。
群衆はあまりのことに固唾を呑んだ。迮鹿文も事の成行きをひたすら茫然として見つめている。
厚鹿文は目をらんらんとさせ、よろよろ歩き、小娘に迫る。
(そ、そんな馬鹿な・・・)
小娘は確かな手応えを感じたにも拘らず、未だ死なない巨人に、恐れを感じて体が強張る。そのままジリリ、ジリリと後ずさりした瞬間、足がもつれて倒れ込んだ。すかさず厚鹿文の両手が小娘の腕を捉えた。
小娘は二の腕を掴まれ不覚にも小刀を落としてしまい、高々と差し上げられた。細い二の腕が軋みだし、悲鳴を上げる。体をばたつかせてもがくが、びくともしない。
厚鹿文はもの凄い形相で小娘を睨みつけ、二の腕を震わせる、このまま握り潰そうとしているのか。と、その時厚鹿文は、ごぼっと咳き込み血へどを吐くと、腕の力が抜けて小娘を落とした。
すたっと降り立って、飛びのく小娘の胸に血糊がべっとりと付いている。途端に巨人は地響きを立てて、仰向けに倒れた。厚鹿文の首からは尚も血が流れ出ている。
傍らで震えながら荒い息をする小娘は、厚鹿文の亡骸に近づき、首飾りをむしり取ると、天に翳して雄叫びをあげた。小碓であった。
八十健達が終末伝説のことも忘れて、一斉に鬨の声を上げた。
小碓が天照大御神の力を借りて乙女に化けて油断させ、その虚を衝いたのであった。浅葱の袍と白絹の支那服はいずれも、社の長者の家に代々伝わる日孁お婆の形見であった。しかし、小碓に日孁お婆が化身してしまったのは偶然の出来事であり、結果お婆の語った言い伝えが現実のものとなった。
この光景を遠く厚鹿文の家の階の陰から、じっと見つめる目があった。今朝方小娘を連れてきた腰の曲がった老人こそ三太夫であった。
また、迮鹿文は厚鹿文が投げつけた棍棒の折れかすを手に取り、しきりに調べている。
翌日、厚鹿文の塚も造り、昨夜の後始末がすっかり終わった広場に皆が集められた。穀物倉庫の楼上で新しい首領の挨拶が始まる。楼上には市乾鹿文、市鹿文姉妹、小碓、それに三太夫が居た。忌まわしい贄台は使わない。
市乾鹿文の側には小碓が立っている。小娘の形をやめて、いつもの着込みの上下姿に素足で、背には愛用の太刀。小碓はいつの間にか耳の上の所で髪を紐で結わえる角髪型に変えていた。そして三太夫は片膝付いて脇に控えている。
昨日の小娘が小碓であったことに、あの用心深くて敏感な迮鹿文ですら気付かなかった。八十健の者達は片手を天に向かって突き上げながら、一斉に歓声を上げている。
市乾鹿文が前に進み出た。
「皆の衆、われらが新しいお頭を紹介しよう」
と声を張り上げた。そして左腕を後ろに広げて、
「これなるは・・」
と、小碓を紹介しようとした、その瞬間、
うっ・・
と言って、市乾鹿文が後ろに倒れかかった。
驚いて小碓が駆け寄り支えるが、胸には深深と矢が刺さっていた。市鹿文も駈けよるが、あまりに突然のことで口が利けないでいる。
歓呼の嵐の中を、
ひゅっ
と、飛んできた矢が胸元を貫いたのである。
小碓が慌てて矢を抜こうとしたが、最早息も絶え絶えで危険だった。
三太夫が素早くあたりを確かめると、群衆から離れた所で迮鹿文が弓を持って立っているのに気が付いた。
矢を抜くことも出来ず、小碓は青ざめた顔をして市乾鹿文を抱いている。既に彼女の息はなかった。そっと亡骸を床に下ろすと、矢を抜いてやった。脇に佇む市鹿文を見上げ、首を一度横に振った。市鹿文が市乾鹿文に縋って泣き崩れた。
小碓は涙を拭い、
きっ
と、唇を噛んで振り返り、
「おのれ、三太夫、誰がやったのだ」と、叫んだ。
「はい、どうやら迮鹿文のようで、ふてぶてしくもまだ弓を持って立っております」
はっとして市鹿文が前を向く、唇を噛んで眉を寄せる表情には、迮鹿文に対する憎悪の様が見て取れる。
立ちあがって階の方に進む小碓は、
「おのれ迮鹿文、なにゆえ市乾鹿文を殺めたか」
と、大音声で怒鳴った。
迮鹿文がゆっくり群衆を分けて近づいてきた。そして小碓を弓で指し示し、
「やい、海童、汝れは卑怯にもあの女と企んで兄者を騙した。酒席で女子の形などしくさりおって」
と、ペッっと唾を吐いた。
「だからあの女を殺した。海童、今度はわいが相手だ、正々堂々と勝負をしろ」
どうやら迮鹿文は昨日の戦いの痕跡を調べたようであった。小娘に扮していたこともそうだが、棍棒の折れ口に変な傷があるのも気付いたことだろう。
視線を落とし、顔を歪めた小碓が三太夫を見る。
「主、御油断召さるな」
「分かっている」
と言って、正面を見た。
「いいだろう、迮鹿文」
大音声で答えると、再び広場の群衆がざわつき、輪になって中央を空け始めた。
階をゆっくり下りる小碓には、厚鹿文の力や素早さなどは頭に入っていた。しかし、弟の迮鹿文の方は知恵があってずる賢く、残虐だということは知っているが、戦っている姿などを見たこともなく未知数だった。剣技も優れ投げ縄と弓が得意という噂は聞き知っていたが、果たしてどれだけの腕の持ち主か。




