朝のカフェ
翌朝、水瀬は、いつもより少しだけ早く家を出た。
昨夜も帰りは遅かった。
タクシーの後部座席に体を預けたときには、もう頭の半分くらいが眠っていた気がする。
家に着いて、風呂に入って、着替えて、布団に入った。
そこまでは覚えているのに、ちゃんと眠れたかと聞かれると、少し自信がなかった。
それでも今日は、ほんの少しだけ気分を変えたかった。
駅までの道を歩きながら、水瀬は昨日のことを何度も思い返していた。
条件分岐。
戻るときの状態保持。
入力値を残すのか消すのか。
考えたところで、今ここで答えが出るわけではない。
それでも、頭の中からすっきり消えてくれなかった。
会社の近くまで来たところで、水瀬は足を止めた。
ちょうど給料が入っていた。
交通費の精算分も口座に戻ってきている。
毎日のタクシー代で財布の中身は思ったより軽くなっていたけれど、それでも今日は少しだけ、自分を甘やかしてもいい気がした。
水瀬は会社近くのカフェへ入った。
ガラス越しの朝の光が店の奥まで差し込んでいて、店内には出勤前の人たちが静かに流れていた。
コーヒーの匂いと、焼いたパンの温かい香りが混ざっている。
誰かが小さく咳払いをして、レジの前では紙カップを受け取る音がした。
慌ただしいのに、どこかまだ一日の始まりらしい余白がある。
そんな朝の空気だった。
水瀬はコーヒーとサンドを頼んだ。
会計を済ませて、品物ができるまでのあいだ、空いている席を探そうと店内を見回す。
そのときだった。
窓際の二人席に、藤堂が座っていた。
藤堂もこちらに気づいたらしく、軽く片手を上げた。
「水瀬くん」
そして、当たり前みたいに手招きする。
「こっち、空いてるよ」
水瀬は一瞬だけ驚いたが、小さく頷いた。
ちょうどそのタイミングで、頼んでいたコーヒーとサンドができあがる。
トレーを持って席へ向かうと、藤堂は窓側ではない方の椅子を目で示した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
水瀬は軽く頭を下げて席に座った。
「おはようございます」
「おはよう」
会社の外で見る藤堂は、いつもより少しだけやわらかく見えた。
それでも、背筋の伸びた感じや、動作に無駄がないところは変わらない。
「朝ごはんですか」
「うん。今日はちょっと早く出たから」
藤堂はそう言ってコーヒーをひと口飲んだ。
「水瀬くんも?」
「はい。ちょっと……気分変えたくて」
そう答えると、藤堂は小さく頷いた。
「いいと思う。そういうの、大事だよ」
その返しが妙に素直に胸に入って、水瀬は少しだけ肩の力を抜いた。
サンドの包みを開く。
湯気のような熱はもうないけれど、パンはまだほんのり温かかった。
会社の中とは違う場所で向かい合っているだけで、同じ人なのに距離が少し違って見える。
とはいえ、藤堂は藤堂だった。
変に気を遣いすぎるわけでもなく、かといって無理に話を広げるわけでもない。
そのちょうどよさが、水瀬にはありがたかった。
藤堂がふと、水瀬の顔を見た。
「仕事、少しは慣れた?」
不意にそう聞かれて、水瀬はサンドを持ったまま少し考えた。
「……慣れたところもありますけど、まだ全然です」
そう答えると、藤堂は小さく笑った。
「うん。でも、それっていいことだよ」
水瀬は思わず顔を上げる。
「そうですか?」
「うん。
前より見えるものが増えてきたってことだと思うから」
その言い方は、励ますためだけのものではなかった。
ただ思ったことをそのまま言っているようで、だからこそ変に重くならない。
水瀬は少しだけ苦笑した。
「前より、何が分からないかは分かるようになってきた気はします」
「それ、大きいよ」
藤堂はそう言って、サンドを小さくちぎる。
「最初って、分からないことが分からないからね」
水瀬は黙って頷いた。
その言葉は、前の案件で何度も味わった感覚そのものだった。
少しの沈黙のあと、藤堂が今度は少しだけまっすぐな目で聞いてきた。
「連勤続いてるけど、体は大丈夫?」
その問い方が変に大げさじゃなかったぶん、水瀬は返事に少し迷った。
「大丈夫……とは言いづらいですけど、倒れるほどではないです」
そう答えると、藤堂は少しだけ笑った。
「まあ、そうなるよね」
茶化しているわけではなかった。
分かるよ、という温度が、その一言にはちゃんとあった。
「藤堂さんも、こういう案件やったことあるんですか」
水瀬が聞くと、藤堂はカップを持ったまま少しだけ視線を上に向けた。
「あるよ」
それから、少し間を置いて続ける。
「終電なくなるのが普通、みたいな時期」
水瀬は思わず顔を上げた。
「やっぱり、あるんですね」
「あるある」
藤堂は肩をすくめる。
「今思えば、あれはちょっと無茶だったなあって思うけど」
その言い方は軽かった。
けれど、そこに含まれている重さはなんとなく伝わってきた。
この人も、最初からずっと平気だったわけじゃないのだ。
その当たり前のことが、少しだけ救いになった。
「そういうときって、どうしてたんですか」
水瀬が聞くと、藤堂は少しだけ笑う。
「どうしてたっていうほど立派なことはしてないけど」
そう言ってから、コーヒーをひと口飲んで続けた。
「ちゃんと食べることかな。
あと、少しでも頭を切り替えること」
「切り替え、ですか」
「うん。
ずっと同じこと考えてると、逆にどんどん詰まっちゃうから」
その言葉に、水瀬は、さっきまで頭の中でぐるぐるしていた条件分岐のことを思い出した。
たしかに今、こうしてカフェに座っているだけで、ほんの少しだけ呼吸が戻っている気がする。
藤堂は何でもないふうに言った。
「しんどいときほど、食べるのは意外と大事だよ」
その一言が、なぜか妙に心に残った。
気づけば、トレーの上のサンドはなくなっていた。
コーヒーも、もうほとんど残っていない。
頭の中にあった昨日の続きを、完全に忘れたわけではない。
それでも、さっきまでより少しだけ整っている気がした。
藤堂が時計を見て立ち上がる。
「そろそろ行こうか」
「はい」
水瀬もトレーを持って立ち上がった。
返却口へ向かいながら、店のガラス越しに外を見る。
朝の光はもうすっかり強くなっていて、通りを歩く人も増えていた。
トレーを返し、二人で店を出る。
ビル風の抜ける道を並んで歩きながら、水瀬は小さく息を吐いた。
お腹が満たされたせいか、さっきより少しだけ気持ちが前を向いている。
藤堂が前を見たまま言う。
「じゃあ、会社に向かおうか」
「はい」
緊張は消えていない。
けれど、さっきまでとは少しだけ質の違う緊張だった。
会社のビルが近づいてくる。
自動ドアの向こうには、またいつもの執務室がある。
少しだけ人間に戻った頭で、また仕事の中へ戻っていく。
それでも、水瀬は思っていた。
こういう朝があるだけで、たぶん少しは違うのだと。




