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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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環境構築で時間が溶ける

 段ボール箱のテープを剥がした瞬間、新品特有の匂いがふわっと立ち上った。紙とプラスチックが混ざった、あの匂い。まだ何も始まっていないのに、これだけで「仕事が始まった」気分にさせられるから不思議だ。

 箱の中には、黒いノートパソコン、ACアダプタ、薄い紙に包まれたマウス。きれいに揃っていて、やけに整然としていた。

「はい、それが水瀬くんの相棒ね」

 村瀬が軽い調子で言う。

「今日と明日は、だいたい“仲良くなる期間”だと思っていいよ」

「……仲良く?」

「PCと。人間より大事だから」

 冗談めかしているが、半分くらいは本気だろう。エンジニアの現場では、机の上の相棒が機嫌を損ねると、こちらの一日が簡単に壊れる――そういう話を、研修のときにも聞いた気がする。

 椅子に座り、ぎこちなく高さを調整すると、ギギッと音が鳴った。

(あ、もう仕事始まった感あるな)

 電源ボタンを押すと、ピッと小さく鳴り、画面が点灯する。メーカーのロゴが表示されるだけで、なぜか胸が少し高鳴った。

「まずはOSの初期設定からやって」

 村瀬が横から覗き込む。

「アカウントはこの紙に書いてある通り。パスワードはあとで変えてね」

「はい」

 時刻設定、キーボード、ネットワーク。言われた通りに進めるだけで、ここまでは拍子抜けするほど順調だった。

(これならすぐ終わるな)

 そのときは、まだ本気でそう思っていた。


「次は開発環境ね」

 村瀬が指差す。

「Eclipse入れて。Javaは11。あと社内ライブラリはこのURLから」

 さらっと言われたが、情報量が多い。新人の頭に一気に投げ込む量じゃない。

「えっと……URLは……」

「このWiki。まあ、だいたい書いてあるから」

 “だいたい”。

 その言葉が、あとから思い返すと、この会社で最初に覚えた危険信号だった。

 ブラウザを開いて社内Wikiにアクセスする。手順書は確かにある。だが、読んでいくうちに、目が止まる文言が増えていった。

※環境によって設定が異なる場合があります

※エラーが出た場合は各自調整してください

(……各自調整)

 嫌な予感が、じわっと広がる。手順書が「全部やってくれる」ものじゃなく、「入口を示すだけ」のものだと、ここで初めて理解した。


 Eclipseをダウンロードしてインストールし、起動する。

 ……はずだった。

 画面がなかなか切り替わらない。ローディングのクルクルだけが回り続ける。

(あれ?)

 数秒のつもりが、数十秒になり、気づけば一分を超えている。待っているだけなのに、背中だけがじわじわ汗ばんでくる。

 ふと隣を見ると、黒川はもうキーボードを叩いていた。画面には見慣れないエラーとログが並んでいる。エラーなのに、なぜか「進んでいる」感じがするのが怖い。

(もう進んでる……?)

「黒川くん、早くない?」

 思わず声をかけると、黒川は淡々と答えた。

「え? あ、はい。前の会社でも似た構成だったので」

(前の会社……やっぱり経験者か)

 胸の奥が、少しだけざわついた。自分は新卒だ。スタート地点が同じだと思っていたのに、足場が違う気がしてしまう。


 ようやくEclipseが立ち上がった。

(よし……)

 その瞬間だけ、勝った気分になる。

 だが次の瞬間、プロジェクトをインポートしようとして、エラーが表示された。

Buildpathproblem

(え!?)

 手順書を見返す。言われた通りにやった。はずだ。再度確認しても、同じ。

 検索する。英語のフォーラム。回答はまちまち。結局、自分の状況と同じものが見つからない。

 時計を見ると、もう昼前だった。

(うそだろ……さっき電源入れたばっかじゃん)

 時間の感覚が、すでに狂い始めていた。


「水瀬くん、どう?」

 村瀬が声をかけてくる。

「えっと……ビルドが通らなくて……」

「あー、それね。Javaのバージョン、ちゃんと11?」

「はい……多分」

 村瀬が即座に、苦笑いみたいな顔をした。

「“多分”は、だいたい違う」

 言い方は軽いが、刺さる。村瀬は画面を覗き込むと、すぐに原因を見つけた。

「ほら、ここ8になってる」

「あ……」

「あるある。新人の9割、これやる」

 そう言いながら手早く設定を直していく。指の動きが迷わない。こういう“あるある”を何十回も見てきた人の手だ。

 再ビルド。

 ……また止まる。

 ローディングが固まったように見えて、こっちの心拍だけが上がっていく。

「んー……」

 村瀬が少しだけ首を傾げた。

「今日はそんな日だね」

「……そんな日?」

「環境構築って、“運”だから」

 軽く言うが、フォローにはなっていない。むしろ、運が悪いと終わる世界なのか、と震える。


 昼休憩。

 食堂で黒川と並んで座る。食券を買い、トレーを持つだけの動作が、妙に“普通”でホッとした。

「進んでる?」

 水瀬が聞くと、黒川は小さく頷いた。

「一応、ローカルは動きました」

「……すごいね」

「たまたまです」

 そう言うが、たまたまにしては出来すぎている。

(僕、遅れてるな)

 焦りが、静かに積もっていく。急いでも解決しないことは分かっているのに、急がないと置いていかれる気がする。


 午後。

 再び格闘。今度は社内ライブラリが落ちてこない。プロキシ設定、証明書、意味不明なエラー。エラー文を読むたび、英語が敵に見えた。

(なんで初日からこんな……)

 手順書の「各自調整してください」が、頭の中で何度も反響する。調整の仕方を知らない人間に、各自で、は酷だ。

 時計を見ると、もう夕方だった。

(今日、何時間ここに座ってるんだ……)

 コードは一行も書いていない。なのに、頭だけが疲れている。


「今日はここまででいいよ」

 村瀬が言った。

「初日に全部できる人の方が少ないから」

「……すみません」

「謝らなくていい。仕事だから」

 その言葉に、少し救われた気がした。

 仕事だから、できない日がある。仕事だから、時間が溶ける。仕事だから、明日が来る。

 PCをシャットダウンすると、ウィーン……とファンの音が弱まり、画面が暗くなる。

(今日、何してたんだろう)

 頭に浮かんだのは、その疑問だった。

 コードは一行も書いていない。

 でも――確かに、一日が終わっていた。


 帰りのエレベーターで、黒川が言った。

「環境構築、大変でしたね」

「……正直、なめてた」

「最初はみんなそうですよ」

 淡々とした声だった。

 でも、その一言がやけに胸に残る。

 今日、“エンジニアとしての一歩”は踏み出せなかった。

 ただ――この世界が、思っていたよりもずっと手強い場所だということだけは、はっきりわかった。


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