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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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43/50

他の人に仕事の愚痴を話した日

 焼き鳥をたんまり食べたあとは、ひたすら日本酒だった。

 どれだけ飲んでも、不思議なくらい酔いが深くならない。

 最初の一口こそ少し緊張したが、飲み進めるうちに、むしろ頭の奥がゆっくりほどけていくような感覚の方が強かった。

 こんなのは初めてだった。

 もう何合飲んだのか分からないくらい飲んでいるはずなのに、泥酔している感じはまるでない。

 気持ちよく頬が熱くて、体の力だけが少しずつ抜けていく。

 ほろ酔いのちょうどいいところが、ずっと続いているような感覚だった。

 お酒は強くもないし、弱くもない。人並みだと思っていた。

 いつもなら、こんな量を飲んでいたら確実に足元が怪しくなっているはずだった。

 店の客も少しずつ減っていき、カウンターの向こうで焼き台に立っていた大将も、いつの間にか手を止める時間が増えていた。


 しばらくして、その大将が水瀬たちの席の近くへ来た。

「後輩くんたち、酒いけるねえ」

 炭の匂いをまとったまま、気さくにそう言う。

 水瀬と黒川は少し姿勢を正して頭を下げた。

「今日は連れてきてもらってます」

 水瀬がそう言うと、大将は笑った。

「村瀬くんが後輩連れてくるの、久しぶりだな」

「そうなんですか」

「昔はしょっちゅう来てたよ。この辺に会社あった頃は特に」

 村瀬は少し照れたように笑いながら、日本酒を一口飲む。

「まあ、あの頃は本当に近かったんで」

「近いってだけじゃないだろ」

 大将はそう言って笑った。

 水瀬は、ついさっきまで焼き台の向こうにいた人が、自然に会話へ混ざってくるのが少し不思議だった。

 けれど、その距離の近さが心地よくもあった。

「本当に美味しい日本酒ってね」

 大将は、湯呑みに口をつけながら言った。

「いくら飲んでも、案外変な酔い方しないんだよ。悪酔いしにくいというか」

「そんなものなんですか」

 水瀬が聞くと、大将は頷いた。

「もちろん限度はあるけどね。でも、雑に酔う酒と、気持ちよく抜ける酒ってあるんだよ」

「へえ……」

 たしかに、と思った。

 水瀬は自分の徳利を見た。ずいぶん飲んだ気がするのに、頭は変に重くない。体の芯だけがほんのり温かくて、気分がいい。

 黒川も同じことを感じていたのだろう。

「たしかに、全然嫌な感じしないですね」

 大将は満足そうに笑った。

「でしょ。村瀬くん、そういうの分かってるからなあ」

 その言葉に、村瀬は肩をすくめた。

「いや、ここで覚えただけですよ」

 大将は村瀬のその言葉になんとなく満足気にカウンターへ戻って行った。


 飲み始めてから、たぶん三時間くらいは経っていた。

 大将がカウンターの向こうから声をかける。

「そろそろラストオーダーだけど、いつもの食べるかい?」

「いつもの?」

 水瀬が思わず聞き返すと、村瀬がこちらを向いた。

「鳥出汁のお茶漬けなんだけど、食べる?」

 なるほど、〆のお茶漬けか。

 しかも焼き鳥屋の鳥出汁のお茶漬けである。美味しくないはずがない。

 黒川が先に反応した。

「いただきます!」

 それにつられて、水瀬も言う。

「僕もいただきます」

「じゃあ三つで」

 村瀬が大将に向かって言うと、大将は軽く手を上げた。

 注文を終えると、村瀬は「ちょっとトイレ」と言って席を立った。

 席に残ったのは、水瀬と黒川の二人だけになる。

 しばらく、日本酒の余韻を舌に残したまま、二人は何となく黙っていた。

 その沈黙が気まずいわけではない。むしろ、ここ数週間では珍しく、何も考えずに黙っていられる時間だった。

 やがて、水瀬がぽつりと呟いた。

「めちゃくちゃ美味しかったな……」

 黒川も同じように、目の前の空いた皿を見ながら言う。

「こんな美味しい焼き鳥屋が近くにあったら、普通に通いそうだな」

「わかる」

 水瀬は笑う。

 そして次の瞬間、ふと現実的な不安が頭をよぎった。

「でもさ、お会計いくらなんだろう……」

 黒川もすぐに乗ってくる。

「最近給料入ったけど、かなりの金額いくんじゃない?」

「だよな。一本千円とかだったし」

「ビールも日本酒も結構飲んでるし」

「やばいな……」

 二人して少し真顔になる。

 笑い話みたいなのに、地味に切実だった。

 特に最近は、タクシー代が本当に馬鹿にならない。

 立て替えて、あとで精算されるとはいえ、その間に財布から消える金額としてはかなり大きい。

「タクシー代もきついよな」

 水瀬が言うと、黒川も深く頷いた。

「俺の家の方、距離あるから余計にでかいんだよな。会社が後で払ってくれるって分かってても、あの金額見るとちょっとくる」

 そのタイミングで、村瀬が戻ってきた。

「何の話してんだ?」

「タクシー代です」

 黒川が答えると、村瀬は少し笑った。

「ああ、新人の頃は結構なダメージあるよな」

 席に座りながら、グラスを手に取る。

「俺の時は好景気の時代だったからさ。部長――いや、今は専務か。その専務が代わりに払ってくれてたからな」

「え、そうなんですか」

「うん。『お前ら今そんなもん払ってたら死ぬだろ』って」

 村瀬は少し懐かしそうに笑った。

「今思えば、だいぶ豪快だったよな」

 そんな話をしているうちに、お茶漬けが運ばれてきた。

 ふわっと鳥出汁の香りが立ち上る。

 小ぶりの丼に入ったそれは、量が絶妙だった。多すぎず、でも物足りない感じもしない。湯気を見ているだけで、もう美味しいのが分かる。

 日本酒も最後の一口を飲み干す。

 徳利の底が空になるのを見て、水瀬は少しだけ残念に思った。

(もう終わっちゃったか)

 そう感じるくらいには、この時間が心地よかった。

 お茶漬けを一口啜る。

「……うまい」

 思わずまた同じ言葉が出た。

 焼き鳥とは違う種類の美味しさだった。鳥出汁が、酒の入った体へまっすぐ沁みてくる。塩気も温度も、今の体がちょうど欲しかったところへぴたりとはまる感じがした。

 まるで、体が最初からこれを待っていたみたいだった。

「これは反則ですね」

 黒川が真顔で言う。

「今の体にちょうどよすぎる」

 村瀬が満足そうに笑う。

「これ、よくメニューにないやつなんだよ。要は裏メニュー」

「裏メニューなんですか」

「ご飯料理の仕込みが余ったときに、こうやって茶漬けにしてもらうことが多くてさ。昔よく食べてたんだよ」

 そう言って、村瀬はまた昔の話をしてくれた。

 前のオフィスが狭かったこと。

 人が少なかった頃のこと。

 今よりもっと無茶な空気の中で、深夜にここへ来て、少しだけ息をついていたこと。

 水瀬はそれを聞きながら、村瀬の中にも、自分たちの知らない時間がちゃんと積み重なっているのだと思った。

 食べ終えて、三人で「ごちそうさまでした」と席を立つ。

 そのとき、水瀬はふと気づいた。

「あれ、伝票……」

 席の端にも卓上にも見当たらない。

 すると村瀬が、何でもないことみたいに言った。

「今日は俺の奢りだ。気にするな」

「え、いいんですか?」

 水瀬が聞くと、村瀬は肩をすくめた。

「部長からもちょっともらってるから、気にするなって」

 どうやら、トイレで席を外したときに、すでに精算していてくれたらしい。

 水瀬は少しだけ気が引けた。

 昼もそうだったが、奢ってもらってばかりだ。

 でも同時に、ありがたいとも思った。

 それをうまく言葉にできず、結局また「ありがとうございます」としか言えなかった。

 三人で店を出る。

 これで終わりかと思ったところで、村瀬があっさり言った。

「じゃ、次行くか」

「次?」

 黒川が聞き返す。

「おねえちゃんの店」

 水瀬と黒川は、ほとんど同時に顔を見合わせた。

 おねえちゃんの店。

 つまり、キャバクラだ。

 大学の頃、先輩に一度だけ連れて行かれたことがある。

 知らない女の子が隣に座り、やけに近い距離で話してくるあの空間が、水瀬は少し苦手だった。

 村瀬はそんな二人の表情を見て笑う。

「今日は遊ぶぞ」

 遊ぶ。

 その言葉に、水瀬は少しだけ戸惑った。

 僕らの感覚でいう“遊ぶ”は、映画を見たり、どこかへ出かけたり、せいぜいボウリングやスポーツをしたり、そういうものだ。

 これが大人の遊びなのか、と水瀬は内心で思う。


 店から少し歩き、商店街を抜ける。

 やがて、ピンク色のネオンが目立つ通りへ出た。

 俗にいう、キャバクラ通りだった。

 村瀬のあとを水瀬と黒川がついていく。

 すると、黒服を着た男がすっと近づいてきた。

「むらさん!」

 その声に、水瀬は少し身構える。

 黒川も同じだったらしい。

「はしさん、久しぶり」

 村瀬は親しげに応じる。

「ご無沙汰っすね。今日はどこか予約有りです?」

 水瀬は黒川と顔を見合わせた。

 村瀬さんって何者なんだ。

 たぶん、二人とも同じことを思った。

「この時間ならラストまでいます?」

「まあ、そのつもりかな」

「ラストだと女の子少なくなるんで、ワンタイム四千円でいいっすよ」

「ほんと?」

「むらさんですし。三人で二万でどうっすか?」

 水瀬は思わず頭の中で計算した。

 前に聞いたことがある限り、ワンタイムは五十分から六十分くらいだったはずだ。ラストまでだとこれから三時間弱。普通に考えればもっといく。

 それを二万でいい、というのは、かなり安い気がした。

(やっぱり村瀬さん、何者なんだ……)

 そんなことを思っているうちに、店の中へ通される。

 照明は薄暗く、空気は甘い匂いを含んでいた。

 大学の頃に一度だけ来た店のことを、水瀬は少し思い出す。

 あのときよりは年を取っているはずなのに、やっぱり少しだけ緊張した。

 席につくと、それぞれの卓に女の子がついた。

 水瀬の隣に来たのは、アヤという源氏名の子だった。

 丁寧に名刺を差し出され、にこやかに挨拶される。

「お仕事帰りですか?」

「はい、まあ……」

「お疲れさまです。遅かったんですね」

 女性との会話に慣れていないわけではない。

 それでも、こういう場の距離感には妙な緊張がある。

 水瀬は、今日はもう酒はやめておこうと思い、烏龍茶を作ってもらった。

 けれど、その子は思っていたより話しやすかった。

 変に煽る感じでもなく、仕事のことや趣味のことを普通に聞いてくる。気づけば、水瀬も自然に話していた。

 ラストの時間に近かったせいか、アヤはずっと水瀬の隣にいた。

 村瀬のところと黒川の隣にいた女の子は、一度入れ替わったくらいだった。

 だからなのか、アヤとは妙に話が弾んだ。

「でもさ」

 アヤが烏龍茶のグラスを指先で回しながら言った。

「それだけ忙しいと、残業代もすごいことになりそうだね」

 水瀬は少しだけ苦笑した。

「たしかに、かなりすごいことにはなってます」

 タイムカードの数字を思い出す。

 毎日遅くまで残って、終電がなくなればタクシー。休日も出ている。

 新人なのに、そんな打刻がずっと続いていた。

「え、新人でそれって結構やばくない?」

 アヤは少し目を丸くした。

「めっちゃ頑張ってるじゃん」

 欲しかった言葉を、そのままもらった気がした。

 水瀬は少し照れくさくなって、視線をグラスへ落とす。

「いや、周りがすごいんで……」

「でも、周りがすごいのと、自分が頑張ってるのは別じゃない?」

 その返しが、妙に真っ直ぐだった。

 水瀬は何も言い返せず、小さく笑うしかなかった。

「アヤさんは、こういう話、よく聞くんですか」

 水瀬が聞くと、アヤは肩をすくめた。

「仕事しんどいって話は多いかな。でも、今日みたいにちゃんと“自分が何してるか”話す人は、意外と少ないかも」

「そうなんですか」

「うん。だいたいみんな、上司がムカつくとか、取引先がやばいとか、そういうの多いし」

 その言い方が少し面白くて、水瀬は笑った。

「じゃあ、僕はまだ健全な方ですかね」

「かなり健全。ちゃんと自分の仕事見てる感じするし」

 そんなふうに言われると、また少しだけ照れくさい。

 話題はそのあと、仕事のことから少しずつ逸れていった。

 アヤが休みの日に何をしているとか、最近観た配信の話とか、学生のころは何をしていたとか。

 何でもない会話だった。

 でも、その何でもなさがありがたかった。

 隣で黒川も、最初のぎこちなさは消えていた。

 村瀬はいつものように場を回しながら、時々こちらに視線を寄越してくる。

 その目に「少しは抜けたか」と書いてある気がして、水瀬は苦笑した。

 しばらくすると、さっきとは別の黒服の男が席へやってきた。

 村瀬の横で軽く腰を折る。

「村瀬さん、お久しぶりです」

「お、どうもどうも」

「今日はありがとうございます。ご案内遅くなってすみません」

「全然いいよ」

 そのやり取りを聞きながら、水瀬はまた少しだけ身構えた。

 さっきのはしさんだけじゃない。別のボーイまで普通に挨拶に来る。

(やっぱり村瀬さん、何者なんだ……)

 隣の黒川も同じことを思ったのだろう。

 少しだけ眉を寄せて、村瀬の方を見ていた。

 ふと、黒川が村瀬に向かって、少しだけ真顔で聞く。

「村瀬さんって何者なんですか?」

 あまりにも直球だった。

 水瀬は思わず烏龍茶を吹き出しそうになる。

 村瀬は一瞬きょとんとしてから、笑った。

「何者って、普通のサラリーマンだよ」

「いや、ボーイさんが何人も挨拶に来るとか、普通には見えないんですけど」

 黒川が真顔で言うと、村瀬は肩を揺らした。

「それはね、昔はもっとデスマが多かった時代でさ。気晴らしに、キャバクラのラストの時間だけでもって、よく来てたんだよ」

「そんなに?」

 水瀬が聞く。

「うん。しかも酒飲みに来るっていうより、コーヒーだけ飲みに来るみたいな感じ」

「え? お酒じゃなくて?」

「翌日も仕事なのに、お酒飲んだら仕事できないでしょ」

 村瀬は笑いながら言った。

「コーヒー頼んで、ワンタイムだけおねえちゃんと話して、それでまた会社戻る、みたいな生活をほぼ毎日してた時期がある」

「……毎日?」

 黒川が目を丸くする。

「その頃は本当に会社戻ってたんですか」

「戻ってた戻ってた」

 村瀬は懐かしそうに笑ったが、その内容はまったく笑えなかった。

「ここでコーヒー飲んで、二十四時間の銭湯行って、洗濯は会社の近くのコインランドリーで。家には一週間に一回帰れるかどうか、みたいな感じだったよ」

 水瀬は一瞬、言葉を失った。

 村瀬のその何気ない言い方に、水瀬は、今の現場を当たり前みたいに回している村瀬の足元に、自分の知らない長い修羅場が積み重なっているのを見た気がした。


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