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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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3/50

最初の小さな成功

 翌朝、会社へ向かう足取りは、昨日よりほんの少しだけ軽かった。

(今日は、続きをやるだけだ)

 環境構築。昨日は結局、何も完成しなかった。

 でも、不思議なもので「続きがある」と思えるだけで、人は前に進めるらしい。昨日の失敗が消えるわけじゃないのに、“やり直せる”という事実が、心を少しだけ前に押す。

 席に着き、ノートパソコンを立ち上げる。ピッ、という音のあとに、ウィーン……とファンが回り始める。画面が表示されるまでの数秒が、昨日より短く感じた。体感が変わっただけなのに、それが小さな勝利みたいに思えてしまう。

 Eclipseを起動する。

(頼むから今日はすんなり行ってくれ)

 祈るような気持ちで見つめていると、昨日よりも早く起動画面が消えた。

「……お?」

 ログインしてプロジェクトを開く。エラーは出ない。

 それだけで胸の奥がじんと温かくなった。

(進んでる)

 たったそれだけなのに、確実に昨日とは違う。何かが“続いている”感覚が、ようやく手に戻ってきた気がした。


「お、来てる来てる」

 背後から村瀬の声が飛んでくる。

「今日はいい感じ?」

「はい……今のところは」

「“今のところ”って言えるようになったなら、もう新人卒業だね」

 相変わらず軽い。けれど、その軽さが今はありがたかった。昨日みたいに、問題が起きるたびに肩が上がってしまう自分にとっては、この人の冗談が呼吸みたいな役割になっている。


 しばらくして、杉本が声をかけてきた。

「水瀬、ローカル動いた?」

「はい。ローカルは起動しました」

「じゃあ、簡単な修正をやってみよう」

 モニターに表示されたのは、見覚えのある画面だった。ログイン画面。学生時代、何度も作ったやつだ。懐かしさと同時に、妙な安心感が込み上げる。

「このラベル、文言ちょっと変えて」

「この文言、画面だけ直せばいいですか?」

「まずは画面だけでいいよ」

「裏の処理とかは……?」

 杉本は少しだけ間を置き、画面を一度見てから言った。

「基本は触らなくて大丈夫。たぶん」

 “たぶん”。

 その一言で、胸の中の確信が一段階下がる。

 新人の「大丈夫」は、だいたい大丈夫じゃない。昨日、環境構築で散々思い知ったばかりだ。


 コードを開く。HTML。Java。設定ファイル。

 画面とビジネスロジックとSQL。学生の課題とは違うが、やっていること自体は知っている――そう思える範囲だ。

(懐かしいな……)

 慎重に修正し、保存する。

 そして、再ビルド。

 ……

 一瞬の間。

 画面が切り替わり、ブラウザが立ち上がる。

 ログイン画面――のはずだった。

「あれ……?」

 画面が真っ白だった。

 リロードしても変わらない。コンソールを開くと、赤い文字がずらりと並んでいる。

 目が痛くなるほどのエラーメッセージ。英語で、やたら長い。

(……何だ、これ)

 さっきまで動いていたはずなのに。

 変えたのは、文言の一行だけだ。

(文言、変えただけだよな……?)

 コードを見返す。差分は、ほんの一行。

 それでも、画面は動かない。

 再ビルドをもう一度。

 サーバを再起動。

 キャッシュも疑って、いろいろ触ってみる。

 ――駄目だ。

 画面は白いまま。赤いログだけが増えていく。

 時間だけが静かに過ぎていく。キーボードを打つ音が、やけに大きく聞こえた。


(……聞くか)

 一瞬そう思って、でも手が止まる。

 今、聞いたら――「昨日と同じ」になってしまう気がした。

 分からないから聞く、は正しい。けれど、何も整理しないまま聞くのは、ただの丸投げだ。それだけはやりたくなかった。

 もう少し、自分で見てから。

 設定ファイルを開き、コメントを追う。

 エラーメッセージを上から読み直し、どこで落ちているのかを探す。

 理解できない英語が混ざっていても、単語だけ拾えば手掛かりになる。

 数分後。

「あ……」

 ほんの小さな記述ミスだった。

 学生のときなら気にも留めなかったような部分。けれど実務では、その小さな穴が容赦なく全体を止める。

 そこを直して、もう一度。

 再ビルド。

 ……

 画面が切り替わる。

 ログイン画面が表示された。

 修正した文言が、そこにちゃんと載っている。

「……動いた」

 思わず声が漏れた。

 誰かに見せるほどの成果じゃない。

 一行、二行の修正。

 でも――

 動かなくして、直した。

 それは確実に、「仕事」だった。


 その様子を見ていたのか、黒川がちらっとこちらを見る。

「どうでした?」

「……動いた」

「よかったですね」

 それだけ。

 でも、その一言で十分だった。

(やっと、同じ場所に立てた気がする)

 錯覚かもしれない。

 それでも、その錯覚が、この仕事を続ける燃料になる。


 昼休み。

 昨日と同じ食堂で、村瀬がいつもの調子で笑う。

「初日に比べたら、今日はいい顔してるよ」

「昨日は完全に“迷子”でしたからね」

「そうそう。迷子のまま帰ると、この仕事つらくなるから」

 村瀬は箸を止め、少しだけ真面目な顔になった。

「小さい成功でいいんだよ。最初は」

 その言葉を、水瀬は心の中で何度も繰り返した。

 小さい成功。小さい成功。小さい成功。


 午後も、同じような小さな修正が続く。文言変更、画面のレイアウト調整、SQLの条件を一つ足す。どれも派手じゃない。それでも、“できること”が少しずつ増えていく。

 気づけば時間が進んでいた。

 帰り際、杉本が一言だけ言った。

「今日は、助かった」

 それだけ。評価でも褒め言葉でもない。

 でも胸の奥に、確かな重みが残った。


 エレベーターに乗りながら、水瀬は思う。

 昨日まで、この場所は“何もできない場所”だった。

 でも今日、ほんの少しだけ――“自分が役に立てる場所”に変わった。

 それが、この現場での最初の小さな成功だった。


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