朝帰りの土曜日
キャバクラでの時間は、思っていたよりずっと早く過ぎた。
ふと席へ来たボーイが、黒い革に包まれた伝票を村瀬の前へ置く。
「むらさん、そろそろお時間です」
村瀬は伝票をぱっと確認すると、財布からカードを取り出し、何でもない手つきで伝票に挟んでそのままボーイへ渡した。
水瀬は思わず時計を見る。
五時だった。
店の中には窓がない。だから外の気配がまるで分からない。
けれど、この時間ならもう、外はうっすら明るくなり始めているはずだった。
最近の激務のせいで、朝焼けの時間帯がだいたい分かるようになってしまったのは、なんとも悲しいことだなと水瀬は思った。
席を立つ空気になったころ、隣に座っていたアヤが水瀬を見た。
「ねえ、さっき渡した名刺ある?」
水瀬は一瞬きょとんとしたが、すぐに最初にもらった名刺を取り出して渡した。
アヤは裏返した名刺に、何やらさらさらと書き込む。
それから、水瀬の目をまっすぐ見て差し出してきた。
「これ、私のLINEのID。水瀬さん、話しやすそうだったから、またお話しよ」
水瀬はちょっと戸惑った。
酔いがまだ少し残っていたし、こういうふうにまっすぐ渡されるのにも慣れていなかった。
嬉しいとかどうこうの前に、まず反応に困る。
「ありがとう、また連絡するね」
結局、それだけ言って受け取るのがやっとだった。
黒服がカードを返しに来る。
どうやらここでの支払いも、村瀬が済ませてくれていたらしい。
本当に、何もかもご馳走になってばかりだった。
三人で店を出ると、朝に近い空気が顔に触れた。
ネオンの色はまだ濃いのに、空の底だけが少し白み始めている。
通りには夜の残り香みたいなざわめきがあった。
酔っている人間もいれば、これからどこかへ向かうような顔の人間もいる。
その間を歩きながら、黒川がすぐに茶化すように言った。
「隣についた子、すごい良さそうな子だったじゃん」
水瀬は思わず顔をしかめる。
「やめろって」
「いや、でもだいぶ話してたろ」
「話しやすかったのはたしかだけど」
そう答えてから、水瀬は少しだけ名刺の感触を思い出した。
財布の中にしまったばかりのそれが、なんとなく気になってしまう。
村瀬も隣で笑った。
「こういうところでの出会いも、案外大事だぞ」
「そういうもんですか」
「社会人になると、学生みたいに簡単には出会えないからな」
妙に的を射たことを言うので、水瀬は返事に困った。
正直なところ、営業目的かもしれない、という疑いはあった。
こういう店なのだから、それは当然あるだろうとも思う。
でも、それでも少し嬉しかったのも本音だった。
その二つが、今の水瀬の中ではちょうど半分ずつくらいだった。
(まあ、そのうち連絡するか)
そこまで考えて、水瀬は財布の中の名刺を指先で少しだけ押し込んだ。
通りを抜けたところでタクシーを拾う。
タクシーの窓の外を眺めていると、街はすっかり朝の顔に近づいていた。
コンビニの前に新聞配送のトラックが止まり、駅前にはもう始発に向かう人の姿もある。
部屋に着く頃には、空は完全に明るかった。
たくさん日本酒を飲んだはずなのに、酔いはもうかなり抜けていた。
あれだけ飲んだのに、と思うくらい、頭は変に重くなかった。
土曜の今日はもちろん出勤だったが、午後からでいいと言われていた。
少し寝よう。そう思ってシャワーを浴びる。
湯を浴びているうちに、さっきまで何とか持っていた体の感覚が急にほどけた。
疲れがようやく追いついてきたらしい。
髪もろくに乾かさないままベッドへ倒れ込むと、そのまま意識がするりと夢の中へ沈んだ。
四時間ほどして、スマホのアラームが鳴った。
「……うわ」
眠い目をこすりながら体を起こし、時計を見る。十一時だった。
いつもより、ずっとぐっすり眠れた気がした。
体の疲れも、頭の重さも、いつもよりは回復している。
たった数時間なのに、ちゃんと寝たという感覚があった。
会社へ向かうために駅へ向かう。
足取りは、昨日までより少しだけ軽かった。
執務室へ入ると、すでに何人か来ていた。
村瀬はもちろん、藤堂も三浦も、佐伯と結城もいる。
黒川はまだ来ていなかった。
席に着き、水瀬はいつものように言う。
「おはようございます」
それぞれが短く「おはよう」と返してくる。
それだけのことなのに、妙にいつもの光景に戻った感じがした。
PCを立ち上げようとしたところで、藤堂がこちらを見た。
「なんかスッキリした顔してる。昨日、だいぶ楽しかったみたいだね」
その言い方が、どこへ行ったのかだいたい分かっていそうな感じで、水瀬は少し苦笑した。
「なんか、色々抜けた気がします」
「へえ」
「日本酒が美味しくて、あんなに飲んだのに全然酔わなかったの初めてでした」
藤堂は少し目を細める。
「ああ、もしかして焼き鳥?」
「ですです。もしかして知ってます?」
「村瀬さんがよく行ってたところでしょ。たぶんあそこかなって思った」
やっぱり分かっていたらしい。
水瀬は少し笑う。
「めちゃくちゃ美味しかったです。一本ずつ全部違うし、日本酒も全然知らない名前ばっかりで」
「だろうね。あそこ、変に有名どころ置かないから」
そんな何気ない会話をしているうちに、土曜の執務室の空気が少しだけやわらかくなった気がした。
藤堂はそこで画面にスケジュール表を表示しながら、水瀬に聞いた。
「二つ目の画面、今日終わりそう?」
「今日中には終わると思います」
「おっ」
藤堂は小さく頷く。
「じゃあ明日は、追加で入った方の画面やってもらおうと思ってるんだけど、いいかな?」
「僕で大丈夫ですか?」
思わず聞き返したのは、不安よりも驚きの方が大きかったからだった。
藤堂はマウスを動かしながら、画面上の項目を軽く示す。
「ちょっと考えることが多い画面なんだけどね」
「はい」
「昨日見た感じだと、いけると思うんだよね」
その一言が、水瀬にはまっすぐ響いた。
「……分かりました」
難しいところを任せてもらえる。
それは素直に嬉しかった。
藤堂はそのまま続ける。
「今度の画面が終われば、画面側は結合試験に着手できるかな」
水瀬は表示されたスケジュールを見た。
自分が担当した画面は、三つ。
たった三つ、という言い方もできる。
その一方で、担当欄の大半は藤堂の名前だった。
自分が三つで息をついている間に、藤堂はその何倍もの画面を持って進めている。
それが、今の自分の現在地なんだと思った。
少しは前に進んだ。
任されるものも増えた。
でも、まだ全然追いついていない。
もっと成長しなければならない。
水瀬は自分の画面に向き合いながら、静かにキーボードを叩き始めた。




