長い夜の終わり
納品の日の朝、会社に着くと、もう村瀬は席についていた。
高橋部長も来ている。
黒川は自分の端末を立ち上げていて、藤堂は印刷した資料を机に広げていた。結城も三浦も、普段と変わらない顔で画面を見ている。
けれど、その朝の執務室には、今までとは少し違う緊張が流れていた。
張りつめてはいる。
でも、それは修正のための緊張ではなかった。
今日は、作る日でも、直す日でもない。
納める日だった。
「おはようございます」
水瀬が声をかけると、いくつかの「おはよう」が静かに返ってきた。
大きな声はない。けれど、誰もふわついてはいなかった。
席に着いたところで、村瀬がモニターを見たまま言う。
「今、納品物アップしてる」
「もうですか」
「朝のうちに上げといた方がいいからな」
その言い方が、あまりに自然だったので、水瀬は少しだけ拍子抜けした。
もっと何か大きな儀式みたいなものを想像していた。
だが実際は、村瀬が静かに確認しながら、必要なファイルを先方のサーバへ上げていく。その手つきは、ここ数週間ずっと現場を繋いできた人間のものだった。
黒川が小さく言う。
「ついに、って感じだな」
「うん」
水瀬も小さく返す。
画面の向こうで進んでいるのは、ただのアップロードだ。
けれど、その進捗バーの奥に、自分たちが越えてきた夜の長さが詰まっている気がした。
午前中は、納品物の最終確認と、午後の先方会議に向けた資料の見直しで過ぎていった。
昨日の納品判定で使った資料をベースに、先方向けに言い回しを整えていく。
村瀬が資料を見ながら言う。
「ここ、昨日の役員向けのままだとちょっと硬いな」
高橋が頷く。
「“事前にメールでご報告しました通り”くらいに寄せておこう」
「ですね」
藤堂も横から覗き込み、細かい表現を直していく。
水瀬はその様子を見ながら、同じ資料でも、誰に見せるかで言葉が変わるのだと改めて思った。
作る。試す。直す。
それだけでは足りない。
最後は、相手が受け取れる形で渡さなければならない。
午後になり、先方との会議が始まった。
会議室に集まり、モニターの向こうに先方の担当者たちの顔が並ぶ。
役員会議のときとはまた違う緊張があった。
こちらはもう納める側で、向こうはそれを受け取る側だ。
同じ資料でも、空気は少し違う。
高橋が挨拶し、村瀬が資料を映す。
「事前にメールでご報告しました通り、本日朝に納品物をアップしております」
高橋の声は落ち着いていた。
「本日は、現状のご報告と、残課題、今後の流れについて共有させていただきます」
資料が一枚ずつ進んでいく。
試験完了範囲。
残課題。
既知の制約。
先方に確認してもらいたい点。
村瀬が補足する。
「性能面で懸念が出た箇所については、対策後に再確認を実施しています。主要導線については問題なく利用可能な状態です」
村瀬は次のページを示す。
「また、リリース時に見ていただきたい確認事項はこの一覧です。軽微な残課題についても記載していますが、業務継続を阻害するものではありません」
先方の担当者が資料を見ながら言った。
「納品物の受け取りは問題ありません」
高橋が小さく頷く。
「ありがとうございます」
先方は続ける。
「来週はこちらで受け入れ試験を進めます」
「はい」
「その結果、大きな問題がなければ、リリースは再来週の月曜で考えています」
その言葉に、水瀬は少しだけ息を吐いた。
今日ですべてが終わるわけではない。
けれど、終わりまでの道筋は、ようやくはっきり見えた気がした。
会議は思っていたより静かに終わった。
大きな問題もなく、先方は来週の受け入れ試験、その先のリリース日程を確認し、こちらの説明を受け取った。
画面が切れ、会議室が静かになる。
その静けさの中で、水瀬は少しだけ呆然としていた。
長かった案件が、こうして少しずつ手を離れていくのが不思議だった。
会議室を出ると、村瀬が水瀬たちを呼んだ。
「黒川、藤堂さん、水瀬、ちょっといいか」
「はい」
三人は、執務室のひらけた打ち合わせスペースへ集まる。
村瀬はそこで、いつもの少し軽い調子に戻っていた。
けれど、話す内容は仕事そのものだった。
「今後の体制の話だけしておくな」
そう言って、手元のメモを軽く見た。
「先方とは、このまま保守契約を結ぶ方向で進む」
水瀬は小さく頷く。
保守契約、という言葉自体は知っている。
だが、自分がその中に入る前提で聞くのは初めてだった。
村瀬は続ける。
「保守っていうのは、納品したあとに出てくる問い合わせ対応とか、軽い修正とか、残課題の対応とか、そういうのを継続して見る契約だな」
「障害対応とかも入るんですか」
黒川が聞く。
「入る。あとは追加で出てくる細かい改修とかもあるな」
「なるほど……」
水瀬が呟くと、村瀬は頷いた。
「今回の案件だと、残課題がまだ少し残ってるから、そこを保守の中で消していく形になる」
それから、村瀬は藤堂の方を見た。
「藤堂さんをリーダーにして、スケジュール見てもらいつつ、水瀬と黒川に対応してもらおうと思ってる」
水瀬は一瞬、またあの生活が続くのかと思った。
その気配を察したのか、藤堂が先に口を開いた。
「今回、徹夜とか残業とか、ものすごーく多くなったけど」
少しだけ肩をすくめて言う。
「次回の保守納品は少し先になるから、そこまで切羽詰まった進め方にはしないよ」
水瀬と黒川が顔を上げる。
「残業が発生するほどスケジュールが遅れそうなら、その前にちゃんと調整するからね」
その言葉に、二人とも目に見えて少しだけ力が抜けた。
正直なところ、水瀬は身構えていた。
また保守、また残課題。
そう聞けば、あの夜がもう一度続くのではないかと思ってしまう。
だが、藤堂の口調は落ち着いていて、変に慰める感じもなかった。
だからこそ、逆に信用できた。
村瀬が苦笑しながら続ける。
「本当はこんなにデスマになる予定はなかったんだよな」
缶コーヒーを指先で回しながら言う。
「先方からの無茶な仕様変更なんてのも、まあ、たまにはあるんだが」
一度息を吐いてから、
「あのタイミングで、あの量は正直ないわって思ったし。まー、運が悪かったよな」
その言い方に、水瀬と黒川は少しだけ笑った。
笑いながらも、あの数週間のことを思い返してしまう。
すると村瀬が、思い出したように言った。
「あ、あとさ。人事から言われたんだけど」
嫌な予感がして、水瀬は顔を上げる。
「土日の休日出勤が出過ぎてるから、振休をどこかで取ってもらう必要があるらしい」
「……ですよね」
黒川が乾いた声で言う。
「なので、ちょっと一週間から二週間、どこかでまとまって休み取ってもらうことになりそうだ」
「そんなにですか」
「そんなに」
村瀬は笑う。
「気分転換に旅行とか行くの、オススメだぞ」
その一言が冗談みたいでいて、でも少しだけ現実味もあった。
納品は無事に済んだ。
そして来週、先方側で受け入れ試験が行われた。
問い合わせはいくつか来た。
想定していた軽微な確認や、表示の細かい挙動に関する質問だった。
そのたびにこちらで確認し、返答を返す。
大きな問題にはならなかった。
そして再来週の月曜。
先方のリリースは無事に完了した。
クリティカルな障害は出なかった。
問い合わせは多少あったが、致命的なものではなく、予定していた範囲の対応で収まった。
それを確認したあと、水瀬と黒川は交互に休暇を取ることになった。
しばらく休む。
それがようやく現実になったとき、水瀬は少しだけ笑ってしまった。
休めるというだけで、どこか不思議だった。
給与明細を見たときは、もっと笑ってしまった。
「……やば」
思わず漏れる。
残業代が、とんでもないことになっていた。
残業代だけで月の給料の倍以上だった。
まるでボーナスも支給されたみたいだった。
黒川も自分の明細を見て、同じような顔をしている。
「これ、ちょっとしたバカンス行けるな」
「南の島とか行けそうじゃない?」
「お前と二人は嫌だけど」
「僕も嫌だよ」
二人で笑った。
あんなに長かった夜のあとで、こんなふうに笑えるのが、少し不思議だった。
それでも、水瀬は思う。
最初の頃、自分は何が分からないのかも分からなかった。
設計も、実装も、レビューも、試験も、全部が霧の中にあった。
それが今は違う。
まだ足りない。
まだ遅い。
まだ分からないことはいくらでもある。
けれど、少なくとも、あの頃の自分ではもうない。
設計して、作って、止まって、直して、試して、渡す。
その流れを、最後まで一度通った。
あの長い夜の全部が、無駄ではなかったのだと、ようやく思えた。
窓の外には、何の変哲もない昼の光が広がっていた。
その当たり前の明るさが、今は少しだけ眩しかった。
長かった夜は、ようやく終わった。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この物語は、少し今風の要素も入れていますが、背景としてはおよそ十五年ほど前の時代を意識して書いています。
今の感覚で見ると、「こんな残業、本当にあるのか」と思われるかもしれません。
今なら間違いなく、かなり問題のある働き方ですよね。
以前にも少し触れたかもしれませんが、この話は半分実話です。
当時は、とにかく納品に間に合わせることが何があっても絶対でした。
そのために残業するのも、休日に出るのも、珍しいことではありませんでした。
コードを書くのも今ならAIに書き方やエラーの原因を聞いて、すぐに方向を掴める場面も多いと思います。
でも当時は、「調べる」ということ自体が、コードを書いて試して、また直して、を繰り返すことに近かったです。
今のように使用例がネットに大量に転がっている時代でもありませんでした。
言語ごとの専用ドキュメントを読みながら、
「このクラスを使えばいけるんじゃないか」
「この書き方なら動くかもしれない」
そんなふうに一つずつ当たりをつけて、検証していましたわけですね(専門用語を使ってしまってごめんなさい)
だからこそ、他の言語の案件に入っても、なんとなくこの処理はどんなことをしているんだろうとすぐ理解できたり、半年も開発を続けていると、その言語のお作法が自然と身についてきたりしました。
この小説を書こうと思った理由は、大きく四つあります。
一つ目は、僕自身が今年四十歳になることです。
四十歳の一年でやりたいことの一つに、「小説を書く」を入れていました。
もともと本を読むのが好きでした。
高校生の頃は、図書館で一日一冊借りて読むくらい、活字に触れるのが好きでした。
文学も、エッセイも、昔の物語も、ラノベも読みました。
源氏物語を読んで「高校生には刺激が強いな」と思ったのも、今ではいい思い出です。
二つ目は、新人時代にあった出来事を、自分で書いてみたかったことです。
当時のことを今の自分の目で見直し、客観的に整理してみたい気持ちがありました。
三つ目は、「毎日続けて書く」を目標にしたことです。
当初は一か月チャレンジのつもりで、三十話完結を目指していました。
骨組みや軽い肉付けまでは先に考えていたのですが、いざ書き始めると、思っていた以上に書きたいことが増えてしまい、五十話まで来てしまいました。
四つ目は、これから社会に出るITエンジニアの方にとって、少しでも参考になればと思ったことです。
もちろん、デスマーチそのものは参考にしなくて大丈夫です。
ただ、仕事がどう流れていくのか、何を考えながら進んでいくのか、そういう空気の一端でも伝わればと思って書きました。
なるべくITに詳しくない方でも読めるように、専門用語はできるだけ避けました。
それでも、説明の都合でどうしても使わざるを得ない場面もありました。
もし読みづらいと感じた方がいたら、すみません。
さて、長々とあとがきを書いてしまいましたが、今回の小説を書くにあたって、かなり無茶もしてしまったので、ちょっとしばらく休もうと思います。
「小説家になろう」などへも投稿してみるのもいいかなと考えています。
改めて読み返して、直したいところがあれば直してから投稿するかもしれません。
お休みのあと、また骨組みやいくつかの話を書き溜められたら、続きを書いていこうと思います。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
no name




