最初の小さな成功
翌朝、会社へ向かう足取りは、昨日よりほんの少しだけ軽かった。
(今日は、続きをやるだけだ)
環境構築。昨日は結局、何も完成しなかった。
でも、不思議なもので「続きがある」と思えるだけで、人は前に進めるらしい。昨日の失敗が消えるわけじゃないのに、“やり直せる”という事実が、心を少しだけ前に押す。
席に着き、ノートパソコンを立ち上げる。ピッ、という音のあとに、ウィーン……とファンが回り始める。画面が表示されるまでの数秒が、昨日より短く感じた。体感が変わっただけなのに、それが小さな勝利みたいに思えてしまう。
Eclipseを起動する。
(頼むから今日はすんなり行ってくれ)
祈るような気持ちで見つめていると、昨日よりも早く起動画面が消えた。
「……お?」
ログインしてプロジェクトを開く。エラーは出ない。
それだけで胸の奥がじんと温かくなった。
(進んでる)
たったそれだけなのに、確実に昨日とは違う。何かが“続いている”感覚が、ようやく手に戻ってきた気がした。
「お、来てる来てる」
背後から村瀬の声が飛んでくる。
「今日はいい感じ?」
「はい……今のところは」
「“今のところ”って言えるようになったなら、もう新人卒業だね」
相変わらず軽い。けれど、その軽さが今はありがたかった。昨日みたいに、問題が起きるたびに肩が上がってしまう自分にとっては、この人の冗談が呼吸みたいな役割になっている。
しばらくして、杉本が声をかけてきた。
「水瀬、ローカル動いた?」
「はい。ローカルは起動しました」
「じゃあ、簡単な修正をやってみよう」
モニターに表示されたのは、見覚えのある画面だった。ログイン画面。学生時代、何度も作ったやつだ。懐かしさと同時に、妙な安心感が込み上げる。
「このラベル、文言ちょっと変えて」
「この文言、画面だけ直せばいいですか?」
「まずは画面だけでいいよ」
「裏の処理とかは……?」
杉本は少しだけ間を置き、画面を一度見てから言った。
「基本は触らなくて大丈夫。たぶん」
“たぶん”。
その一言で、胸の中の確信が一段階下がる。
新人の「大丈夫」は、だいたい大丈夫じゃない。昨日、環境構築で散々思い知ったばかりだ。
コードを開く。HTML。Java。設定ファイル。
画面とビジネスロジックとSQL。学生の課題とは違うが、やっていること自体は知っている――そう思える範囲だ。
(懐かしいな……)
慎重に修正し、保存する。
そして、再ビルド。
……
一瞬の間。
画面が切り替わり、ブラウザが立ち上がる。
ログイン画面――のはずだった。
「あれ……?」
画面が真っ白だった。
リロードしても変わらない。コンソールを開くと、赤い文字がずらりと並んでいる。
目が痛くなるほどのエラーメッセージ。英語で、やたら長い。
(……何だ、これ)
さっきまで動いていたはずなのに。
変えたのは、文言の一行だけだ。
(文言、変えただけだよな……?)
コードを見返す。差分は、ほんの一行。
それでも、画面は動かない。
再ビルドをもう一度。
サーバを再起動。
キャッシュも疑って、いろいろ触ってみる。
――駄目だ。
画面は白いまま。赤いログだけが増えていく。
時間だけが静かに過ぎていく。キーボードを打つ音が、やけに大きく聞こえた。
(……聞くか)
一瞬そう思って、でも手が止まる。
今、聞いたら――「昨日と同じ」になってしまう気がした。
分からないから聞く、は正しい。けれど、何も整理しないまま聞くのは、ただの丸投げだ。それだけはやりたくなかった。
もう少し、自分で見てから。
設定ファイルを開き、コメントを追う。
エラーメッセージを上から読み直し、どこで落ちているのかを探す。
理解できない英語が混ざっていても、単語だけ拾えば手掛かりになる。
数分後。
「あ……」
ほんの小さな記述ミスだった。
学生のときなら気にも留めなかったような部分。けれど実務では、その小さな穴が容赦なく全体を止める。
そこを直して、もう一度。
再ビルド。
……
画面が切り替わる。
ログイン画面が表示された。
修正した文言が、そこにちゃんと載っている。
「……動いた」
思わず声が漏れた。
誰かに見せるほどの成果じゃない。
一行、二行の修正。
でも――
動かなくして、直した。
それは確実に、「仕事」だった。
その様子を見ていたのか、黒川がちらっとこちらを見る。
「どうでした?」
「……動いた」
「よかったですね」
それだけ。
でも、その一言で十分だった。
(やっと、同じ場所に立てた気がする)
錯覚かもしれない。
それでも、その錯覚が、この仕事を続ける燃料になる。
昼休み。
昨日と同じ食堂で、村瀬がいつもの調子で笑う。
「初日に比べたら、今日はいい顔してるよ」
「昨日は完全に“迷子”でしたからね」
「そうそう。迷子のまま帰ると、この仕事つらくなるから」
村瀬は箸を止め、少しだけ真面目な顔になった。
「小さい成功でいいんだよ。最初は」
その言葉を、水瀬は心の中で何度も繰り返した。
小さい成功。小さい成功。小さい成功。
午後も、同じような小さな修正が続く。文言変更、画面のレイアウト調整、SQLの条件を一つ足す。どれも派手じゃない。それでも、“できること”が少しずつ増えていく。
気づけば時間が進んでいた。
帰り際、杉本が一言だけ言った。
「今日は、助かった」
それだけ。評価でも褒め言葉でもない。
でも胸の奥に、確かな重みが残った。
エレベーターに乗りながら、水瀬は思う。
昨日まで、この場所は“何もできない場所”だった。
でも今日、ほんの少しだけ――“自分が役に立てる場所”に変わった。
それが、この現場での最初の小さな成功だった。




