いつの間にか増えていたタスク
気づくと、やることが増えていた。
朝、席に着いてメモ帳を開いた瞬間、昨日の続きに混ざって項目が増えているのが目に入った。文言修正。表示確認。想定外ケースのチェック。検索条件の微調整。エラーメッセージの文言統一。
(こんなにあったっけ……)
自分で書いたはずなのに、文字の列が少しだけ他人事のように見える。増えた、という事実よりも、増え方がじわじわしているのが怖かった。誰かがドンと投げてきたわけじゃない。気づいたら増えている。いつの間にか、だ。
水瀬がメモを眺めていると、杉本が椅子を軽く回してこちらを見た。
「朝のうちに、今日やる範囲だけ決めとこうか」
「今日やる範囲……ですか?」
「うん。全部はやらない。今日やる分だけ」
その言い方が妙に自然で、水瀬は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「全部やらない、って……いいんですか?」
「いい。今日中に全部終わらせる前提じゃない。今日やる範囲だけ決めよう」
作業は、止まらなかった。
文言を直して、表示を確認する。画面を切り替え、条件を変えて試す。ブラウザを何度も更新し、想定した通りの表示になっているかを目で追う。たった一文字の違いで「違和感」が出てしまう世界だ。
途中で、杉本から声が飛んでくる。
「水瀬、この表示、ちょっとズレてない?」
「え、どこですか?」
「ここのボタン。PCだといいけど、横幅狭いと押しづらい」
言われて確認すると、確かにギリギリだ。今までなら見落としていた。
つまり、タスクが増えるのは“仕事が雑だから”じゃない。見える人が見れば、改善点は次々に見つかってしまうのだ。
さらに村瀬が通りがかりに、軽い調子で言った。
「あとさ、メッセージ文言、他画面と語尾揃えといて。『してください』と『下さい』が混ざってると、地味にクレーム来るから」
(そんなところで……?)
水瀬は思う。けれど、現場の「地味に」が一番厄介だということも、なんとなく分かる。大きなバグは目立つ。直す理由も理解される。だが、細かな違和感は“直す理由”を説明するのが難しいのに、放置すると確実に溜まる。
こうして、タスクは増えていく。
増えていくのに、どれも「今すぐ全部やらないといけない」という感じではなかった。
むしろ「順番に潰していけばいい」という、見えないレールの上を走っている感じがある。
(……優先度、ってやつか)
研修で聞いた言葉が、遅れて現実味を帯びて浮かび上がる。
時計を見ると、まだ夕方にもなっていなかった。
周りの席も特別慌ただしい様子はなく、キーボードのカタカタという音が一定のリズムで続いている。
(……この量で、定時?)
素朴な疑問が、胸の奥に残ったまま消えない。
学生の課題なら、締切前に徹夜してでも終わらせる。終わらせることが正義。そういう感覚が、まだどこかに残っていた。
水瀬は、もう一度メモを見る。
消えた項目もある。増えた項目もある。
差し引きすると、たぶん増えている。
それでも――なぜか、パニックにはなっていない。
ここで水瀬は、どうしても聞いておきたくなった。
「……杉本さん」
声をかけると、杉本はモニターから目を離さずに返事をした。
「ん?」
「今日、定時で上がっていいんですか?」
自分でも驚くくらい率直な質問になってしまった。
少し笑われるかもしれない、と思った。
でも杉本は笑わず、当たり前の確認みたいに短く言う。
「いいよ」
「タスク、結構増えてる気がして……」
「増えてるね」
否定はされなかった。
「でも、期限は変わってない」
杉本は画面の端を指した。進捗表のようなものが表示されていて、日付と作業項目が並んでいる。矢印が淡々と引かれ、ゴールが明確に置かれていた。
「この案件、リリースは来週の水曜」
「はい」
「だから逆算する。今日の終わりまでにここ。明日はここ。明後日はここ。そんなふうに切る」
水瀬は、思わず聞き返した。
「増えたタスクは、どうするんですか?」
「増えるのが普通だから、最初からバッファを持ってる。全部を最短で詰めると、増えた瞬間に崩れるだろ」
言葉が、すっと入ってきた。
理屈は分かる。だが、今までの自分の中にはなかった発想だ。
「全部を“今やる仕事”だと思うと、終わらなく見えるだけだよ」
その瞬間、頭の中が整理された気がした。
(仕事って、全部終わらせるものじゃなくて、期限に合わせて進めるものなんだ)
タスクは減っていない。むしろ増えている。
でも、「今日やる分」は見えていた。
見えていれば、人は落ち着ける。
見えないから焦るのだ。
定時が近づく。
フロアの空気は、昼間と大きく変わらない。誰かが急に立ち上がることもなく、淡々と片付けが始まる。机の上を整え、画面を閉じ、帰る準備をする。その動きが、当たり前のように揃っている。
水瀬も今日の分のチェックを終え、メモ帳に小さく印をつけた。
全部じゃない。
でも、ちゃんと前に進んでいる。
終わっていないタスクが残っているのに、罪悪感が少ない。
それが少し不思議だった。
帰り支度をしていると、村瀬が通りかかった。
「お、今日は定時だな」
「はい」
「いいね。この案件、終わり見えてきたし」
軽い口調だったが、続けて少しだけ真面目になる。
「終わりが見えてる案件は、人を壊さない。逆に、終わりが見えない案件が――まあ、やばい」
最後は笑って誤魔化すように言った。
水瀬は、その言葉の意味を深く考えないようにした。今はまだ、考えなくていい。
エレベーターに乗り、扉が閉まる。ウィーンという音とともに、今日が終わっていく。
仕事は増えていた。余裕があったわけでもない。
それでも――期限は決まっていて、終わりも見えている。
(この案件、ちゃんと終わるな)
そのときの僕は、本気でそう思っていた。




