表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/23

黒川が忙しすぎる

 案件は、確実に終わりに向かっていた。

 自分のタスクは、毎日少しずつ減っている。

 修正。確認。最終チェック。

 どれも、「終わらせるための仕事」だった。

 画面を見ればゴールは見えている。

 あとは順番に潰していくだけだ。

 不思議なもので、終わりが見えると人は余裕が出る。

 余裕が出ると、今まで見えなかったものが見える。

 だからこそ――隣の席が気になり始めた。


 黒川は、あまり席を立たない。

 席に座ったまま、背中をほとんど動かさない。

 キーボードを叩く手だけが、ずっと一定の速度で動いている。

 午前中、フロアの空気がまだ「普通」な時間帯でさえ、黒川の画面だけが別の温度を持っているように見えた。

 淡々と、しかし休みなく切り替わる画面。

 黒い背景。白い文字。細いウィンドウがいくつも並ぶ。

(……これ、画面修正じゃないよな)

 社内システムの修正とは違う。

 自分が触っている世界より、もっと“底の方”を扱っている感じがした。


 昼休み。あちこちで椅子が引かれ、

 「行ってきます」と小さな声が交わされる。

 フロアの空気が、少し軽くなる。

 黒川だけが画面に向かったままだった。

 席を立つ気配すらない。

 キーボードを打つ音だけが、一定のリズムで続いている。

「……昼、行かないの?」

 水瀬が声をかけると、黒川は視線を画面から外さないまま答えた。

「あー、あと少し」

 その言い方は軽い。

 だが、その「あと少し」がどれくらいなのかは分からない。

 水瀬は外へ出る。

 コンビニで適当に買い、近くの公園のベンチで急いで食べる。

 戻ってくると、フロアはまだ半分ほど空いている。

 黒川は、同じ姿勢だった。

 画面には英字と数字が並び、ログが流れている。

 机の上のペットボトルは、ほとんど減っていない。

(……動いてないのか?)

 いや、違う。

 動いている。

 ただ、時間の進み方が違う。


 午後。

 自分の作業が一段落し、ふと隣を見る。

 黒川のモニターには、見たことのない構成図が表示されていた。

 サーバ名。

 番号のついた一覧。

 矢印で繋がれた箱。

 そして、小さな文字でびっしり書かれた注意書き。

 社内システムの画面とは違う、どこか“外”の匂いがする資料だった。

(あれ……こんなのやってたっけ)

 聞こうとして、やめた。

 忙しそうだったから、ではない。

 “今の自分が知らなくていい領域”に触れそうな気がしたからだ。

 知らなくていい、というより、知らないままの方が自分を守れる気がした。

 踏み込んだら、戻れなくなる。

 そんな予感が、なぜかあった。


 定時。

 水瀬は今日の作業を終え、PCをシャットダウンする。

 背もたれに体を預けると、ほっと息が抜けた。

 隣を見る。

 黒川はまだ座っている。

 画面に映る文字列が速い。

 目線が、少し険しい。

「先、上がる?」

 声をかけると、少しだけ間があった。

 返事を探している時間というより、頭の中の何かを切り替えている時間に見えた。

「うん。今日は無理」

「……そっか」

 理由は聞かなかった。

 聞かなくても、説明される類の話ではない気がした。

 それに、理由を聞いたところで、自分が何かできるわけでもない。

 その無力感が、質問を引っ込めさせた。


 それから、エレベーターで一緒になることはなくなった。

 朝、席に着くと、黒川はすでに来ている。

 夜、帰るときには、まだ残っている。

(いつ来て、いつ帰ってるんだろう)

 数日経つと、その疑問は少しずつ現実味を帯び始める。

 目の下の影が、前より濃い。

 声のトーンが、少し低い。

 たまに返事が遅れる。

 たまに、質問に対して必要以上に短くなる。

 黒川の“クールさ”は、元々そういう性格だからと思っていた。

 でも今の黒川は、クールというより、余計なものを削っている。

 削らないと回らない。

 そんな感じがした。

 それでも、仕事は止まらない。


 昼過ぎ、村瀬が小声で言った。

「黒川、今ちょっと別案件入っててさ」

「別案件、ですか?」

「うん。インフラ系。急ぎらしい」

 それだけだった。

 説明も、背景もない。

 ただ“急ぎ”という単語だけが、妙に重く残った。

 急ぎ。

 その言葉は、期限が迫っているという意味だけじゃない。

 誰かが今すぐ困っている、という意味にも聞こえる。

(同時並行……?)

 水瀬は自分のメモ帳を見る。

 増えたタスクもあるが、逆算すれば終わる範囲だ。

 終わる範囲、という言い方ができるのは、終わりが見えるからだ。

 一方で黒川は、終わりが見えないまま、別のことまで抱えている。

 同じ新人なのに、という比較が頭をよぎる。

 けれど、それは違う。

 差があるのは能力じゃなくて、“時間の密度”だった。

 黒川の一時間は、こちらの一時間より重い。

 そんな気がした。


 その日の帰り道。

 電車の窓に映る自分の顔を、なんとなく見つめる。

 自分は、今日も定時で帰っている。

 タスクは増えたが、期限は守られている。

 ちゃんと「普通の仕事」をしている。

 なのに、胸の奥に小さな違和感が残る。

(同じ日に入社したはずだよな)

 スタートは同じ。

 席も隣。

 なのに――時間の流れが違う。

 自分の一日は、朝が来て、昼が来て、夜が来る。

 黒川の一日は、その境目が曖昧に見えた。

 昼も夜も同じテンションで続いているように見える。

(このままいったら……)

 言葉にならない予感だけが、胸に沈んだ。


 翌朝。

 席に着くと、黒川はすでにPCを開いていた。

 画面にはターミナルが並び、黒い背景に白い文字が流れている。

 目の下に、薄く影ができている。

 昨日より、ほんの少しだけ濃い。

「大丈夫?」

 思わず、そう聞いてしまった。

「ん? ああ、大丈夫」

 短い返事。

 “問題ない”じゃない。

 “続けられる”という意味の大丈夫に聞こえた。

 それ以上、会話は続かなかった。

 キーボードの音が、いつもより速く聞こえる。

 画面が、せわしなく切り替わる。

 机の上のペットボトルが増えている。

 メモ用紙の端に、乱暴な字で短い単語が書かれている。

(忙しい、っていうか……)

 水瀬は言葉を探す。

 忙しい、では足りない。

 余裕がない、でもない。

 どこか、追われている。

 だが、その言葉を口にする資格は、自分にはまだない気がした。

 黒川の現場に触れていない自分が、勝手に言ってはいけない気がした。


 そのときは、ただそう思っていた。

 黒川が忙しいだけ。

 それだけの話だと。

 まだ――

 それが始まりだとは、気づいていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ