終わったわけじゃない
翌日は、朝方に家へ帰った。
さすがに三日続けて徹夜というわけにはいかなかった。
朝のタクシーの中で、水瀬は窓の外をぼんやり眺めていた。新聞配達のバイクと、始発へ向かう人影がすれ違っていく。街はもう夜ではなく、朝の側へ移り始めていた。
家に着くと、シャワーを浴びた。
熱い湯を肩に当てると、張りつめていた筋肉が少しだけ緩む。これで眠れるかもしれない、と思った。
だが、ベッドに入って目を閉じても、意識はなかなか落ちなかった。
疲れているはずなのに、心臓だけが妙に速い。耳の奥で、自分の鼓動がはっきりと聞こえる。
静かに息を吸って、吐く。
もう一度、吸って、吐く。
そうしているうちに、少しずつ体の輪郭が曖昧になっていった。
ようやくうとうとしかけたところで、スマホのアラームが鳴る。
「……っ」
水瀬は目を開けた。
ほとんど眠れた気はしなかった。けれど、起きるしかない。
あともう少しで終わる。
その思いだけを手がかりに、水瀬はまた会社へ向かった。
執務室に入ると、まだ夜の続きみたいな空気が残っていた。
村瀬も高橋部長も、もう来ている。
黒川も結城も佐伯もいた。
藤堂と三浦も席についていて、誰も元気そうには見えない。けれど、もう「今日は少し休もう」という雰囲気でもなかった。
「おはようございます」
水瀬が声をかけると、それぞれが短く返す。
その声にも疲れは滲んでいたが、止まってはいなかった。
席へ座ると、藤堂がこちらを見た。
「寝れた?」
「少しだけ……です」
「まあ、そんなもんだよね」
それ以上は言わなかった。
でも、その短い返しの中に、分かっている感じがちゃんとあった。
昨日の夜に見えた改善の糸口は、まだ糸口のままだった。
それを本当に使える形へ落とし込めるかどうかで、今日の意味が決まる。
結城がテーブル側の修正を反映し、黒川が再度負荷試験をかける。
水瀬は一覧側の取得条件と表示順を修正していた。藤堂も自分の作業を進めながら、ときどきこちらの画面を一緒に見る。
水瀬一人で抱えるより、その場で見た方が早いと判断しているのだろう。
しばらくして、黒川が負荷試験を終えた。
「昨日よりは全然マシだね」
その一言に、水瀬は少しだけ肩の力を抜きかける。
だが、黒川はすぐに続けた。
「ただ、条件によってはまだ遅いかな」
やはり、一度で全部は戻らない。
それでも昨日までと違うのは、「どこがまだ駄目なのか」が見えていることだった。
取得条件。
表示件数。
並び順。
バッチ後の結果を前提にした見せ方。
変わった条件に合わせて、画面側の前提も揃え直す。
一覧に何を出すのか。
何を出さないのか。
最初に広く取りすぎないようにできないか。
そうやって画面を見ていたとき、不意に藤堂が言った。
「ここのSQL、ちょっと直し方を変えよう」
示されたのは、今まで水瀬が見てきた書き方とは少し違う形だった。
思わず、これでいいのかと疑ってしまうような直し方だった。
「うん、これで大丈夫だと思う」
「これでいけるんですね」
「うん。ちょっと特殊なやり方だけどね」
前なら、その言葉の意味を受け取るだけで精一杯だった。
今は違う。
なぜそうした方がいいのかが、少しだけ分かる。だから手も前より早く動いた。
昼を過ぎ、黒川が再度負荷をかける。
「どうだ?」
村瀬が聞く。
黒川はログを見てから答えた。
「一番重かった導線はかなり軽くなりました」
その一言に、水瀬は思わず顔を上げる。
「ほんと?」
「うん、これで大丈夫だと思う」
その評価が、今の現場には十分大きかった。
ようやく、本来の結合試験を始められる。
そう思えただけで、胸の奥に張りついていたものが少しだけ剥がれた気がした。
修正して、試して、また修正して。
水瀬はキーボードを打ちながら思う。
削って進む、とはこういうことなのだろう。
全部を一気にきれいにするのではなく、出せる形へ戻すために、必要なところから順に整えていく。
夕方近く、ようやく黒川が少しだけ椅子にもたれた。
「負荷試験、全部終わりました」
村瀬がすぐに反応する。
「いけそうか?」
「はい。一番やばかったところは抜けたと思います。細かい課題はまだありますけど、実用に耐えないってレベルではなくなりました」
その言葉で、フロアの空気が少しだけ変わった。
村瀬が高橋の方を見る。
高橋も資料を見てから、小さく頷いた。
「じゃあ、結合試験の残り、予定通り回そう」
「はい」
藤堂がすぐに答える。
そこからは、もう一度止まっていた流れを前へ戻す時間になった。
水瀬は仕様書を開き、残りの確認項目を潰していく。
太い導線は通る。
細かい戻しはある。
でも、昨日までのような「どこが駄目かも分からない」状態ではない。
ひとつずつ確認欄が埋まっていく。
黒川が性能試験の結果をまとめ、他のメンバーも残りの試験を進めていく。
村瀬は全体を見ながら、リリース判定へ向けた資料の準備も始めていた。
そうして、ようやくリリース予定の二日前。
結合試験の最後の項目へチェックが入った。
水瀬はしばらくその画面を見つめた。
「……終わった」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
藤堂がその声を拾う。
「お疲れ様。水瀬くんのは終わったね」
「ようやく終わりました」
「うん。あとは私のがもう少しで終わるから、それが終われば全部完了かな」
まだ終わっていない。
それでも、開発と試験の山はようやく越えたのだと思えた。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが少し緩んだ。
時計を見ると、まだ外は明るかった。
水瀬は一瞬、何かの見間違いかと思った。
夕方だった。
ちゃんと、夕方の時間だった。
「今日は試験が終わったから、上がって大丈夫だよ。黒川くんも」
藤堂がそう言うと、ようやく水瀬は、自分が帰れるのだと理解した。
隣で黒川も肩の力が抜けたように大きく息を吐く。
ここ最近は、外に出るときにはもう日付が変わっていたり、朝になっていたりすることの方が多かった。
明るいうちに会社を出るという、その当たり前のことに、妙な違和感があった。
帰り支度をしながら、水瀬は村瀬たちを見る。
「まだ残るんですね」
そう聞くと、村瀬が苦笑する。
「まあな。リリース判定の準備があるから」
「リリース判定……」
水瀬が聞き返すと、藤堂が横から答えた。
「今回作ったものを先方に渡して問題ないか、役員に見てもらうための資料だよ。要は、納品して良いか決めるための判断してもらうんだよ」
「試験が終わったら終わり、ではないってことですね」
「そういうこと」
高橋もまだ席にいた。
資料を開き、何かを確認している。
藤堂も当然のように残るつもりらしかった。
村瀬はもう缶コーヒーを手にしていて、三浦も佐伯も結城も、まだ完全には気を抜いていない。
水瀬はその光景を見て、少しだけ背筋が伸びるのを感じた。
自分は今日、久しぶりに夕方に帰る。
けれど、それは誰かがまだ残って次の山を支えるからでもある。
「お先に失礼します」
水瀬が言うと、藤堂が画面を見たまま返した。
「お疲れ。また明日」
村瀬も小さく手を上げる。
「ちゃんと寝ろよ」
「はい」
ビルの外へ出ると、夕方の光が目に入った。
明るい。
それだけのことが、少し変だった。
駅へ向かう道を歩きながら、水瀬は思う。
終わったわけではない。
でも、何度も直して、そのたびに確かめて、その繰り返しの先でようやくここまで来たのだ。
久しぶりの夕方の帰り道は、妙に静かだった。
その静けさの中で、水瀬はようやく、ここまで積み重ねてきた夜の先に終わりが見えていることを実感していた。




