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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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34/50

設計通りに作れない

 翌朝、水瀬は、いつもより少しだけ早く会社に着いた。

 昨日も帰りはタクシーだった。

 しかも自分が席を立ったとき、まだフロアには何人か残っていた。

 誰かと比べてどう、という話ではない。

 それでも、置いていかれているような感覚だけは、胸のどこかに薄く残る。

 眠れなかったわけではない。

 ただ、よく眠れたとも言えなかった。

 頭の奥には、昨夜閉じた設計書の断片がまだ残っている。


 条件分岐。

 戻る動作。

 保持する値。

 消す値。


 目が覚めてからも、そういう言葉が、まとまりきらないまま浮かんでは沈んでいた。

 それでも今日は、やることだけははっきりしている。

 昨日まとめた設計をもとに、実際に画面を作り始める。

 そう思うと、重たい体のままでも、足だけは前へ出た。

 執務室へ入ると、藤堂はもう来ていた。

 隣の席でディスプレイを立ち上げ、昨日の資料を開いている。

 水瀬が鞄を置くと、藤堂がちらりと顔を上げた。

「おはよう」

「おはようございます」

 藤堂は軽く頷いてから、また画面に目を戻す。

「昨日の設計、あとで一回一緒に見ようか。

 そのうえで、今日どこから作るか整理しようね」

「はい」

 水瀬は自分の席に座り、PCを立ち上げた。

 起動を待つ数十秒が、妙に長く感じる。

 まだ始まってもいないのに、肩だけ先に固くなっていた。

 少しして、藤堂が声をかける。

「今大丈夫?」

「はい」

 椅子を寄せると、藤堂は二枚あるディスプレイのうち片方を少しだけこちらへ向けた。

 そこには設計資料と画面遷移図が並んでいる。

「昨日の段階で、大枠は見えてるよね」

「はい」

「だから今日は、昨日設計してもらったこの画面から作り始めようと思う。

 流れが比較的単純だし、他の画面のコーディングにも活かせそうだからね」

 藤堂の説明は短い。

 でも、必要な情報だけがきちんと入ってくる。

「最初から全部きれいにやらなくていいよ。

 まずは画面として立ち上げてみて。

 引っかかって、わからなくなったらすぐ聞いてね」

 水瀬は頷いた。


 昨日、藤堂が言っていたことを思い出す。

 手を動かした方が、どこを決めておかないと困るか見えやすい。

 今日は、その言葉の続きを、自分の手で確かめる日なのだろう。

 席へ戻り、設計書とエディタを並べて表示する。

 最初のうちは、思っていたより順調だった。


 画面の枠を作る。

 入力欄を置く。

 ラベルを揃える。

 ボタンを並べる。


 まずは見えているものを、そのまま形にしていけばいい。

 条件分岐や細かい挙動は、まだその先だ。

 そこまでは、本当にその通りだった。

 レイアウトが画面の上に立ち上がっていく。

 頭の中にしかなかったものが、少しずつ目に見える形になる。

 その感覚は、思っていたより楽しかった。

 ひとまず、見た目だけは一通りできたところで、藤堂が手を止めてこちらを覗いた。

「どこまでいった?」

「見た目だけですけど、ひとまずここまで……」

 藤堂は画面を見て、小さく頷いた。

「うん、骨組みはこれでよさそう」

 水瀬はわずかに息を吐いた。

 けれど、その安堵は長く続かなかった。

「じゃあ、ここからだね」

 そう言われた瞬間、さっきまでの軽さがすっと引いていく。


 水瀬は画面へ向き直る。

 ここから先は、見た目を並べるだけでは済まない。

 条件によって表示を切り替え、入力された値を持たせ、エラーを返し、遷移を決める。

 つまり、動くものにしなければならない。

 そして、すぐにその言葉の意味を知ることになった。

 ある条件分岐の実装に入ったところで、水瀬の手が止まる。

 条件Aのときは表示する。

 条件Bのときは表示しない。

 そこまでは、設計書にも書いてある。

 では、その条件から外れた瞬間、すでに入力されていた値はどうなるのか。

 画面から消えるだけでいいのか。

 中に持ったままにするのか。

 それとも初期化するのか。

 設計書を見返す。

 書いてある。

 ようにも見える。

 でも、読み切れない。

「……あれ」

 自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。

 隣で藤堂が顔を上げる。

「迷ったかな?」

「はい……」

 水瀬は少し苦笑して、画面を見せた。

「この条件のとき、値をどう扱うかが、設計書だと読み切れなくて」

 藤堂はすぐには答えを言わなかった。

 代わりに、設計書の該当箇所へ視線を落としたまま聞いてくる。

「今、自分で書いた設計を見て、どこで迷ってる?」

 水瀬はその問いに、すぐには答えられなかった。

 文言がないわけではない。

 でも、その文言から最後の判断が落ちてこない。

「……値を残すのか、条件外なら消すのか、その判断です」

 藤堂は小さく頷く。

「うん。そこだね」

 それから画面へ視線を戻して言う。

「読み切れないなら、実装する人は止まるよね」

 水瀬はそこで、思わず苦笑した。

「……今、止まってます」

「でしょ」

 藤堂はあっさり言った。

 その言い方は軽い。

 けれど、水瀬には妙に刺さった。

 自分で書いた設計なのに、自分がそこで迷っている。

 それ以上に分かりやすい事実はなかった。

 藤堂は資料を見ながら続ける。

「ここは条件外なら保持しないでいいと思う。

 ただ、戻ったときの見え方だけは合わせたいから、その条件は追記しよう」

「はい」

「あと、今みたいに実装で止まるなら、それって設計に返せる話だから」

「設計に返せる……」

「うん。

 作るときに迷ったってことは、読む人が迷うってことだから」

 その言葉は、昨日聞いた話の続きだった。

 でも、今日はもう説明ではなかった。

 自分の手が止まっている。

 その感覚があるからこそ、意味がそのまま腹に落ちる。

 修正して、また進める。

 今度は少し進む。

 だが、別の箇所でまた止まる。

 入力チェックのタイミング。

 確認画面へ進む前に出すのか。

 押下後にまとめて返すのか。

 戻るボタンを押したときの状態保持。

 エラー文言の出し方。

 条件によって非表示になる項目の値の扱い。

 一つ越えるたびに、また別の迷いが出てくる。

「すみません、ここも……」

「うん、見せて」

 また聞く。

 また確認する。

 また設計に戻る。

 その繰り返しだった。

 藤堂は嫌な顔をしない。

 むしろ、止まるなら早く聞いて、という姿勢を崩さない。

 それでも、水瀬の中には焦りが少しずつ積もっていった。

 進まない。

 思っていたより、ずっと進まない。

 設計したものをそのまま形にしていけば、もっと先まで行ける気がしていた。

 だが実際には、一つひとつの曖昧さが、そのまま時間を削っていく。

 自分で決めきれない。

 決めきれないから聞く。

 聞いて直す。

 するとまた別の曖昧さが見つかる。

 その繰り返しのうちに、執務室の空気が少しずつ変わっていった。

 昼間はあちこちで聞こえていた会話が減る。

 席を立つ人が増える。

 遠くの島の照明も、必要なところだけが残っていく。

 水瀬はふと顔を上げた。

 広いフロアの向こう側は、もうかなり暗い。

 残っているのは、この案件に関わっているメンバーばかりだった。

 時計を見る。

 思っていたより、ずっと遅い。

「……うそだろ」

 思わず小さく声が漏れる。

 少し離れた席から、黒川が顔を上げた。

「何時?」

 水瀬が時間を言うと、黒川は乾いた笑いを漏らした。

「また溶けたな」

「うん……」

 その一言が、妙にしっくりきた。

 今日もまた、時間が溶けている。

 昼間のうちは、画面が形になっていくのが少し楽しかった。

 設計したものを実際に作る、その感覚が新鮮でもあった。

 でも、手を動かし始めると、決めなければいけないことがいくらでも出てくる。


 項目名の揃え方。

 条件ごとの表示制御。

 戻るときの状態保持。

 バリデーションの順番。

 エラー文言の扱い。


 一つ片づけるたびに、次の論点が顔を出す。

 終わりが近づくというより、設計というものの奥行きが、ようやく本当の意味で見え始めた感じだった。

 隣では、藤堂がまだ画面を見ている。

 向こうも疲れているはずなのに、その手は止まらない。

 速い。

 けれど、雑ではない。

 その速さに追いつこうとすると、自分の頭の回転が足りないのがよく分かった。

 水瀬は肩を回し、もう一度、設計書とコードを見比べた。

 疲れていた。

 頭も重い。

 それでも、今日は止まれなかった。

 ここで詰まれば、その先が詰まる。

 チームが回り始めた今、自分の遅れは前よりずっと目立つ。

 それが分かっているからこそ、焦る。

 焦るのに、急げば正しくなくなる。

 設計は、レビューを通すためのものじゃない。

 作るときに迷わないためのもの。

 その当たり前を、水瀬は自分の手を止めながら理解していた。

 理解したときには、もう夜がかなり深くなっている。

 この案件は、そういう速さで時間を食っていくのだと、水瀬は思った。


 帰る前、藤堂がモニターを閉じながら声をかけてきた。

「今日はお疲れ」

「お疲れ様です」

「進みは重かったと思うけど、悪くないよ」

 その言葉に、水瀬は少しだけ顔を上げた。

 藤堂は続ける。

「今日みたいに止まるところって、設計で決め切れてないところだから。

 逆に言えば、そこが見えたのは収穫なんだよね」

「……はい」

「最初から全部きれいに作れる人なんていないし」

 そう言って、藤堂は少しだけ表情をやわらげた。

「明日も続きやろう。

 今日止まったところ、先に揃えてから進めれば、たぶんもう少し楽になるから」

「わかりました」

 水瀬はそう返しながら、ゆっくり息を吐いた。

 疲れていた。

 でも、今日の疲れは少し種類が違った。

 ただ作業量が多かったからではない。

 設計の意味を、自分の手が止まることで知った疲れだった。

 分かったつもりでいたことが、実際にはまだ全然分かっていなかった。

 そのことを、今日一日で思い知らされた。

 けれど同時に、次にどこを揃えておかなければならないのかも、前よりはっきり見えていた。

 設計して、作って、また設計へ戻る。

 その往復の中で、少しずつ形になっていく。

 デスマーチは相変わらず続いている。

 夜は深く、時間はすぐになくなる。

 それでも、水瀬は静かにPCを閉じた。

 今日は止まった。

 でも、その理由が見えたのなら、たぶん次はもう少し前へ進める。


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