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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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終わりはまだ遠い

 追加要件は、結局入ることになった。


 その話がチームに共有された朝、執務室の空気は目に見えて重かった。

 高橋部長が短く状況を説明し、村瀬が補足を入れる。言葉自体は必要最低限だったが、それだけで十分だった。


 画面が二つ追加。

 バッチも追加。

 ただし、一部は整理して、できるだけ今の実装に寄せる形にする。

 それでも楽になるわけではない。


「厳しいのは変わらないです」

 村瀬は最後にそう言った。

「ただ、やることは見えたので、順番に詰めていきます」


 その言い方は落ち着いていた。

 けれど、落ち着いていることと余裕があることは、まったく別なのだと水瀬にも分かった。


 せっかく一つ目の機能を終わらせたばかりだった。

 少しだけ、自分の中に手応えが残っていた。

 だが、プロジェクト全体はそれを待ってはくれない。


 終わった、と思えるものが一つできても、案件そのものが軽くなるわけじゃない。

 むしろ、少し持ち直したところへ、また新しい重さが載る。


 それでも、水瀬は次の機能に入っていた。


 二つ目の機能は、一つ目より少しだけ複雑だった。

 画面の項目も多く、条件によって見え方が変わる箇所もある。確認画面へ進む流れも、途中で枝分かれする。

 前なら、その時点で少し気持ちが萎えていたかもしれない。


 けれど今は、少なくとも「どこで止まりそうか」は前より見えていた。


 朝から設計書を開き、項目を整理する。

 この値はどこで意味を持つのか。

 条件によって非表示になるなら、そのとき保持するのか消すのか。

 確認画面へ渡す前に何を見ておくべきか。

 実装する人が迷いそうなところはどこか。


 一つ目の機能で何度も止まりながら覚えた視点が、今度は最初から少しだけ使えた。


 藤堂が横から資料を見て、小さく言う。


「うん、そこは先に書いておいた方がいいね」

「はい」

「あと、この条件分岐も今のうちに入れとこうか。後から戻ると面倒だから」


 水瀬はすぐに追記する。

 前なら、言われたことをただ写すだけで精一杯だった。

 今は、なぜ今ここを揃えるのかが少し分かる。


 コーディングに入ってからも、違いはあった。


 もちろん、止まることは止まる。

 条件分岐の書き方で迷い、戻る動作の扱いで設計書を見返し、値の保持でまた考え込む。

 それでも、一つ目のときほど、何も分からないまま固まることはなかった。


 止まる場所が分かる。

 分かるから、聞くべきことも分かる。

 それだけで、進み方はだいぶ違った。


 午前中の終わり頃、藤堂が水瀬の画面を見て言った。


「ここ、前よりだいぶ見やすいね」


 不意の一言だった。


「え」

 水瀬は思わず顔を上げる。


「設計。前のやつより、読む側の迷いどころが減ってる」

「……ほんとですか」

「うん。細かい直しはあるけど、大枠は揃ってる」


 それだけだった。

 でも、水瀬には十分だった。


 藤堂はもともと、必要以上に褒める人ではない。

 だからこそ、その短い言葉がそのまま胸に入ってくる。


 指摘が減っていることにも、水瀬は薄々気づいていた。

 一つ目の機能では、設計でも、コーディングでも、単体試験でも何度も止まった。

 今はもちろん手直しがある。けれど、「そこはもう大丈夫そうだね」と言われる箇所が、少しずつ増えていた。


 それが、思っていた以上に嬉しかった。


 案件に入ってから、もうすぐ一ヶ月になる。


 曜日感覚は、とうの昔に薄れていた。

 平日も休日も、夜の深さとタクシーの回数でしか区別できないような日が続いている。

 それでも時間だけは進んでいて、リリースまではあと一ヶ月というところまで来ていた。


 昼過ぎ、少し手が空いたタイミングで、水瀬は隣の藤堂に聞いた。


「今、全体ってどれくらいまで来てるんですか」


 藤堂はすぐには答えず、一度画面から目を離した。

 少し考えるような間があってから、口を開く。


「前よりは戻してるよ」


 その言い方は静かだった。


「追加も入ったし、楽になったわけじゃないけど」

「はい」

「チーム全体でだいぶ巻き返してはいるかな。前みたいに、何も見えない感じではなくなってきた」


 水瀬は小さく頷く。


 たしかに、最初の頃の現場はもっとひどかった。

 何がどこまで遅れていて、何が終わっていなくて、何が危ないのか、その全体像すらぼんやりしていた。

 今は違う。苦しいことに変わりはないが、少なくとも何を前に進めているのかは見える。


 藤堂は続けた。


「ただ、まだ開発残はあるし、結合試験も本来の予定より遅れてる」


「結合試験って……」


「本当なら、もう少し前から入りたかったかな。二日前、くらいには」


 その言葉に、水瀬は少しだけ息を呑んだ。


 二日。

 たった二日とも言えるし、こんな案件ではその二日が致命的とも言える。


「じゃあ、まだ結構……」

「うん、普通に厳しい」


 藤堂はあっさり言った。


「でも、完全に無理なところからは少し戻してる。そういう感じ」


 その言い方が、妙に現実的だった。

 楽観でもなく、悲観でもない。ただ、そのままの温度で状況を置いてくれる。


 水瀬はそれ以上は聞かなかった。

 聞けばきっと、まだまだ出てくるのだろうと思った。

 そして、それを聞いたからといって、自分のやることが変わるわけでもない。


 夕方、休憩スペースへ飲み物を取りに行くと、そこで村瀬と一緒になった。


 村瀬は缶コーヒーを片手に、壁にもたれるようにして立っていた。

 目の下にはうっすら疲れが見える。けれど、いつものようにこちらへ気づくと、少しだけ笑った。


「お、珍しく休憩してる」


「さすがにちょっとだけ」


「大事大事」


 水瀬も自販機でコーヒーを買い、プルタブを開ける。炭酸じゃないのに、開ける音が妙に大きく響いた。


 少しだけ間があってから、水瀬は聞いた。


「……スケジュールって、今どんな感じなんですか」


 村瀬は缶を口元まで持っていったまま、一瞬だけ黙った。

 それから、小さく息を吐く。


「正直、まだ普通にきついよ」


 その言い方に、水瀬は少しだけ苦笑した。

 たぶん、そうだろうと思っていた。


「ですよね」

「うん。追加も入ったしな。戻した分だけ、また増えた感じ」


 村瀬はそう言ってから、少しだけ顔を上げた。


「でも、全然見えなかった頃よりはマシ」

「マシ、ですか」

「うん。終わりがどこにもない感じではなくなってきた」


 その言葉を、水瀬は黙って聞いた。


「あと一踏ん張りってところまでは来てると思う」

 村瀬は缶コーヒーを一口飲んでから続けた。

「まあ、その“一踏ん張り”が長いんだけどな」


 最後だけ少し笑う。

 その笑い方に救われるような、逆に余計現実味が出るような、変な気持ちになった。


「でも、ここで崩れると全部後ろが死ぬから」

 村瀬は視線を少し落としたまま言った。

「だから、もうちょい。そんな感じ」


 水瀬は缶を持ったまま、小さく頷いた。


 もうちょい。

 あと一踏ん張り。

 言葉にすると簡単なのに、その中身はきっと軽くない。


 それでも、今ここまで来ているのは、自分の頑張りだけではないということだけは、前よりよく分かっていた。

 高橋が前で話している。

 村瀬が現場を繋いでいる。

 藤堂たちが速い判断で巻き返している。

 佐伯も結城も三浦も黒川も、それぞれの場所で遅れを削っている。


 その上に、自分もいる。


 執務室へ戻る廊下を歩きながら、水瀬は思った。

 一つ目の機能が終わった。

 二つ目も、前よりは進められている。

 まだ足りない。まだ遅い。

 でも、前の自分よりは確かに前へ進んでいる。


 終わりはまだ遠い。


 追加要件も入った。

 結合試験も遅れている。

 リリースまであと一ヶ月しかない。


 それでも、だからこそ、ここで緩むわけにはいかないと思った。


 席に戻り、モニターを開く。

 さっきまで書いていたコードの続きがそこにある。

 条件分岐。入力チェック。画面遷移。やることはまだいくらでも残っている。


 水瀬は静かに息を吐いて、キーボードに手を置いた。


 チーム全体で巻き返しているのなら、

 自分も、もう少し前へ進まなければならない。


 その思いは、焦りというより、少しだけ熱に近かった。



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