進捗いかがですか
翌日、午前十時。
会議室Aの壁面モニターには、オンライン会議の待機画面が映っていた。薄い青の背景に、参加者の枠だけが並んでいる。
参加者は以下。
先方インフラ責任者:森本
先方担当:吉岡
第二開発部:高橋、黒川、水瀬
水瀬は会議室の端に座り、ノートPCを開く。メモ画面を立ち上げ、入力欄を空のままにしてカーソルを点滅させた。
ただ待っているだけなのに、指先が少し冷たく感じる。
(今日は、聞いてメモを取るだけ。そういう役割だ)
自分に言い聞かせてみるが、胸のあたりに張りつく緊張はなかなか消えない。
黒川はモニター正面寄り、部長の高橋はその隣。二人とも背筋が崩れていない。普段のフロアと同じ姿勢なのに、会議室だと妙に“覚悟”に見えるから不思議だった。
接続音が鳴る。
ピロン。
画面に先方の顔が並ぶ。インフラ責任者の森本。表情は穏やかだが、目の動きが速い。隣に担当の吉岡が映り、軽く会釈した。
「おはようございます」
挨拶は丁寧だった。
しかし、そのあとに続く言葉の温度が、最初から低い。
「では、早速現在の進捗を教えていただけますか」
森本の声は落ち着いている。落ち着いているからこそ、質問が“確認”ではなく“査定”に聞こえる。
黒川が一呼吸置き、資料を共有した。
「はい。現状、インフラ構成の最終調整を進めています。
昨夜の負荷テスト結果を踏まえて、接続数周りの設定と、ボトルネック候補の洗い出しを行いました」
モニターに構成図が映る。Web、AP、DB。矢印が交差し、数字が添えられている。
水瀬は画面を追うが、全部は理解できない。それでも、黒川の説明が“綺麗に”整えられているのは分かった。整えて話さないと、この場の空気に飲まれる。そういう緊張感がある。
「なるほど」
森本が頷く。
そのまま一拍置いてから、森本は続けた。
「一点、こちらから相談があります。昨夜、役員レビューがありまして」
水瀬は無意識に背筋を伸ばす。
この前置きが来たとき、話が軽くなることはほとんどない。
「想定アクセス数を、現状の1.5倍に引き上げたいという話が出ています」
黒川の表情がわずかに固まった。ほんの一瞬、目が細くなる。
水瀬はその変化を見逃さなかった。数値の話なのに、これは“依頼”というより“条件変更”だ。
「……影響範囲の確認が必要です」
黒川が言う。声は落ち着いているが、言葉の選び方が慎重になっている。
「現状の構成前提が変わる可能性があります。増設が必要になれば、設計の見直しや再試験の工数も発生します」
森本は頷き、少しだけ視線を下げた。何かを確認しているように見える。
「その点は理解しています。
もしサーバ増設などが必要になる場合、費用が上がることも想定しています」
そこで一度、言葉を区切る。
「概算で構いませんので、影響範囲と費用感を整理いただけますか。こちらでも、社内決裁の準備が必要でして」
黒川は答えかけ、ほんの一瞬だけ部長を見る。
その視線に“相談”の色はない。ただ、判断の責任を正しい場所に置くための確認だ。
高橋が静かに口を開いた。
「承知しました。
本日中に方向性を整理し、明日午前中までに一次回答をお送りします」
森本が短く頷く。
「助かります」
そこから先は、形式の確認が続いた。
「次回定例は金曜で問題ありませんか」
「問題ありません」
「議事録は御社で」
「はい、こちらで作成します」
淡々としたやり取りなのに、会議室の空気は軽くならない。
最後に森本が会釈し、画面が一つずつ消えていく。モニターが暗転した瞬間、空調のサーッという音だけが残った。
しばらく、誰も動かなかった。
「……1.5倍、か」
黒川が小さく言い、ペンを机の上で転がす。
たった四文字の“か”が、重かった。
高橋は椅子に座ったまま、黒川を見て言った。
「方向性の整理には杉本にも入ってもらう。合間を見て、こちらから声をかける」
それから視線が水瀬へ移る。
「水瀬くん。いつから入れる?」
胸が一瞬だけ詰まる。
自分の案件は終盤とはいえ、まだ残っている。だが、“残っている”と言った瞬間に、ここでの信用が目減りする気がした。
水瀬は息を吸い、腹の底で言葉を固める。
「……今日中に、いまの案件を終わらせます」
口に出した瞬間、現実味が増す。
高橋は頷いた。
「よろしく頼む。終わり次第、黒川と合流してくれ。」
午後。
水瀬は自席に戻り、画面と向き合い続けた。
チェック、修正、確認。やること自体は難しくない。だが、終わらせるためには“止まらないこと”が必要だった。
時計を見るたび、時間が削れていく。
夕方になっても、終わる気配が薄い。集中しているはずなのに、作業の合間に会議室の言葉がよぎる。
——本日中に方向性を整理。
——費用感も含めて。
ふと視線を上げると、黒川の席に杉本が立っていた。
二人はモニターを覗き込みながら、短い言葉を交わしている。
「この構成なら、まだ持つ」
「DB側、逃がしますか」
「先に接続数。落ちるならそこからだ」
専門用語の断片が飛ぶ。
水瀬は理解できる部分だけ拾いながら、手元の作業を続けた。今は、とにかく自分の案件を終わらせる。それしかない。
十八時を少し回った頃。
黒川が席を立ち、短く言った。
「方向性、送ります」
その声には、迷いがなかった。
数分後、先方にメールが飛んだのだろう。黒川が席に戻り、杉本が腕を組んで問いかける。
「これから構成を組んで、テストまでだ。いけるか」
黒川は少しだけ口角を上げた。
「終わらせます」
そして、何事もなかったようにモニターへ戻っていく。
“終わらせます”という言葉が、決意というより習慣に聞こえた。
水瀬が自分の案件を終えたのは、日付が変わったあとだった。
0:03。
フロアにはもうほとんど人がいない。
画面を閉じた瞬間、肩の力が抜ける。
疲労が、遅れて全身に乗ってきた。
水瀬はメールを作り、杉本宛に送る。
——本日の作業、完了しました。明日朝、最終確認します。
送信。
それから、黒川の席へ向かった。
「……どこまで進んだ?」
黒川は画面から目を離さず、短く答える。
「インフラの構築が終わったところ」
「じゃあ、まだ試験だね」
「まだまだ」
その“まだまだ”は、愚痴ではない。
事実の報告だった。
水瀬は椅子を引き寄せ、黒川の画面の端に目を落とす。
ログ、設定、数字、時間。目が滑りそうになるのをこらえながら、二人で同じ画面を見る。
時計は二時に近づいていた。
黒川がふいに椅子を引いた。
「コンビニ、行こうぜ」
それは命令でも提案でもなく、単純な“必要”に聞こえた。
水瀬は頷く。
夜中のコンビニは、昼とは違う音がする。
自動ドアが開くと、店内の蛍光灯がやけに白くて眩しい。客はほとんどいない。レジの前だけが、妙に現実的だった。
水瀬は夜食のパンを選び、黒川はおにぎりとコーヒーを手に取った。
会話は少ないが、沈黙が重くない。むしろ、こういう沈黙が今はちょうどいい。
店を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
黒川が缶コーヒーを持ち直し、ぽつりと言う。
「ありがとな」
水瀬は少しだけ戸惑う。
「……何が?」
「残ってくれてること」
黒川は前を向いたままだ。
「一人だと、さすがにキツい。判断が、だんだん怖くなる」
水瀬は短く息を吐き、笑う。
「僕、まだ分からないことだらけだけどさ」
「分からないなら、一緒に分からないって言える。
それが助かる」
黒川はそう言って、歩き出した。
「夜食食って、もう一踏ん張りだな」
二人は会社のビルへ戻っていく。
街は静かで、通りは暗い。閉まっている店が多く、明かりが少ないせいで、いつもの道が別物に見えた。
それでも、足は止まらない。
モニターの白い光が、まだ自分たちを待っている。




