三の一
三
翌日から小碓は旅の支度と身辺の整理に奔走した。三日後何とか片付いて、執事の物部蔵人を自室に呼んだ。敷地の北側に東西に長い母屋、その西端、大路側の一角が小碓の部屋である。西日が長く部屋の奥まで入り込み、穏やかな午後であった。
日当たりのよい窓辺に菅畳を敷いて対坐する小碓と物部蔵人。
「蔵人、吾は明日から旅に出る事になった、後事一切は汝に任す。これから当分は汝の主は蒲生首となるゆえ、左様心得よ。近々に挨拶に行くがよい」
「何と申されました?」
驚いて座り直した物部蔵人は、見捨てられたとでも思ったのか、悲しげな貌をして小碓に詰め寄る。
「御子様は屋敷を出ると仰せですか、それは如何なる御所存で御座いましょうや」
「詮無い事だ、帝の命で熊曾征伐に出ねばならん、遥か西南の遠国だ。いつ帰れるか分からん旅だ」
「な、なんと熊曾ですと? それはまた偉い事になったもので御座います・・・」
「ははは、心配致すな。陛下はわが領地の跡目は蒲生首に任すと申していた。じきに収穫祭だ、汝は近江に行って蒲生首の指示に従え」
「左様な心配事では御座いませぬ、御子様の安否を心配しているので御座います」
「分かっておる、吾は必ず凱旋致す。それまでわが領地を守っていてくれ、よいの」
「は、ははーっ、畏まって御座りまする」
熊曾と聞いて、涙して平伏する蔵人である、丸で死出の門出を見送るような顔をしている。涙もろい爺様であった。この五十年配の物部蔵人という爺様は、纏向近くに領地を持つ物部連から派遣された舎人で、彼の妻が小碓の乳母であった。小さい頃から家族同然に暮らしているため、夫婦を両親とも思っている小碓である。
小碓は三太夫一人を連れてまだ暗いうちに旅だった。愛用の丈夫な着込みの上下の上に水干姿、倭姫から授かった玉の小袋を盤領の水干の内側で首に下げている。手足の裾をきっちり紐で結び、深靴を履いている。
秋の季節は短い、すぐ冬となるから、寒さにも備えねばならない。二人とも背中の背負子に干した里芋をどっさり入れた麻袋と、冬用の衣類などを括り付け、朱鞘の太刀も背負い、懐中には愛用の小刀を差している。
髪型は小碓は相変わらず女形に首の後ろで髪をまとめて紐でとめて背に垂らしている。三太夫は平民ふうに天辺に丸髷を作り、紐で結びとめている。
三太夫が艪を操り、小舟で初瀬川を下る、たった二人だけの西征である。
この川は途中から倭川と名が変わり、纏向から川を伝って海に出られることは前述した。古代から水害の絶えない川で、下流の河内辺りでは常にその心配に悩まされ、定住に向かない土地となっている。だからこそ水害の危険の少ない纏向に都を作ったのである。日の本の記録上、四世紀の仁徳大王によって、初めて治水工事の行なわれた川である。
倭族は初めから農耕民族で、縄文の頃のような貝を保存食とする方法を知らない。当時の主食は米や麦と同用に里芋も多かった。里芋の方が米より歴史が古い。干し芋を水で戻して塩を混ぜてこねまわし、平たく伸ばしてから焼けた岩に貼り付けて焼いて食べる。または貝や魚や肉、野菜などと一緒に汁にして食べる事もある。
播磨国までは舟で行く、そこからは陸路をてくてく歩くしかない。
当時の旅はさぞ大変だった事だろう。今のように旅館などというものは全くない、ましてや道すらないところが多かった。食べ物を手に入れるのだって大変である。二人は地図を見て出来るだけ人の住みそうな土地を選んで、計画的に移動することにした。
危険な断崖の峡谷(亀の背峡谷)も通り過ぎ、小碓は舟桁に肘を下ろし、舟縁を枕に仰向けになって居眠りしている。
すると突然、とっくに夜が明けたというのに、急に辺りが暗くなった。
「何だ、どうした、何があった?」
小碓は驚いて起き上がった。
「寝ぼけなすって、何もねぇですよ、いつも見る河内の御神木で」
くくっ、と笑い三太夫はゆっくりと櫂を滑らせる。船底に座ったまま、一本の櫂を左右に持ち替えてはゆっくりと漕いでゆく。急ぐ時は櫂を舟の後ろに取り付けて、立ち上がって艪として使うのである。
「ああ、そうか、それにしても通るたびに見るが、見事な楠だ、辺りが真っ暗になるほど大きい、神々しい木だな」
「どれ、ひとつ拝みますかな」
と、櫂を置いて正座する三太夫、小碓も従う。舟の中で二人は居ずまいを正し、手を合わせて旅の無事を大樹に祈願した。
朝は淡海(淡路島)を隠し、夕は倭を隠すといわれる大木である。この河内の高台の地に育つ大木は、のちに枯野という名の大船の造船に用いられ、仁徳大王の食膳の為に、淡海の御井という井戸の清水を運んだとされる。
やがて船が老朽化したあとは、廃材で琴が作られた。その琴の音が遥か彼方まで響いたという、実に良い音色だったと聞く。かの日枝の湯(雄琴温泉)で聞こえる琴の音は、この舟の廃材で作られた琴だというが、まことかどうか?
昔から見上げるような大きな木には神が宿ると信じられていた。誰しも神などという存在を信じている訳ではないのであろうが、これ程の巨木になり、長い年月生き続けていることを思うと、そこに何か不可思議な力を感ぜざるをえない小碓であった。
日が中天に来た頃、河内湖を抜けて海に出た。出来るだけ陸地に近い浅瀬を這うように通ってきて、明石の海峡に入らず、手前の務古水門で降りた。
…上陸地の務古水門は今の神戸港付近である。明石の海峡は流れが速く、その先は播磨灘である。灘とは航海の危険地帯を意味する言葉である。神戸が港町として栄えていくことが肯ける地形をしている。…
地図を見て海直という明石国の造の屋敷に数日泊めてもらうことにした。
当時明石は漁村として知られている。この時代魚網は川や湖などの浅い水辺で使う刺し網ぐらいしか普及していない。発掘調査で出土する魚網用の重り(石錘)などはたいてい川や湖などの浅い水辺で見つかっている。海辺では銛を持って海に潜り魚を突き刺して獲るか、糸を垂らして釣り上げるかぐらいである。
したがって港の海岸風景は至って閑散としていて、蛸壺用の笊が干してあったり、舟が何艘か置いてあったりするぐらいで、人影は殆んどない。潮干狩りは遠浅の別の浜辺でする。
西日を浴びながら、岩礁の隙間で海藻を採っている貫頭衣姿の子供が居た。小碓達は子供に近づき、海直の屋敷の場所を尋ねようとした。すると小碓達に気付いた子供は、言葉を交わす暇もなく急に駈け出して行ってしまった。
「おい三太夫、どうしたのかな」
「さあてね、驚かせてしもうたようで。子供がいるということは近くに村があるということ。まあ焦らずひと休みしましょうや」
松の木陰で座っていると、しばらくして子供が消えた方角から小太りで背の小さい丸顔の五十がらみの男が転げるように走ってきた。
「旅の方、旅のお方・・・」
側まで来ると、あまり急いできたせいか膝を握り、下を向いて喘いでいる。息が落ち着いたところで話を聞けば、この男こそ村おさの海直だという。走って行った子供は小碓達を見て旅人と思い、村おさに知らせに行った。人の通行が疎らな時代だから、旅人を見ると物々交換の良い相手とみて、皆に知らせるのだという。
男衆は朝早くから漁に出て、女達は芋掘りや畑仕事に出払っている。昼間は子供と爺婆しかいないというので、海直自らが出迎えに来たのであった。
海人達の村おさだというのに、何か商人のような姿。目が点のように小さく、体全体が丸っこい。既に髪は消え失せ、ずるっ禿げで、髭も生えていない。単衣の上に直垂姿、丈の短い褌を穿いている。
小碓が身分を明かし、西国まで旅に出ることを告げると、旅の困難を思ってか、海直は小さな目を一層小さくして驚いた。また、頻りに懐かしがってもいた。道々海直が話すには、わが屋敷は帝が大妃を妻問いする際に、定宿とした家で、帝も大いに気に入ってくれたという。まん丸の顔に小さな目のせいか、表情が分かりにくいが、大らかで人懐っこい人物である。
海直に連れられて、海辺に近い小高い丘(人丸山)に登って行く。一面平地ばかりの土地にあって、この丘だけが小山を形成している。ここはずっと下って江戸時代に明石藩の城域となった小山である。
坂を螺旋に登って行くと、松の木があちらこちらに生い茂り、瀬戸の海風に乗って、きな臭い臭気が漂ってきた。炊きの匂いであろうか。三人とも気にも留めずに登って行くと、対岸に大きな島がくっきりと見えてきた。
ふと三太夫が立ち止まって指を差した。
「あの島は淡海ですな。明石の海峡も一望ですな、実に風光明美なところで御座るな」
「左様で御座いましょうとも、ははは。わしらはこの山から南の淡海に毎朝拝んでおりますのや」
「淡海は神の島でしたね、聞いたことがあります」
小碓は倭姫からよく聞かされた神話の世界を思い出していた。
「よお御存知ですな、日の本を作られた偉い神様の住む所と伝わります。ささ、まだ道のりがようけあるさかい、先に進みまひょ」
今も神様が御座なすかどうかは分からないが、淡海は神聖な島ゆえに誰も立ち入れない事になっている。そしてその延長上の四国をも神域とされていた。
登っていくと所々に段々畑と伏屋根の建物が目に付く。萱葺きの伏屋根建物には、蓋のような取り外し型の入口があり、煮炊きした煙を外に排出する三角形の天窓がある。また側面にも数ヶ所、明かり取り用の突上げ窓が付いている。
畑で腰を曲げて作業をしている女達が居て、家の周りでは小さな子供らが年寄りにあやされている。
「平地には水害が怖いので家を作らないのですわ。ほら、あの高台に立つ家がわての住まいですわ」
うっすらと汗をかいて、ようやく辿り着いた。村おさの屋敷はこの小山の頂上に建っていた。平屋で高床の切り妻屋根の建物。高台なので水害の心配はなさそうなのに高床なのは、虫や小動物を家に上げないためである。床下の柱に鼠返しを設けてある。
女丁に部屋へ案内され、荷を解いた。突上げ式の出窓から海の様子が一望に出来る。港では数人乗った小舟が続々と帰って来るのが見える。
海直が盆に水入れの壺と土器の茶碗を載せてやって来た。
「これは水差しですさかい、乾いたら潤して下され」
盆のまま出窓の所に置くと、軽く九拝し、
「改めまして、よぉお出でなさった、小碓命、それに三太夫はん」
「はい、今宵の宿を、有り難く思います」
と、小碓達も九拝した。
「いえいえ、大歓迎ですわ、いつまででも居てもろうて構わへんさかいに。それにしても、お若いお二人で西国までの旅とは、大変で御座いますなぁ。いっそ船で行ってはどないだす、お貸し致しますが」
「いいえ、帝からは国の様子を隈なく見てまいれと命じられましたので、有り難いのですが、その儀はなりません」
「ははぁ、そんなもんやろか。まあ大した持て成しもなりまへんが、海の幸でも味わっていって下され。どうだす、食事の用意が整うまで、お湯にでも入っては如何で。ここには温泉(明石温泉)が御座ります、露天でしてな。湯に浸かりながら海の向こうに淡海の島が見えましてな、それはもう風流な所で御座いますぞ」
「湯ですか、それは有り難い。さっきの臭いは温泉の臭いだったのですね。では湯でも頂いて旅の垢でも落とすことに致します。これ三太夫も参れ」
「結構ですな」と、三太夫。
「ちょいと、誰か、温泉まで案内しておくれ」
と、後ろを向いて海直が人を呼んだ。
女丁に案内されてまた螺旋の坂を下りていく。最前子供がいた辺りの岩礁の少し先に、葦簀で囲まれた小屋らしきところがあった。誰でも入れる露天の温泉である。
女丁が着替えの肌着(浴衣のようなもの)と手拭いを二人に渡すと、
「ごゆっくり」と言って、戻って行く。
既に何人か入っているらしい。なにやら若い娘の声がする。
現在は違うが温泉という所は昔は男女混浴が当たり前だった。尤もこの頃の湯浴みは肌着を着て入る。男は短褌、女は丈長の単衣。脱衣所は別になっている。
室内の温泉ほどではないが、海に面した側を除いて葦簀で仕切られているせいか、露天でも結構な湯気の量で、一メートル先が見えない。これではさほど気にせずに入れるだろう。湯を桶ですくって軽く体を洗ってから十メートル四方ほどもある岩で囲まれた温泉に浸かった。湯の中にはあちこちに岩の塊がある。
「ああ、いい気分だ、三太夫、旅は温泉巡りに限るな、体の疲れが取れて実にいい気分だ」
「そうですな、ははは、それにしても絶景とかゆうてましたが、湯気で何も見えませんな」
すると、すぐ側に若い女達の声が近づく、すぐ後ろ脇の岩陰まで寄って来た。単衣の薄衣一枚を着て、手拭いで髪を纏めている。岩陰越しに立ちあがり、火照った赤い顔が二つ、にゅぅっと現れた。
「あれ、えろぉめんこいお兄さんだこと」
岩に寄り掛かるようにして、小碓に話し掛けてきた。
「旅の方かね、どっから来なすった?」
単衣を着ているとはいえ、湯に浸かっているから肌が幾分透けて見えてしまう。もう一人の年下の女も珍しがって小碓達を見つめている。
「あ、ええと、その、東の方からです、纏向から・・・」
まだ若い女性に対して免疫のない小碓が少し恥ずかしそうに話し出した。
「へえ、纏向の人かえ、そんじゃあ近くだ、湯にでも浸かりに来なすったかえ」
「い、いや、旅の途中でして、ずっと西の果てまで向かいます」
「へぇー、それは大変だぁ、こんな若い衆が・・・そっちの人と二人でかえ」
「はい、そうです・・・」
小碓は視線のやり場に困りながらも、俯きつつ話しを合わせる。
「お姐さん達はこの辺の方ですか」
「わてはここのもんだ、酒造りの家の一人娘。小さい頃にずっと東の国からここに引っ越して来ただよ。珍しかんべ、酒造りだなんて。この辺じゃ、わてのお父うが酒造りの名人でなぁ、皆の分まで酒造ってやってるだよ。この人は山奥の堲岡というとこのもんだわ、わての亭主の妹さんでな。わてはこないだ祝言あげただよ。亭主はわてのお父うの弟子だがね。そんで今しばらくこっちにな・・・」
酒屋が登場したのは鎌倉時代である、それまでは皆自分の家で作っていたに違いない。
同様に鎌倉時代頃までは、尾張より西側では妻帯という習慣がないと言われる。女の家に夜中に通って行って逢瀬を楽しむ。子が出来れば男は養育の義務を負う、継嗣にする事もあったろう。しかしこれは貴族など身分の高い人の場合であって、一般庶民ではどうであろうか。農作業などをするのに一人ものばかりでは仕事にならない、家族がいるはず。




