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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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33/50

誰のための設計?

 翌日も、水瀬は朝から藤堂の隣で画面まわりの設計資料を追っていた。

 前日よりは、少しだけ見える。

 画面遷移がどうつながっているのか。

 項目がどこで意味を持って、どこで次の処理へ渡っていくのか。

 バッチ設計のときには霧の向こうにあったものが、今日は輪郭くらいなら追える気がした。

 とはいえ、速さにはまだ慣れない。

 藤堂は資料を開き、必要な箇所だけを短く示していく。

 説明は簡潔なのに、抜けがない。

 どこを先に揃えておけば後が楽か、どこは今決めておかないと面倒になるか、その判断が最初から頭の中に並んでいるようだった。

 水瀬はノートを取りながら、必死にその後ろを追いかけた。

 午前中いっぱいかけて、担当する画面の設計はひとまず形になった。

 まだ荒い。自分でも分かる。

 それでも、何もなかったところに線が引かれ、項目が並び、流れが見えるようになっただけで、少しだけ達成感があった。

 藤堂がその資料を見ながら、小さく頷く。

「うん、方向は悪くないよ」

 その一言に、水瀬は思わず肩の力を抜きかけた。

 けれど、もちろんそれだけで終わるはずがない。

 藤堂はマウスを滑らせ、ある箇所で止めた。

「これ、このまま渡されたらどこで迷いそう?」

 不意にそう聞かれて、水瀬は一瞬だけ黙った。


 迷いそう、ということは、どこかに分かりづらいところがあるということだ。

 そう思って、もう一度画面を見直す。


 条件分岐。

 戻る動作。

 入力値の保持。


 少し考えてから、水瀬は口を開いた。

「……この条件のとき、値を残すのかどうか、ですかね」

 おそるおそる言うと、藤堂はすぐに頷いた。

「うん、そこ」

 短い返事だった。

 でも、合っていたというだけで少しだけ救われる。

「今の書き方だと、人によって解釈が分かれそうなんだよね。

 それって、実装するときに止まるってことだから」

「……あ」

 水瀬はそこで、ようやく自分が見落としていたものの形を掴んだ気がした。

 設計書の中に書いていないわけではない。

 けれど、読む人によって違う受け取り方ができてしまう。

 それは、つまり設計として足りていないということだった。

 藤堂はさらに別の箇所を指した。

「戻る動作も同じ。

 入力値を保持するのか、条件によって初期化するのか、今のままだと読む側が判断しにくい」

 水瀬は思わず小さく息を呑む。

 言われてみれば、その通りだった。

 でも言われるまでは、そこがそんなに大事な分かれ目だとは思えていなかった。

「設計って、書いてあることが正しいだけじゃ足りないんだよ」

 藤堂は画面を見たまま言った。

「読んだ人が迷わないことも大事」

 その言葉は静かだった。

 けれど、水瀬には妙に残った。

 意味は分かる。

 たしかにその通りだ。

 ただ、そのときの水瀬に分かっていたのは、まだ頭の上の方だけだった。

 本当にその言葉の重さを知るのは、もう少し先のことなのだろうと、どこかで思った。

 それからも藤堂は、いくつかの箇所を水瀬に考えさせるように見ていった。

「ここ、読む人によって揺れそうなのどこだと思う?」

「この確認画面に行く前の条件……ですかね」

「そうそう。じゃあ、そこを見た人が迷わないようにするには、何を書いておいた方がよさそう?」

 問われるたびに、水瀬は少しずつ考える。

 最初は曖昧だった視点が、だんだんと揃ってくる。

 自分が分かればいいわけではない。


 レビューする人。

 実装する人。

 あとから触る人。


 その人たちが同じ理解にたどり着けるようにしておく。

 それが設計なのだと、藤堂は一つ一つの会話の中で水瀬に気づかせていった。

 答えだけ先に言うことは、たぶん簡単だ。

 でも藤堂はそうしない。

 どこが曖昧なのか。

 どこで読み手が止まりそうなのか。

 それを、水瀬自身に見つけさせようとしている。

 そのやり方は厳しいというより、実務的だった。

 現場では、いつだって隣で答えをくれる人がいるわけじゃない。

 だから、自分で気づけるようにならないといけない。

 そんな意図が、少しだけ分かる気がした。

 昼を過ぎても、見直しは続いた。

 資料を読み返し、表現を揃え、抜けている条件を書き足す。

 書いている内容そのものは大きく変わっていないのに、言葉をひとつ直すだけで読みやすさが変わる。

 その違いが、今日はやけにはっきり見えた。

 今までは、自分が理解するために書いていた。

 少なくとも、水瀬にとって設計書はそういうものに近かった。

 けれど今日は違う。

 藤堂に問い返されるたびに、頭の中に残る言葉がある。

 このまま渡されたら、どこで迷うか。

 その視点で資料を見返すと、見えてくるものが変わる。

 書いてある。

 でも足りない。

 意味はある。

 でも、読む人に委ねすぎている。

 そういう箇所が、今までよりずっと目につくようになっていた。

 設計書は、自分の考えを整理するためだけのものではない。

 ましてや、レビューで通れば終わりの書類でもない。

 次に動く誰かのためのものだ。

 その当たり前のことを、自分は今までちゃんと考えたことがあっただろうか。

 たぶん、なかった。

 少なくとも最初の頃は、自分が理解することで精一杯だった。

 赤を減らすことだけに必死だった。

 でも今は、少しだけ違う。

 まだ十分ではない。

 それでも、設計の見え方が変わり始めていることだけは分かった。


 夕方になって、黒川が少し離れた席から声をかけてきた。

「どう?」

 水瀬は画面から顔を上げ、少しだけ苦笑した。

「進んでるような、進んでないような」

「どっちだよ」

「前より見えるものは増えた。

 でも、その分直すところも増えてる感じ」

 黒川は小さく笑った。

「それ、成長してるってことじゃないか?」

「だといいけど」

「たぶんそうだろ」

 短いやり取りだったが、少しだけ気が楽になった。

 見えるようになったからこそ、足りないところも見える。

 それはたしかに、前に進んでいる証拠なのかもしれない。

 黒川はすぐに自分の画面へ戻っていった。

 水瀬もまた、資料へ視線を落とす。

 執務室の空気は、夕方を越えて少しずつ夜へ傾いていた。

 昼間ほど声は多くない。

 キーボードの音と、短いやり取りだけが静かに残っている。

 時計を見ると、思っていたより遅い時間だった。

 今日もまた、気づけば夜が深くなっている。

 まだ実装に入っているわけではない。

 今日はあくまで設計の見直しだ。

 それなのに、こんな時間になっている。

 もしここから実際に作り始めたら、どうなるのだろう。

 そのことが、少しだけ怖かった。

 藤堂が隣でモニターを閉じた。

「今日はここまででいいかな」

「はい」

 水瀬も手を止める。

 藤堂は少しだけ水瀬の設計書を見てから、いつものようにあっさりした口調で言った。

「方向はちゃんと見えてきてるよ」

 その言葉に、水瀬は少しだけ顔を上げた。

「ただ、今日ので分かったでしょ」

「……はい」

「設計って、読む人が迷わないようにするのも大事なんだよね」

 水瀬は小さく頷く。

 その言葉は、もうただの説明ではなかった。

 今日一日、自分の目で曖昧さを見つけてきたぶんだけ、重みが変わっている。

 藤堂はそこで少しだけ表情をやわらげた。

「明日から、実際に作るところまでやってみようか。

 手を動かした方が、設計でどこ決めておかないと困るか、たぶん見えやすいから」

 水瀬はその言葉に、思わず顔を上げた。

 やっぱりそうなるのか、という気持ちと、ついにそこへ進むのか、という緊張が同時に来る。

「……はい」

 そう答えるのがやっとだった。

 実装に入れば、設計の曖昧さはもっとはっきり返ってくるはずだ。

 それは少し怖い。

 でも、たぶん今の自分にはその段階が必要なのだろう。

 藤堂は小さく頷いた。

「じゃあ、今日は上がろう。

 明日また見よう」

「お疲れ様です」

「お疲れ」

 短いやり取りを交わして、藤堂は先に席を立った。

 その背中を見送りながら、水瀬は自分の設計書へもう一度目を落とした。

 レビューを通すための文章。

 そう思って書いていたものが、今は少し違って見える。

 これを読むのは、自分ではない誰かかもしれない。

 その誰かが迷わず動けるようにする。

 その視点を持てたことが、今日の一番大きな変化だった。


 窓の外は、もうすっかり夜だった。

 今日もまた、気づけば遅い時間になっている。

 デスマーチは相変わらず続いている。

 それでも水瀬は、静かに設計書を閉じた。

 明日からは、作る側としてこの続きを知ることになる。



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