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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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9/22

その世界に足を踏み入れる

 定時を少し過ぎた頃、フロアの人影は半分ほどになっていた。

 自分の案件は、今日の分を終えている。

 いつもなら、ここで帰る。帰って、明日に備える。

 そうやって“普通”は回っていた。


 それでも今日は、席を立つ気になれなかった。


 隣では黒川が、相変わらず画面を見つめている。

 モニターには英字と数字の羅列。黒い画面に白い文字が流れている。ログだ。

 自分の仕事とは、明らかに質量が違う世界。


 水瀬は椅子を少しだけ寄せた。

「……どう?」

 黒川は目を離さないまま答える。

「構成、まだ安定しない」

 短い言葉の裏に、疲労が滲んでいる。

「さっきの会議、正直どう思った?」

 黒川がそこでようやく視線を上げた。

「どうって?」

「俺が入るって話」

 驚きはない。

 会議室で共有された事実だ。

 黒川はしばらく水瀬を見つめ、それから小さく息を吐いた。

「……悪いな」

「何が?」

「お前、今の案件終わったらこっち来るんだろ」

 声の奥に、わずかな硬さがある。

「俺のせいで巻き込んでるみたいだ」

 その言い方が、思っていたよりも重かった。

「巻き込まれてないよ」

 水瀬はログに視線を戻す。

「決まったことだし。それに、一人より二人のほうがマシだろ」

 黒川は少しだけ目を細めた。

「新人二人だぞ」

「だからこそだろ」

 軽く言ったつもりだったが、笑いにはならなかった。


 黒川は画面を指差す。

「正直さ、今構成が崩れてる」

「崩れてる?」

「想定してたサーバ台数じゃ足りない。でも増やすとネットワーク設計から見直し」

 簡易構成図が表示される。

 線が交差し、整理されているようで、どこか不安定だ。

「昨日も負荷テストで落ちた」

「落ちた……?」

 水瀬がそう返すと、黒川は画面を切り替えた。

「タイムアウトだ」

 断言だった。

「ログは出る。でも原因がはっきりしない」


 error

 timeout

 connectionrefused。


 無機質な文字列が並ぶ。

「レビュー相手いないとさ、自分の判断が正しいか分からなくなる」

 その言葉は静かだった。

 水瀬は椅子を引き、画面を覗き込む。

「ログ、最初から追ってみよう」

「分かるのか?」

「分からない。でも一緒に見れば何か拾えるかも」

 二人で画面を追う。

 スクロール。時間。IP。ステータスコード。

 沈黙はある。だが孤立ではない。


「ここ」

 水瀬が指す。

「この前、レスポンス遅れてる」

 黒川の手が止まる。

「……DBか」

 設定を開く。

 max_connections。

 数値が想定より小さい。

「盲点だった」

 黒川が小さく笑う。

「一人だと見えなくなる」

 テストを再実行。

 数値が安定する。

 タイムアウトは出ない。

 そのとき、背後から声がした。


「おい」

 村瀬だった。

「今日はもう帰りな」

「でも……」

「まずは今の案件を終わらせることに集中しろ」

 その言葉に、水瀬ははっとする。

 浮ついていた。

 次ばかり見ていた。

「……すみません」

 黒川に向き直る。

「今日は先に上がる」

「今の案件、ちゃんと締めろよ」

「うん」

 執務室を出るとき、ガラス越しに村瀬が黒川と何か話している姿が見えた。

 黒川は頷き、再びキーボードを叩く。


 ビルを出たのは二十三時だった。

 夜の空気が重い。

 肩が鉛みたいに固い。

 帰り道は暗い。

 閉まっている店が多く、通りの灯りもまばらで、いつもの道が少し違って見えた。

 定時で帰る日は、まだ人もいて、コンビニの前にも誰かしら立っている。

 今日の空気は、静かすぎる。

 電車に揺られ、乗り換え、また揺られる。

 窓に映る自分の顔が疲れて見える。

 家に着いたのは零時半だった。

 鍵を開け、玄関に入った瞬間、全身から力が抜けた。

「……疲れたな」

 学生の頃、バイトや友達と遊んで、この時間に帰ることはあった。

 けれど、朝から働いて、仕事でこの時間――それは初めてだった。

 同じ“深夜”でも、身体の重さがまるで違う。

 コンビニで買った晩ご飯を温める。

 机に並べて、箸を取る。

 食べ始めると、ちゃんと空腹だったことに気づく。

(ああ、今日は本当に動いてたんだな)

 味がしないわけじゃない。

 ただ、いつもよりぼんやりしている。

 噛んで飲み込んで、胃に落ちていく感覚だけが確かだった。

 風呂に入る。

 湯に浸かると肩が少し緩むが、頭の奥はまだ回っている。


 max_connections。

 タイムアウト。

 構成図。


 風呂から上がると二時を回っていた。

 学生の頃、バイトや友人と遊んで夜遅くなることはよくあった。

 でも、朝から働いてこの時間は、まったく別物だった。

 身体の芯が重くて、頭だけが変に冴えている。

 “寝れば回復する”という感覚が、今日は少し頼りない。

 布団に入る。

(今の案件、早く終わらせなきゃ)

 そう思ったところで、思考は途切れた。

 眠気が一気に押し寄せる。

 次に気づいたときには、もう眠っていた。


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