ベテラン社員が倒れた
その話は、会議でも朝礼でもなく、廊下で聞いた。
午前中の作業がひと段落し、水瀬は自販機へ向かった。
缶コーヒーを買い、エレベーター前の壁にもたれてプルタブを開ける。
炭酸の抜ける小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「水瀬、ちょっといい?」
背後から声がかかる。
振り向くと、村瀬だった。
いつもの軽い調子ではない。声が少し低い。視線も、どこか慎重だ。
「……共有というか、状況の話なんだけど」
廊下には他に誰もいない。
フロアの喧騒が、ドア一枚向こうで遠く聞こえる。
その“ドア一枚”が、妙に厚く感じられた。
「黒川が入ってる案件のベテランの人、体調崩してさ」
水瀬の胸が、わずかにざわつく。
黒川の案件。
その言葉だけで、すでに重い。
「腹痛で病院行ったら、検査で“穴が空いてた”って」
村瀬は目を伏せる。
「急遽入院。しばらく戻れない。退院してもしばらくは休職になる見込み」
言葉は淡々としている。
だが、その内容は重い。
“穴が空いてた”。
医学的な詳しい説明はない。
でも、その言い方で十分だった。
「……そんなに、悪かったんですか」
「らしい。無理が続いてたみたいだな」
村瀬はそれ以上を言わない。
誰が、どれくらい無理をしていたのか。
どこまでが仕事で、どこからが個人の問題なのか。
その境界線は、誰も口にしない。
言わなくても、想像はできるからだ。
「で、その案件なんだけど」
村瀬が続ける。
「止められない」
短い一言。
水瀬は、反射的に「ですよね」と言いそうになって、飲み込んだ。
その一言が、軽くなりそうだったからだ。
「先方との調整も進んでるし、スケジュールも動かせない。……だから、今は黒川が一人で見てる状態」
“見てる”。
その言い方が引っかかる。
作業をしている、ではなく。
担当している、でもなく。
抱えている、に近い響きだった。
「フォローは入るんですよね?」
思わず聞いてしまう。
「もちろん考えてる。でも、すぐ全部を分けられるような内容じゃない」
村瀬は言葉を選ぶ。
「引き継ぎってさ、資料渡せば終わりじゃないだろ。頭の中の前提ごと移すのが一番時間かかる」
つまり、今はまだ一人。
そして、その“一人”が黒川だ。
自販機の缶が、手の中で冷たくなる。
(……一人で?)
構成図。ログ。英字の並ぶ画面。
あの光景が頭に浮かぶ。
水瀬は、言いかけてやめた。
「僕、何か――」
その先を、飲み込む。
自分が何を手伝えるのか、具体的に想像できなかった。
「黒川には、まだ言ってない」
村瀬がぽつりと付け足した。
「様子見て、タイミングで話す」
水瀬は小さく頷いた。
廊下の空気が、少し重い。
ドアの向こうのフロアが、別の世界のように感じられた。
フロアに戻ると、黒川は席にいなかった。
モニターはついたまま。
ターミナル画面が開きっぱなしで、ログが途中で止まっている。
カーソルが、一定の間隔で点滅している。
(どこ行ったんだろう)
いつもなら気にも留めない光景が、今日は妙に意味を持って見える。
ほどなくして、黒川が戻ってきた。
エレベーター側の通路から、静かに。
歩き方が、少しだけ遅い。
椅子に座る動作が、ほんのわずか重い。
顔色が、はっきり悪い。
目の下に影がある。
何も知らなければ「忙しいんだな」で済んだかもしれない。
でも、今は違う。
「……大丈夫?」
思わず声をかけると、黒川は一瞬だけこちらを見る。
「ああ」
それだけだった。
視線はすぐ画面に戻る。
詳しい話はしない。
できないのか、する気がないのか。
あるいは、話す余裕がないのか。
画面には、英字と数字がびっしり並んでいる。
構成図、設定ファイル、ログの山。
たまに、深く息を吐く音が聞こえる。
キーボードを打つ指が、ほんの少し強くなる瞬間がある。
(あれを、一人で?)
さっき聞いた言葉と、目の前の光景が重なる。
水瀬は、自分のモニターに視線を戻す。
自分の仕事は、今日やる分が決まっている。
終わりも見えている。
それなのに、隣の席の気配が気になって集中が揺らぐ。
定時。
水瀬は帰る。
黒川は残る。
光景は変わらない。
けれど、意味が違って見える。
“残業している人”ではなく、
“抜けた穴を埋めている人”に見えた。
それは仕事量の問題ではなく、責任の問題だった。
エレベーターの鏡に映る自分を見る。
疲れてはいる。
でも、壊れてはいない。
仕事は増えたが、期限は守られている。
自分の時間は、まだ自分のものだ。
だが今日、初めて思う。
(同じ“仕事”でも、重さが違う)
同じ会社。
同じフロア。
同じ新人。
それなのに、背負っているものが違う。
その日から、フロアの空気は少しだけ変わった。
誰も口には出さない。
でも、誰かが抜けた隙間が、見えない風のように広がっている。
椅子の数は変わらない。
机の配置も変わらない。
けれど、どこかに“空白”ができた。
まだ誰も気づいていなかった。
これが、ただの欠員では済まないことを。
そして、その穴が、別の誰かの中にも空き始めていることを。




