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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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42/50

今日は飲みに行かないか

 金曜日の午後、執務室の空気はいつも以上に重かった。

 疲れているのは、自分だけではない。

 それが、最近は目に見える形で分かるようになってきていた。

 佐伯は前日に午前休を取った。

 翌日は結城が午前休だった。

 村瀬も高橋部長も、顔つきだけ見れば普段通りを保っているようでいて、目の下にはうっすらと疲れの色が残っている。

 黒川は頬が少しこけて見えたし、水瀬自身も、洗面台の鏡を見るたびに目の下の隈が濃くなっているのを感じていた。

 後から参画した三浦と藤堂も例外ではなかった。

 三浦はもともと感情を表に出しにくい人だが、それでも最近は口数がさらに減っていたし、藤堂も、ふとした瞬間に目元へ疲れが落ちることがあった。

 誰も弱音をはっきりとは言わない。

 けれど、チーム全体がじわじわと削れているのは、水瀬にも分かった。


 そんな金曜の夜だった。

 時計が二十二時を回ったころ、村瀬が席から立ち上がり、水瀬と黒川のところへやってきた。

「なあ、二人とも」

 その声に、水瀬はディスプレイから顔を上げる。

「今日、夜飲みに行かないか」

 一瞬、言葉の意味がうまく入ってこなかった。

「……え?」

 水瀬が聞き返すと、黒川も同じような顔をしていた。

「飲み、ですか」

「うん」

 村瀬はいつもの調子で言う。

 けれど、その軽さが逆に現実味を薄くしていた。

 こんな状況で。

 そう思った。

 正直、早く帰って寝たい気持ちもあった。

 黒川もたぶん同じだったのだろう。少しだけ眉を寄せたまま、村瀬を見ている。

 けれど、水瀬は、次の瞬間には何となく思っていた。

 このタイミングで村瀬が誘うのには、たぶん意味がある。

 昼にショッピングモールへ連れ出されたときもそうだった。

 この人は、なんとなくの気分で場を動かすように見えて、実際はかなりよく見ている。

 今の空気も、自分たちの疲れも、たぶん全部分かった上で言っている。

 水瀬は隣の黒川を見た。

「せっかくの村瀬さんの誘いだし、行こうぜ」

 黒川は少しだけ意外そうに水瀬を見たあと、小さく息を吐いた。

「……まあ、そうだな」

 その返事を聞くと、村瀬は満足そうに笑った。

「よし、決まり」


 そこから少しだけ作業を片づけ、三人が会社を出たのは二十三時ごろだった。

 ビルの外へ出ると、夜気が肌に触れた。

 昼間の熱気がどこかへ逃げたあとの、少し乾いた風だった。

 タクシーを待つあいだ、水瀬は何となく振り返る。

 オフィスの入ったビルの上の方には、まだ灯りが残っていた。

 藤堂と三浦は、まだ中にいる。

 てっぺんを越える前に会社を出るだけで、少し申し訳ないような気持ちになった。

 けれど、その気持ちを言葉にする前に、村瀬がタクシーのドアを開けた。

「ほら、乗れ乗れ」

 三人で乗り込む。

 行き先を告げる村瀬の声は、妙に慣れていた。


 タクシーを降りた先は、静かな通りの一角だった。

 深夜に近い時間だというのに、その店の前だけ少し空気が違っている。

 暖簾がかかっていた。

「ここですか」

 水瀬が思わず言うと、村瀬は笑う。

「そう。今日はここ」

 店構えだけで、安い店ではないと分かった。

 暖簾をくぐると、石畳の中廊下が続いている。その先に店の明かりが見えた。外の夜の気配が一枚剥がされて、別の場所へ入っていくような感覚があった。

 店の中へ入ると、着物を着た五十代くらいの女性が笑顔で出迎えてくれた。

「村瀬さん、お久しぶりですね」

 その口ぶりに、水瀬は少し驚く。

 村瀬は軽く頭を下げて笑った。

「ご無沙汰してます。今日は後輩連れてきました」

「まあ、そうなんですね。どうぞどうぞ」

 案内されて進むと、カウンターの向こうで焼き台に向かっていた大将が顔を上げた。炭の熱を受けた横顔が赤く照らされている。

「村瀬くん、いらっしゃい」

「ご無沙汰してます」

「久々じゃないか。今日は後輩とかい?」

「はい。ちょっと連れてきました」

 水瀬と黒川は、ほとんど場違いな気分のまま頭を下げた。

 村瀬だけが妙に自然だった。会社で見る先輩とは少し違う、大人の顔だった。

 席に着き、ひとまずビールを頼む。

 ほどなくして、よく冷えたグラスが三つ運ばれてきた。

「じゃ、とりあえず」

 村瀬がグラスを持ち上げる。

「お疲れ」

「お疲れさまです」

 三人で軽く合わせて、ビールを飲む。

 喉を通る冷たさが、思っていた以上に体へ沁みた。

 ほどなくして焼き鳥が運ばれてきた。

 最初の一本を見た瞬間、水瀬は思わず値段のことを思い出した。

 メニューを見たとき、正直ちょっと腰が抜けそうになった。一本千円前後。焼き鳥の値段として、頭の中にあった感覚を軽く超えている。

「ここ、めっちゃ高くないですか?」

 水瀬が正直に言うと、村瀬はビールを置いて笑った。

「まー、高いよな」

 黒川も苦笑する。

「昼の寿司より衝撃あるかもしれないです」

「でも味はめちゃくちゃ美味いよ」

 村瀬はそう言って、最初の一本を取った。

「昔、この近くに今の会社があってさ」

「え、そうなんですか」

「うん。今のオフィスは三年前に引っ越したんだよ。それまでは毎週みたいにここ来てた」

 そう言われて、水瀬は会社のホームページの沿革欄を何となく思い出した。

 移転の記載があった気がする。

 当時は深く気にも留めていなかったが、こうして今、夜の焼き鳥屋でその話を聞くと、不思議な実感が出た。

「前のオフィス、狭くてね」

 村瀬は少し懐かしそうに笑う。

「ここのところ業績が上振れして、社員も一気に増えて。それで引っ越しを余儀なくされたってわけさ」

「そういえば、沿革に書いてあった気がします」

 水瀬が言うと、村瀬は少しだけ目を見開いた。

「お、ちゃんと見てるじゃん」

「いや、たまたまです」

 そんなやり取りをしているうちに、焼き鳥を口に運ぶ。

 水瀬は、思わず黙った。

 今まで食べたことのない味だった。

 風味が濃い。

 でも脂はしつこくなくて、余分な油がきれいに落ちている感じがした。香ばしいのに重たくない。噛むたびに、炭の香りと肉の旨みがじわっと広がる。

「……うまい」

 気づくと、素直にそう呟いていた。

 黒川も静かに頷く。

「これは、うまいな」

 皿の上に並ぶ部位の名前も、聞いたことのないものばかりだった。

 どこの部位なんだろう、と思う名前が次々に出てくる。説明を聞いても、頭の中に浮かぶのはぼんやりしたイメージだけだ。それでも、どれも驚くほど美味しかった。

 焼き鳥のおかげか、ビールのグラスはあっという間に空いた。

 飲みやすい。食べるたびに、次を流し込みたくなる。

(これは飲みすぎるな……)

 水瀬は内心で少しだけ警戒した。

 ビールがひと段落すると、村瀬がメニューを閉じながら言った。

「せっかくだし、日本酒いこうか」

「日本酒ですか」

「二人とも大丈夫かい?」

「飲めます」

 水瀬は答えてから、少しだけ言い直す。

「けど、あんまり得意ではないです」

「俺もそんな感じです」

 黒川も続けた。

 村瀬がメニューをこちらへ少し傾ける。

 そこに並んでいた日本酒の名前は、どれも聞いたことのないものばかりだった。

 有名どころの銘柄が並ぶのを何となく想像していた水瀬は、逆に少し戸惑う。

 辛口なのか、吟醸なのか、名前からはまるで想像がつかない。

「全然知らない名前ばっかりですね」

 水瀬がそう言うと、村瀬は少し得意そうに笑った。

「ここの親父さん、地元の人しか飲まないような地酒を集めるのが趣味みたいなもんでね」

「へえ……」

「有名どころの方が少ないくらいなんだよ」

 そのとき、追加の焼き鳥を運んできた女将が、村瀬へ向かって言った。

「今日はいい地酒が入ってるんですよ」

「ほんとですか」

「ええ、すごく評判いいです」

「じゃあ、それ二合ください」

 そう言ってしまうところが、もう常連だった。

 少しして徳利とお猪口が運ばれてくる。

 三人で注ぎ合い、水瀬は少しだけ緊張しながら口をつけた。

 思っていたより、ずっと飲みやすかった。

 口当たりがまろやかで、刺す感じがない。

 ふわっとしたフルーティさが鼻へ抜け、そのあとに焼き鳥の香りとうまく重なった。

「……美味しい」

 自然と言葉が出た。

 村瀬はそれを聞いて、どこか嬉しそうに笑った。

「だろ」


 しばらくは、食べて、飲んで、また食べる時間が続いた。

 張りつめていたものが、少しずつほどけていく感じがあった。

 村瀬がふと、二人の顔を順番に見た。

「最近、遅かったりしたけど。体調は大丈夫か?」

 その聞き方は、思っていたよりずっと真面目だった。

「体もだけど、心の方も」

 村瀬は続ける。

「かなり大変なはずだけど、二人ともよく耐えてるよ」

 水瀬は、少しだけ返事に迷った。

 真正面からそう言われると、何を返せばいいのか分からなくなる。

「……ありがとうございます」

 結局、それしか出てこなかった。

 少しの間が空いてから、水瀬はグラスの縁を見ながら言った。

「正直、何が分からないのかも分からない、みたいな時がずっとありました」

 村瀬は黙って聞いている。

 急かさないのがありがたかった。

「知らないことが多すぎて、毎日どこかで止まってて。周りは当たり前みたいに話してるのに、自分だけ何段も下にいる感じがして」

 水瀬は少しだけ苦笑した。

「それでも最近は、前よりは何で止まってるか分かるようになってきたかなって……」

「うん」

「だから、成長してないわけじゃないんだろうなとは思うんですけど、まだ全然足りないなって思うことの方が多いです」

 村瀬はその言葉に小さく頷いた。

「それ、ちゃんと前に進んでるってことだよ」

 静かな言い方だった。

 励ますためだけの軽さはなかった。

 その横で、黒川が少しだけ笑った。

「俺も似たようなもんですけどね」

「黒川も?」

 水瀬が聞くと、黒川はグラスを置いて肩をすくめる。

「一緒に組んでた先輩がいなくなったときは、普通に絶望しかなかったです」

「そんなに?」

「いや、これ一人は無茶すぎでしょ……って思いました」

 珍しく、少しだけはっきりした愚痴だった。

 でも、その口調には本気の疲れが混じっている。

「インフラって、分かる人がいなくなると急に景色変わるんですよね」

 黒川は苦笑する。

「何か起きたときに、どこから見ればいいのかだけは分かってるつもりでも、その先が全部手探りになるというか」

「それ、しんどいな」

 水瀬が言うと、黒川は少しだけ苦笑したまま、今度は村瀬の方を向いた。

「これがめちゃくちゃしんどかったです。しかも周りは普通に進んでるじゃないですか。あれで結構きました」

 水瀬はその言葉に、少しだけ頷いた。

 分野は違っても、その感覚は分かる気がした。

 村瀬はそんな二人を見て、少しだけ笑った。

「でも、ちゃんと踏ん張ってるじゃん」

 そう言って、日本酒を一口飲む。

「本当は部長も来る予定だったんだけど、他のメンバーもいるしな」

「他のメンバーには今日のこと、話してあるから」

 村瀬は続けた。

「今日は気にせず飲め。色々溜まってるものもあるだろうし、こういう日はちょっと外に出した方がいい」

 その言葉を聞いて、水瀬は、やっぱりこの飲みはただの思いつきではなかったのだと思った。

 壊れる前に、一度抜く。

 吐き出すというほど大げさではなくても、言葉にして、自分がどこにいるのかを少し確かめる。

 村瀬はたぶん、最初からそういうつもりだったのだろう。

 高い焼き鳥と、知らない名前の地酒と、会社の外で見る先輩の顔。

 どれも、水瀬の知っている金曜の夜とは少し違っていた。

 そしてたぶん、その違いが必要だった。

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