新卒、都内SIerへ
平成の終わり頃を思わせる、少し昔のIT現場を背景にしたお仕事小説です。
初日は5話まで公開し、以降は毎日19時更新予定です。
――とあるエンジニアの備忘Log(新人編)
四月一日の朝は、なぜか音が多かった。
山手線の車内で、車輪がレールを噛む音が
ガタン、ゴトン、ガタン
と一定のリズムで繰り返されるたびに、胸の奥も同じ間隔で揺れる。
吊り革を握る手のひらが、じっとりと湿っている。
気づかれないようにスーツの内側で指を動かし、そっと拭った。
(落ち着け。大丈夫だ)
そう言い聞かせながら、何度も同じことを考える。
今日から社会人。
今日からエンジニア。
今日から、この電車に“通勤”という意味が生まれる。
名前は水瀬悠真。二十三歳。
文系でもなく、天才でもなく、
ただ「プログラムを書くのが嫌いじゃなかった」だけで、この世界に足を踏み入れた。
大学時代、夜中までレポートを書いたり、
コードが動かなくて頭を抱えたりしたことはある。
でもそれは、いつでも逃げられる“学生の苦労”だった。
(仕事は違うぞ)
頭ではわかっている。
わかっているのに、実感が追いつかない。
電車が駅に滑り込む。
キィィ…というブレーキ音が鳴り、ドアがプシューと開いた。
改札を抜け、地上に出た瞬間、
春の風がヒュッと吹き抜けて、ネクタイの先を揺らした。
(あ、寒い)
四月だというのに、風は思ったより冷たい。
ビルの隙間を抜けてくる風は、容赦なく現実を運んでくる。
会社のあるオフィスビルは、駅から五分ほど歩いたところにあった。
ガラス張りでもなく、威圧感のある高層ビルでもない。
「普通」
その言葉が一番しっくりくる建物だ。
(ここで、働くんだ)
自動ドアがシュッと開き、
エントランスの床に、自分の足音がコツ、コツと響く。
エレベーターの前で立ち止まり、
ボタンを押すと、ピンッと乾いた電子音が鳴った。
ウィーンという音とともに扉が開く。
中に入ると、磨かれた金属の壁に自分の姿が映る。
少し肩に力の入った、ぎこちない立ち姿。
(学生のときと、何が変わったんだろう)
そう考えた瞬間、後ろから声がした。
「六階、押していい?」
振り返ると、同じくらいの年の男が立っていた。
黒い髪を短く整え、視線は落ち着いている。
どこか、温度の低い雰囲気。
「あ、はい。僕も六階です」
「そっか」
彼は無駄のない動きでボタンを押す。
ピッ。
「俺、黒川海斗。今日からだよな?」
「水瀬悠真です。たぶん、同じ新卒です」
「だろうね。説明会で見た気がする」
短いやり取り。
それでも、不思議と沈黙は気まずくなかった。
(この人、静かだけど……強そうだな)
エレベーターが上昇する。
耳が少し詰まる感覚と一緒に、心臓の鼓動がはっきりしてくる。
チンッ。
六階。
エレベーターを降りると、目の前に会社名のプレートが貼られた壁があった。
その横には内線電話が一台。
ドアの脇には、カードリーダーのような装置が設置されている。
(社員証をかざして入る、ってことか)
まだ初日だ。
入館証は受け取っていない。
一瞬様子をうかがっていると、
黒川が迷いなく受話器を取った。
「今日からお世話になる新人の黒川です」
受話器越しに会話を交わし、
少ししてから電話を切る。
「すぐ来てくれるらしい」
その言葉通り、数秒後に足音が近づき、
ドアがガチャッと開いた。
「どうぞ」
短くそう言って、ドアを押さえてくれる男性がいた。
スーツをきっちり着こなし、表情は必要以上に動かない。
年齢は三十代前半だろうか。
特別な説明はない。
それが逆に、この会社らしい気がした。
フロアに足を踏み入れる。
空調のサーッという音が、思ったより大きく聞こえた。
新品のカーペットの匂い。
キーボードのカタカタ…という規則的な音。
コピー機のウィーン……ガチャッという低い動作音。
(静かだ……)
研修会場のざわつきとは、まるで別世界だった。
そのときだ。
「おー、来た来た!」
奥の島から、ひときわ明るい声が飛んできた。
「ようこそ第二開発部へ!
あ、言っとくけど地味だよ、ここ!」
俺は村瀬亮。一応、先輩」
一応、という言い方に、思わず口元が緩む。
「水瀬くんと黒川くんね。
じゃ、席案内するわ」
そう言って、村瀬は自然な動きでフロアの奥へ歩き出した。
島型に配置されたデスク。
中央にベテラン、周囲を若手が囲む構成。
「水瀬はここ。杉本さんの右前」
(右前……?)
視線を上げると、落ち着いた雰囲気の男性がこちらを見ていた。
「俺は杉本洋介。よろしくな」
声は低く、でも柔らかい。
「Javaは触ったことある?」
「はい、学生のときに少しだけ……」
「なら十分だ。明日から早速やってもらおう」
その一言で、胸の奥がドクンと鳴る。
(いきなり実戦か……)
隣を見ると、黒川はすでに席に座り、
貸与されたノートPCを開いていた。
黒い筐体。
新品のキーボード。
黒川が電源を入れると、ファンが**フワァ…**と回り始め、
画面が静かに光る。
その横で、僕は自分の段ボール箱を前に、
少しだけ立ち尽くしていた。
(これが……仕事の道具か)
黒川は、そんな僕の感慨など気にする様子もなく、
すでに初期設定に取りかかっていた。
入社式の光景が、ふと頭をよぎる。
貸し会議室。
社長の話。
「自律」「責任」「成長」という言葉。
あのときは、全部うなずいていた。
今は、その重みが少しだけ、わかる気がする。
フロアに響くキーボード音の中で、
水瀬悠真としての“社会人の時間”が、静かに動き出していた。




