誰のための設計?
翌日も、水瀬は朝から藤堂の隣で画面まわりの設計資料を追っていた。
前日よりは、少しだけ見える。
画面遷移がどうつながっているのか。
項目がどこで意味を持って、どこで次の処理へ渡っていくのか。
バッチ設計のときには霧の向こうにあったものが、今日は輪郭くらいなら追える気がした。
とはいえ、速さにはまだ慣れない。
藤堂は資料を開き、必要な箇所だけを短く示していく。
説明は簡潔なのに、抜けがない。
どこを先に揃えておけば後が楽か、どこは今決めておかないと面倒になるか、その判断が最初から頭の中に並んでいるようだった。
水瀬はノートを取りながら、必死にその後ろを追いかけた。
午前中いっぱいかけて、担当する画面の設計はひとまず形になった。
まだ荒い。自分でも分かる。
それでも、何もなかったところに線が引かれ、項目が並び、流れが見えるようになっただけで、少しだけ達成感があった。
藤堂がその資料を見ながら、小さく頷く。
「うん、方向は悪くないよ」
その一言に、水瀬は思わず肩の力を抜きかけた。
けれど、もちろんそれだけで終わるはずがない。
藤堂はマウスを滑らせ、ある箇所で止めた。
「これ、このまま渡されたらどこで迷いそう?」
不意にそう聞かれて、水瀬は一瞬だけ黙った。
迷いそう、ということは、どこかに分かりづらいところがあるということだ。
そう思って、もう一度画面を見直す。
条件分岐。
戻る動作。
入力値の保持。
少し考えてから、水瀬は口を開いた。
「……この条件のとき、値を残すのかどうか、ですかね」
おそるおそる言うと、藤堂はすぐに頷いた。
「うん、そこ」
短い返事だった。
でも、合っていたというだけで少しだけ救われる。
「今の書き方だと、人によって解釈が分かれそうなんだよね。
それって、実装するときに止まるってことだから」
「……あ」
水瀬はそこで、ようやく自分が見落としていたものの形を掴んだ気がした。
設計書の中に書いていないわけではない。
けれど、読む人によって違う受け取り方ができてしまう。
それは、つまり設計として足りていないということだった。
藤堂はさらに別の箇所を指した。
「戻る動作も同じ。
入力値を保持するのか、条件によって初期化するのか、今のままだと読む側が判断しにくい」
水瀬は思わず小さく息を呑む。
言われてみれば、その通りだった。
でも言われるまでは、そこがそんなに大事な分かれ目だとは思えていなかった。
「設計って、書いてあることが正しいだけじゃ足りないんだよ」
藤堂は画面を見たまま言った。
「読んだ人が迷わないことも大事」
その言葉は静かだった。
けれど、水瀬には妙に残った。
意味は分かる。
たしかにその通りだ。
ただ、そのときの水瀬に分かっていたのは、まだ頭の上の方だけだった。
本当にその言葉の重さを知るのは、もう少し先のことなのだろうと、どこかで思った。
それからも藤堂は、いくつかの箇所を水瀬に考えさせるように見ていった。
「ここ、読む人によって揺れそうなのどこだと思う?」
「この確認画面に行く前の条件……ですかね」
「そうそう。じゃあ、そこを見た人が迷わないようにするには、何を書いておいた方がよさそう?」
問われるたびに、水瀬は少しずつ考える。
最初は曖昧だった視点が、だんだんと揃ってくる。
自分が分かればいいわけではない。
レビューする人。
実装する人。
あとから触る人。
その人たちが同じ理解にたどり着けるようにしておく。
それが設計なのだと、藤堂は一つ一つの会話の中で水瀬に気づかせていった。
答えだけ先に言うことは、たぶん簡単だ。
でも藤堂はそうしない。
どこが曖昧なのか。
どこで読み手が止まりそうなのか。
それを、水瀬自身に見つけさせようとしている。
そのやり方は厳しいというより、実務的だった。
現場では、いつだって隣で答えをくれる人がいるわけじゃない。
だから、自分で気づけるようにならないといけない。
そんな意図が、少しだけ分かる気がした。
昼を過ぎても、見直しは続いた。
資料を読み返し、表現を揃え、抜けている条件を書き足す。
書いている内容そのものは大きく変わっていないのに、言葉をひとつ直すだけで読みやすさが変わる。
その違いが、今日はやけにはっきり見えた。
今までは、自分が理解するために書いていた。
少なくとも、水瀬にとって設計書はそういうものに近かった。
けれど今日は違う。
藤堂に問い返されるたびに、頭の中に残る言葉がある。
このまま渡されたら、どこで迷うか。
その視点で資料を見返すと、見えてくるものが変わる。
書いてある。
でも足りない。
意味はある。
でも、読む人に委ねすぎている。
そういう箇所が、今までよりずっと目につくようになっていた。
設計書は、自分の考えを整理するためだけのものではない。
ましてや、レビューで通れば終わりの書類でもない。
次に動く誰かのためのものだ。
その当たり前のことを、自分は今までちゃんと考えたことがあっただろうか。
たぶん、なかった。
少なくとも最初の頃は、自分が理解することで精一杯だった。
赤を減らすことだけに必死だった。
でも今は、少しだけ違う。
まだ十分ではない。
それでも、設計の見え方が変わり始めていることだけは分かった。
夕方になって、黒川が少し離れた席から声をかけてきた。
「どう?」
水瀬は画面から顔を上げ、少しだけ苦笑した。
「進んでるような、進んでないような」
「どっちだよ」
「前より見えるものは増えた。
でも、その分直すところも増えてる感じ」
黒川は小さく笑った。
「それ、成長してるってことじゃないか?」
「だといいけど」
「たぶんそうだろ」
短いやり取りだったが、少しだけ気が楽になった。
見えるようになったからこそ、足りないところも見える。
それはたしかに、前に進んでいる証拠なのかもしれない。
黒川はすぐに自分の画面へ戻っていった。
水瀬もまた、資料へ視線を落とす。
執務室の空気は、夕方を越えて少しずつ夜へ傾いていた。
昼間ほど声は多くない。
キーボードの音と、短いやり取りだけが静かに残っている。
時計を見ると、思っていたより遅い時間だった。
今日もまた、気づけば夜が深くなっている。
まだ実装に入っているわけではない。
今日はあくまで設計の見直しだ。
それなのに、こんな時間になっている。
もしここから実際に作り始めたら、どうなるのだろう。
そのことが、少しだけ怖かった。
藤堂が隣でモニターを閉じた。
「今日はここまででいいかな」
「はい」
水瀬も手を止める。
藤堂は少しだけ水瀬の設計書を見てから、いつものようにあっさりした口調で言った。
「方向はちゃんと見えてきてるよ」
その言葉に、水瀬は少しだけ顔を上げた。
「ただ、今日ので分かったでしょ」
「……はい」
「設計って、読む人が迷わないようにするのも大事なんだよね」
水瀬は小さく頷く。
その言葉は、もうただの説明ではなかった。
今日一日、自分の目で曖昧さを見つけてきたぶんだけ、重みが変わっている。
藤堂はそこで少しだけ表情をやわらげた。
「明日から、実際に作るところまでやってみようか。
手を動かした方が、設計でどこ決めておかないと困るか、たぶん見えやすいから」
水瀬はその言葉に、思わず顔を上げた。
やっぱりそうなるのか、という気持ちと、ついにそこへ進むのか、という緊張が同時に来る。
「……はい」
そう答えるのがやっとだった。
実装に入れば、設計の曖昧さはもっとはっきり返ってくるはずだ。
それは少し怖い。
でも、たぶん今の自分にはその段階が必要なのだろう。
藤堂は小さく頷いた。
「じゃあ、今日は上がろう。
明日また見よう」
「お疲れ様です」
「お疲れ」
短いやり取りを交わして、藤堂は先に席を立った。
その背中を見送りながら、水瀬は自分の設計書へもう一度目を落とした。
レビューを通すための文章。
そう思って書いていたものが、今は少し違って見える。
これを読むのは、自分ではない誰かかもしれない。
その誰かが迷わず動けるようにする。
その視点を持てたことが、今日の一番大きな変化だった。
窓の外は、もうすっかり夜だった。
今日もまた、気づけば遅い時間になっている。
デスマーチは相変わらず続いている。
それでも水瀬は、静かに設計書を閉じた。
明日からは、作る側としてこの続きを知ることになる。




