表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/23

ランチで漏れた本音

 昼休みの少し前。

 水瀬は手元の作業が一区切りついたところで、ふと隣の席を見た。

 黒川は相変わらず画面に向かっている。

 キーボードの音が、他の誰よりも一定で、速い。

(昼、行かないのかな)

 昨日までなら「忙しいのか」で済ませていた。

 でも今日は違う。村瀬から聞いた話が、まだ頭の奥に残っている。

 “入院”。その二文字が、簡単には薄れてくれない。

 水瀬は迷ってから、声をかけた。

「黒川。……昼、行く?」

 黒川は一拍遅れて、ようやく画面から目を離した。

「……ああ。行くか」

 それだけだった。

 拒否でも同意でもない、どちらでもない返事。

 それでも黒川は席を立った。

 立ち上がる動きが、ほんの少し遅い。

 椅子が床を擦る音が、小さく鳴る。


 近くのレストランは、会社員で混んでいた。

 ドアベルがチリンと鳴り、店内は油とコーヒーの匂いが混ざっている。

 昼の喧騒。食器の音。店員の声。

 ここだけ、時間が普通に流れているように見える。

 水瀬は唐揚げ定食を選び、黒川は迷わず日替わりカレーを頼んだ。

 黒川は「早いもの」を選ぶ癖がある。

 いつも、時間を節約する方を選ぶ。

 席に座っても、黒川はしばらく黙っていた。

 スプーンが皿に当たる音だけが、妙に目立つ。

 水瀬は話題を探して、いちばん無難な方向に寄せた。

「……最近、ずっと忙しそうだよね」

 黒川の手が、一瞬止まった。

 それから、ほんの小さく息を吐く。

「忙しいっていうか……」

 言いかけて、黒川は言葉を探した。

 スプーンを置いたまま、ぽつりと言う。

「終わりが見えないんだよな」

 水瀬の胸が、少し締まる。

 自分の案件は、ゴールが見えてきた。

 だから安心できていた。

 その感覚と、真逆の言葉だった。

「……終わり、見えない?」

「スケジュールはある。でも、前提が崩れてる」

 黒川は目を伏せたまま続ける。

 声は落ち着いているのに、そこに疲れが混じっている。

「“これでいける”って置いた見積りが、いまの状態に合ってない。……でも動かせない」

 水瀬は黙る。

 “動かせない”の一言が、やけに重い。

 正論の世界で、感情を動かせなくなる瞬間があることを、その言葉が示していた。

「人が抜けたのに、同じ速度で進めろってさ」

 その言葉は、愚痴の形をしていた。

 でも水瀬には“事実”に聞こえた。

 黒川は笑うでもなく、怒るでもなく、ただ淡々と言う。

「俺が頑張れば埋まる、って空気になるのが一番きつい」

 水瀬は、うまく返せなかった。

 慰めの言葉は軽くなるし、同意すると火に油を注ぐ気がする。

 けれど黙ったままだと、黒川の言葉が床に落ちていく。

 その“落ちる音”を聞くのが、怖かった。

「……ごめん。こんな話」

 黒川が先に折れた。

「いや、いいよ。……話してくれて、ありがとう」

 水瀬はそう言うのが精一杯だった。

 本当は、「何か手伝える?」と言いたかった。

 でも、言えなかった。

 自分が何を手伝えるのか、具体的に想像できなかったからだ。

(僕は、何もできない)

 それが、いちばん刺さった。


 会計を済ませ、店を出る。

 風が頬に当たり、昼の熱が少しだけ冷める。

 そのタイミングで、村瀬がちょうど自販機の方から歩いてきた。

「あれ、二人で昼か。珍しいじゃん」

 村瀬の声は軽い。

 だが水瀬は、その軽さに救われる余裕がなかった。

 黒川が先にフロアへ戻っていくのを見送り、水瀬は村瀬に小さく近づいた。

「村瀬さん……黒川のことなんですけど」

 村瀬の表情が、すっと変わる。

 軽さが薄れて、仕事の顔になる。

「……話した?」

「少しだけ。終わりが見えないって」

 村瀬は一度、視線を逸らした。

「そうだろうな……。今、あいつが抱えてるの、かなり重い」

「僕、何かできることありますか」

 水瀬の口から、その言葉が出た。

 自分でも驚くほど、素直な声だった。

 村瀬は、すぐには答えなかった。

 少し考えてから言う。

「今すぐ分担できる作業は少ない。正直な」

 そこで一拍置いて、村瀬は言い方を変えるように続けた。

「でも、水瀬くんが話を聞ける距離にいるの、かなり助かると思う」

「……話を、聞ける距離」

「無理に励ますとか、正しいこと言うとかじゃなくていい。

 “吐き出せる相手がいる”ってだけで、耐え方が変わるから」

 水瀬は喉の奥が少し熱くなるのを感じた。

 それは救いでもあり、同時に重さでもあった。

 “聞くだけ”でいいのか。

 でも、聞ける人間が必要だと言うのなら――

 水瀬は小さく頷いた。


 定時。

 水瀬は今日の作業を終え、帰り支度をする。

 黒川は席に残っている。

 いつも通りの光景。

 でも今日は、胸の奥がざらついた。

(申し訳ないな)

 自分は帰る。

 黒川は残る。

 会社の方針だとか、配分だとか、正論はいくらでも浮かぶ。

 それでも、“同じ日に入った同期”という事実が、罪悪感を増幅させた。

「お先に」

 声をかけると、黒川は目線を上げずに返した。

「おつかれ」

 それだけだった。

 淡々とした声。淡々とした背中。

 その淡々が、逆に怖い。


 家に帰る。

 玄関の鍵を開け、靴を脱いだ瞬間、力が抜けた。

 部屋の匂いがする。静けさがある。

 “自分の場所”に戻ったはずなのに、頭の中は会社のままだった。

(黒川、大丈夫かな)

 コンビニで買ってきた惣菜をテーブルに並べる。

 箸を伸ばしながら、ふと冷蔵庫を開けた。

 中は、驚くほど空いていた。

 学生の頃は、自炊もしていた。

 野菜を切って、肉を焼いて、洗い物をして。

 それが“普通”だった。

 でも仕事が始まってから、体力が少しずつ削られていった。

 帰る。食べる。風呂。寝る。

 そのサイクルを回すだけで、日々が終わる。

 冷蔵庫の中に並んでいるのは、飲み物と、消費期限の近い何か。

 自炊してると自慢できるような食材は、ほとんどない。

(……僕ですらこうなんだ)

 水瀬は、ふと想像してしまう。

(もし、僕が黒川の立場だったら?)

 会社に早く来て、夜遅くまで残って、終わりの見えない案件を抱えて――

 考えた瞬間、背筋が冷たくなった。

(やめよう)

 想像を途中で切った。

 怖くなって、やめた。

 代わりに、別のことを決める。

 惣菜を食べ終えると、机にノートPCを開いた。

 学生の頃から続けている勉強がある。

 毎日じゃない。完璧でもない。

 それでも、ここで手を止めたら、二度と戻れない気がした。


 エラーの調べ方。

 ログの読み方。


 知らない単語をメモして、次の日に誰かに聞けるように整理する。

 ほんの少しだけ、明日の自分を助けるための作業。

 画面を見ながら、ふと黒川の顔が浮かぶ。

 黒川は今も、あの席でキーボードを叩いているのだろうか。

 その想像が、また胸をざらつかせる。

(今の僕にできるのは、せめて“できる範囲”を増やすことだ)

 自惚れじゃない。

 自信もない。

 でも、ここで諦めたら、これからのエンジニア人生に不安が残る。

 そんな気がした。

 歯を磨き、布団に入る。

 目を閉じる直前まで、黒川の背中が頭に浮かんだ。

 その背中を追いかけるみたいに、水瀬もまた、明日へ向かう準備をした。

 眠りは、深くはなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ