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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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49/50

終わりの輪郭

 その夜は、久しぶりによく眠れた。

 何度か目は覚めた。

 けれど、ここ数日のように胸の鼓動だけがやけに大きく響いて、眠れないまま朝を迎えることはなかった。

 疲れは残っている。肩も重いし、目の奥にはまだ熱がある。

 それでも、起き上がったときの頭の静けさが、昨日までとは少し違っていた。

 洗面台の鏡に映った自分は、相変わらずくたびれていた。

 目の下の隈も消えていない。頬も少しこけて見える。

 だが、今日はそれでもよかった。少なくとも、顔を洗っている途中で意識が飛びそうになることはなかった。


 今日は、納品判定の日だ。

 会社へ向かう電車の中で、水瀬はその言葉を頭の中で何度も繰り返した。

 納品判定。

 それがどういう場なのか、前日に話を聞いた。

 けれど、実際にその日に会社へ向かっている今になっても、まだどこか現実感が薄い。


 執務室へ入ると、修正地獄のときとは違う空気が流れていた。

 静かだった。

 誰も手を止めているわけではない。

 高橋部長はすでに席について資料を開いていたし、村瀬もモニターの前で何かを確認している。

 藤堂は印刷した紙と画面を見比べながら、赤ペンで何かを書き足していた。

 黒川も結城も、自分の担当範囲の結果を見直している。三浦と佐伯も同じだった。

 ただ、あの数日前のような、肌を刺すような切迫感はなかった。

 代わりに、言葉を整えている感じがあった。

 直すための空気ではなく、渡すための空気だった。

「おはようございます」

 水瀬が声をかけると、いくつかの「おはよう」が静かに返ってきた。

 席へ座ると、藤堂が資料から顔を上げた。

「ちゃんと寝れた?」

「昨日よりは」

「ならよかった」

 それだけ言って、また資料へ目を落とす。

 その横顔にはまだ疲れが残っていたが、目つきは落ち着いていた。

 水瀬も自分の席で、試験結果のまとめをもう一度見返した。

 チェック済みの項目。修正履歴。再確認結果。

 書かれているのは、どれも事務的な言葉ばかりだ。

 それなのに、水瀬にはその一つ一つの裏に、夜の長さが貼りついて見えた。


 しばらくして、村瀬が立ち上がった。

「午後から判定会議だから、その前に一回揃えよう」

 その一言で、午前の仕事の輪郭がはっきりする。

 まだ時間はある。

 けれど、のんびり見直せるほど余裕があるわけでもない。

 判定の場に持っていくものを、午前のうちに最後まで揃え切る。

 それが、この時間の仕事だった。

 村瀬が続ける。

「黒川は性能結果もう一回まとめといて」

「了解です」

「結城はバッチ側の修正履歴、抜けないようにお願い」

「はい」

「藤堂さん、画面側の補足で入れたいとこあればあとで見せてもらっていい?」

「まとめておきます」

 そこまで言ってから、村瀬は水瀬の方を見た。

「水瀬は自分の担当画面の試験結果、見直しだけお願い」

「はい」

 短いやり取りなのに、全員がすぐ動く。

 この数週間で何度も見てきた光景だった。

 でも今日は、その速さの意味が少し違っていた。

 午前中は、細かな確認に時間が使われた。

 結果の書き方が揃っているか。

 試験日や修正履歴に抜けがないか。

 残課題一覧と試験結果の内容に矛盾がないか。

 派手な作業ではない。

 けれど、こういう最後の詰めがないと、たぶん会議室では言葉が曖昧になるのだろうと、水瀬にも分かった。


 昼を回ったころ、藤堂がモニターから目を離し、水瀬に聞いた。

「午後の判定、ちょっと緊張してる?」

 不意にそう聞かれて、水瀬は少しだけ苦笑した。

「してます」

「だよね」

 藤堂は小さく笑う。

「まあ、話すのは高橋部長と村瀬さんがメインだから、大丈夫だよ」

「はい」

「でも、自分がやったところがどう扱われるか見るのは、たぶん意味あると思うよ」

 その言い方が、妙に真っ直ぐだった。

「……そうですね」

「うん。こうやって最後決まるんだ、って分かるから」

 その言葉が、水瀬の中に静かに残った。


 午後になって、会議室へ移動する時間になった。

 高橋が先に入り、村瀬が資料を持って続く。

 藤堂、黒川、結城も、それぞれ補足が必要になったときのために同席する。

 水瀬は一番端の席に座った。自分が何かを話すわけではないと分かっていても、肩には自然と力が入る。

 会議室には役員が二人来ていた。

 入社式で見かけていたが、名前は思い出せなかった。

 軽く挨拶が交わされ、資料が配られる。

 紙の擦れる音だけが、やけに耳についた。

 高橋が口を開く。

「今回の案件について、こちらで担当している開発・試験範囲は、予定していたところまで完了しています」

 抑えた声だった。

 大きくはないのに、会議室の端までよく通る。

「結合試験についても、予定範囲は完了しています。性能面で懸念が出た箇所については、バッチ側の抽出条件見直し、データ保持方法の修正、画面側の取得条件見直しで対応済みです」

 高橋は一枚、資料をめくった。

「現時点で把握している残課題はこの一覧です。ただし、いずれも業務継続を阻害するものではなく、内容と影響範囲は整理済みです」

 一拍置いて、はっきり続ける。

「以上を踏まえて、こちらとしては、この状態で納品可能と判断しています」

 会議室が静かになる。

 水瀬は、その沈黙の重さを感じていた。

 納品可能。

 その言葉は、思っていたよりずっと重かった。

 役員の一人が資料へ目を落としたまま聞く。

「残課題はこれで全部か」

 高橋が答える。

「現時点で把握しているものは、この一覧がすべてです。新規の重大障害は試験内では確認されていません」

 次に話したのは村瀬だった。

「補足します」

 低く、落ち着いた声だった。

 何度も夜を越えてきた現場の声だった。

「性能面で問題になったのは、一部条件で件数が増えた際の一覧表示です。こちらは本番想定の件数で再確認を行い、実用に耐えないレベルの遅延は解消しています」

 村瀬は資料の該当箇所を指しながら続ける。

「また、修正に伴って表示結果が変わるケースもありましたが、主要導線は再試験済みです。利用頻度が高い導線から優先して潰しています」

 役員が問う。

「納品後の体制は?」

 高橋がすぐに答えた。

「納品後の保守は引き続きこちらで持ちます。リリース作業と、その後の運用は先方側の体制です」

「先方への引き継ぎ事項は?」

「整理済みです」

 高橋は次のページを示す。

「リリース時の注意点、確認事項、既知の制約は先方へ引き継ぎます。先方が予定通りリリース作業へ入れる状態まで整えています」

 水瀬はそのやり取りを聞きながら、試験が終わっても終わりではない理由が、ようやく少し分かる気がした。

 ただ作って、試して、渡せば終わりではない。

 どこまでできていて、何が残っていて、それでもなぜ納められるのか。

 それを言葉にして、責任を持って差し出せる形にするところまでが、仕事なのだ。

 役員のもう一人が村瀬へ視線を向けた。

「現場としてはどう見る」

 村瀬はすぐに答えた。

「厳しかったですけど、出せない理由は残っていないと見ています」

 その言い方は、妙に真っ直ぐだった。

「軽微な課題はあります。ただ、止めるべきものと、出したあとも継続して見るべきものは分けています」

 その一言に、水瀬は少しだけ胸を打たれた。

 分けています。

 それは、この数日ずっと現場でやってきたことだった。

 一番重いところから落とす。

 致命傷から先に潰す。

 全部を一気には救えない。

 だから、分ける。

 会議室の中で、その積み重ねがそのまま言葉になっていた。

 役員はしばらく資料を見ていたが、やがて小さく頷いた。

「分かった」

 資料を閉じる。

「この内容で進めよう」

 それだけだった。

 怒号もなければ、大げさな安堵もない。

 けれど、その短い一言で十分だった。

 納品判定は通ったのだ。

 高橋が「ありがとうございます」と短く返し、会議はそこで終わった。

 役員が会議室を出ていく。

 ドアが閉まると、ようやく空気が少しだけ緩んだ。

 誰からともなく、深く息を吐く音がした。

 村瀬が椅子にもたれながら言う。

「よし」

 それだけだったが、今の現場にはその一言で足りた。

 水瀬は会議室の机を見た。

 さっきまでそこに並んでいた資料は、もうただの紙に見える。

 でも、その紙の一枚一枚の上に、自分たちが削って、直して、試してきた夜が乗っているのだと思うと、少し不思議な気持ちになった。


 会議室を出ると、執務室の空気もまた少し変わっていた。

 終わったわけではない。

 明日は納品だ。

 その先には先方のリリースもある。

 けれど、長かった案件はようやく“納めてよいもの”になった。

 水瀬は席へ戻りながら思う。

 終わりは、自然に来るものではない。

 誰かが残っているものを数え、責任を持って「ここまでで渡せる」と決める。

 そうして初めて、終わりの輪郭が見えてくるのだ。

 明日は納品だ。

 その事実だけが、水瀬の胸を静かに緊張させていた。



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