速い人の隣
30日の夜は、結局また深い時間まで続いた。
執務室の蛍光灯は白く、静かで、そこだけ時間の流れが外の世界と切り離されているようだった。
日付が変わることにも、もう誰も驚かない。
驚かなくなっていることの方が、少しおかしいのかもしれないと、水瀬は思った。
モニターの前で、水瀬は何度も設計書を見返していた。
バッチの設計。
ここ数日ずっと向き合っていたものを、ようやくレビューに出せるところまで持ってきた。
もちろん、自信満々というわけではない。
まだ粗いところもあるだろうし、見落としもあるかもしれない。
それでも、少なくとも「見てもらえる形」にはなった。
そこまで辿り着けただけで、今の水瀬には十分だった。
画面の隅に表示された時刻を見る。
当然のように深夜だった。
疲れている。
肩も重いし、目の奥もじんわり熱い。
それでも、ここまで持ってこられたことで、少しだけ気持ちは軽かった。
水瀬はチャットで村瀬に声をかけた。
しばらくして、村瀬が席までやってくる。
「お、できた?」
「はい。一回見てもらってもいいですか」
「いいよ」
村瀬は椅子を寄せて、水瀬のモニターを覗き込んだ。
画面をスクロールし、ところどころで止まり、また次へ進む。
その数分が、水瀬にはずいぶん長く感じられた。
やがて村瀬が小さく頷く。
「うん。細かい直しはまだ入ると思うけど、ひとまずレビューには出せるな」
その言葉に、水瀬はようやく小さく息を吐いた。
「よかった……」
「いや、ここまで持ってきただけでも十分だよ」
村瀬は画面から目を離し、水瀬を見た。
「最初の頃より、だいぶ流れ見えるようになってきたじゃん」
「まだ全然ですけど」
「全然ではないな」
村瀬はそう言って少しだけ笑った。
それから、何でもないことのように続ける。
「じゃあ、明日からは藤堂さんと一緒に画面側を見ていこうか」
水瀬はその言葉に、思わず顔を上げた。
「明日から、ですか」
「うん。今のバッチは一回レビュー待ちに入れられるしな。
藤堂さんの方で画面設計を進めてるから、そこで一緒に見てもらいたい」
そう言われると、胸の奥にじわっと緊張が広がった。
藤堂。
小柄で、歩く速さに迷いがなくて、話し方もきっぱりしている。
まだ長く話したことはない。
でも、仕事が速い人なのだろうということだけは、短いやり取りの中でも十分に伝わっていた。
「大丈夫ですかね」
つい本音が漏れる。
村瀬は苦笑した。
「大丈夫かどうかで言ったら、最初はたぶん大変だよ」
「やっぱり」
「でも、今の水瀬なら何も分からない状態ではないだろ」
その言葉に、水瀬は少しだけ黙った。
たしかに、そうだった。
少し前までの自分なら、設計書を前にしただけで手が止まっていた。
今もまだ遅いし、分からないことだらけではある。
それでも、どこで詰まっているのかは前より見える。
「……頑張ります」
「うん。それでいい」
村瀬は軽く水瀬の肩を叩いた。
「じゃあ今日はもう上がろう。
明日から、また別の意味で速いから」
その言葉の意味を、水瀬は翌朝すぐに知ることになった。
翌朝、執務室に入ると、自分の席の横にはもう藤堂が座っていた。
ノートPCは立ち上がったばかりらしく、ディスプレイの片方だけが点いている。
机の上には資料が何枚か広げられていて、これから仕事の準備に入るところなのだと分かった。
水瀬が荷物を置くと、藤堂が顔を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
藤堂は、相変わらず迷いのない声で言った。
「村瀬さんから聞いてると思うけど、今日から一緒にやっていこ」
「はい、よろしくお願いします」
実際にこうして隣に座られると、話で聞いていたときよりずっと緊張した。
席が近いというだけで、空気まで近くなる。
仕事のできる人のテンポを、すぐ隣で浴びることになるのだと、そう思った。
藤堂はPCを立ち上げながら続けた。
「こっちの準備できたら声かけるね。
一回、資料の共有と案件の整理を一緒にしたいから」
「わかりました」
水瀬は頷き、自分のPCを開いた。
それからしばらくのあいだ、執務室にはいつもの朝の音が流れていた。
キーボードを叩く音。
誰かが短く質問し、それに対して別の誰かが答える声。
資料をめくる音。
遠くでは佐伯と結城が何か確認をしていて、黒川も自分の席でインフラ側の確認を進めている。
人が揃ってから、執務室の空気はずいぶん変わった。
前みたいに、重たいものを少人数で引きずっている感じではない。
会話は増えているのに、前より混乱して見えない。
むしろ、回っている感じがあった。
しばらくして、藤堂が水瀬の方を向いた。
「水瀬くん、今いける?」
「はい」
水瀬はノートを持って、椅子ごと少し近づいた。
藤堂は二枚あるディスプレイのうち一枚を少しだけ水瀬の方へ向ける。
そこには設計資料が表示されていた。
もう一枚には画面遷移図と項目一覧が開かれている。
藤堂はマウスで資料の一部を指しながら話し始めた。
「今見てるの、このあたり。
画面AからBに遷移して、入力内容を保持して、最後に登録する流れ」
言葉が短い。
でも、要点ははっきりしている。
「全体としてはそんなに複雑じゃないんだけど、項目が多いから、先に揃えておいた方がいいところがいくつかあるんだよね」
藤堂は資料を切り替える。
「ここ。
この項目、画面上では似て見えるけど意味が違うでしょ。
こういうの曖昧にすると、あとで実装側が迷う」
水瀬は慌ててメモを取る。
速い。
でも、聞き取れないわけではなかった。
「あと、この項目」
藤堂は画面の一点を、マウスで小さく示した。
「このままだと、実装するときにここは迷うと思う。
迷わずにコーディングできるようにすることも、設計では大事なところだよ」
「はい」
「画面の見た目だけ揃っててもだめ。
実装する人が“どう作ればいいか”まで見えるようにしておきたい」
その言葉に、水瀬は小さく息を呑んだ。
そこまで考えて書く。
頭では分かる。
けれど、実際にやるとなると話は別だった。
藤堂は次の資料へ切り替える。
「この画面だけで見ちゃうと、たぶん後でまた戻ることになる。
だから、前後の流れも一緒に見ておこう」
前の自分なら、目の前の一画面だけで頭がいっぱいになっていただろう。
けれど今は、その言っている意味が少し分かる。
一つだけ見ても足りない。
流れで見ないと、設計として繋がらない。
分かることが増えるたびに、同時に自分の遅さも見えてくる。
藤堂はそんな水瀬の様子に気づいたのか、少しだけ口調を柔らかくした。
「全部すぐ分かる必要はないよ。
ただ、分からなくなったら止まって」
「はい」
「止まるのはいい。
でも、止まったまま抱えないで、そこですぐ聞いて」
「わかりました」
藤堂は小さく頷いた。
「じゃあ、この二画面、水瀬くんに見てもらおうかな。
項目整理と、遷移時の扱いを先に書き出してみて」
「はい」
そう答えた瞬間、緊張と同時に少しだけ背筋が伸びた。
任された。
ただ説明を聞くだけじゃなく、自分の担当として渡された。
そのことが、じわりと重みを持って胸の中へ沈んでいった。
自分の席へ戻り、資料を開く。
今度の設計は、バッチとはまったく違っていた。
画面の見え方。
項目の意味。
ボタンを押したときの挙動。
入力値の保持。
エラー時の見せ方。
人が触るものだから、バッチより直感的に分かる部分もある。
けれど、そのぶん曖昧にすると、実装もレビューもテストも全部が困る。
水瀬はさっき藤堂に言われたことを思い返した。
この画面だけで見てはいけない。
つまり、自分の担当は、自分の中だけで完結しない。
ここを曖昧にしたら、その先で誰かが止まる。
実装が迷い、レビューが止まり、テスト観点もぶれる。
その事実が、思っていた以上に重かった。
今までは、自分の作業を進めることだけで精一杯だった。
でも今は違う。
自分が書く設計が、次の誰かの仕事にそのままつながっている。
遅れたら、自分だけでは済まない。
その感覚は、プレッシャーでもあり、同時に少しだけ嬉しくもあった。
ちゃんと、流れの中に組み込まれている。
そう思えたからだ。
項目を整理する。
入力条件を見直す。
戻る動作と進む動作を分けて考える。
ひとつひとつ進めながら、水瀬はふと思った。
前より、全部が分からないわけではない。
もちろん遅い。
迷う。
何度も止まる。
それでも、何が分からないのかは前より見えている。
そして今は、それを聞ける相手がすぐ隣にいる。
午後、藤堂が途中経過を見に来た。
「どう?」
「まだ整理しきれてないですけど……」
「見せて」
水瀬が資料を開くと、藤堂はすぐに内容を追った。
止まる箇所と流す箇所の判断が速い。
「うん、方向は悪くない」
その一言に、水瀬は少しだけ救われる。
藤堂は一箇所を指した。
「ただ、ここ。
画面Aから戻ってきたときの扱いが抜けてる」
「あ……」
たしかに抜けていた。
「あと、この項目」
藤堂は画面の一点を、マウスで小さく示した。
「このままだと、実装するときにここは迷うと思う。
迷わずにコーディングできるようにすることも、設計では大事なところだよ」
「はい」
「画面の見た目だけ揃っててもだめ。
実装する人が“どう作ればいいか”まで見えるようにしておきたい」
藤堂は少しだけ資料をスクロールしてから、水瀬を見た。
「でも、前提の拾い方は悪くないよ。
最初の段階でここまで書けてれば十分。
あとは精度を上げていけばいいから」
そう言って、また自分の画面へ戻っていく。
水瀬はその背中を見送りながら、ゆっくり息を吐いた。
褒められている。
それは分かる。
でも、気持ちはむしろ少し引き締まっていた。
周りの流れが速い。
佐伯と結城が見ているバッチ側は、少し目を離しただけで整理が進んでいる。
三浦は共通部品の切り分けを静かに進め、黒川はインフラ側の確認結果を村瀬へ渡していた。
そして藤堂は、自分が今ようやく追いついたところを、もう次の段階として見ている。
助かる。
頼もしい。
でもそのぶん、遅れられない。
前までは、自分が止まっていることばかりが苦しかった。
今は違う。
自分が止まると、その先も止まる。
この画面設計が遅れれば、実装が迷う。
レビューも後ろへずれる。
テストの観点も固まらない。
チームが回り始めたことで、自分の遅さの重さも、前よりはっきり見えるようになってしまった。
気づけば、執務室の空気はまた夜の色に変わっていた。
人の声は昼より減っている。
キーボードの音だけが、広いフロアに乾いたリズムで響いている。
水瀬は時刻を見た。
思っていたより、ずっと遅かった。
また今日も、そんな時間まで来ていた。
昼間のうちに藤堂の説明を聞き、流れが見えた気になっていた。
けれど、実際に手を動かすと、決めなければいけないことがいくらでも出てくる。
項目名の揃え方。
戻るときの状態保持。
入力チェックのタイミング。
エラー文言の扱い。
一つ片づけるたびに、次の論点が顔を出す。
終わりが近づくというより、設計というものの奥行きがようやく見え始めた感じだった。
隣では、藤堂がまだ画面を見ている。
速い。
けれど、雑ではない。
その速さに追いつこうとすると、自分の頭の回転が足りないのがよく分かった。
水瀬は肩を回し、もう一度資料を見直した。
疲れていた。
頭も、じわじわと重くなっている。
それでも、今日は止まれなかった。
ここまで来て、ようやくチームの流れの中に入れたのだ。
その流れから、簡単にこぼれたくはなかった。
帰る前、藤堂が画面を閉じながら水瀬に声をかけた。
「今日はお疲れ」
「お疲れ様です」
「明日も続きやろう。
今日見た感じ、たぶんすぐ慣れると思う」
その言葉に、水瀬は少しだけ目を見開いた。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「……頑張ります」
「うん、よろしく」
藤堂は短くそう言って席を立った。
その背中を見送りながら、水瀬は静かに息を吐く。
速い人の隣は、思っていた以上に大変だった。
でも、その速さの中に入ったからこそ見える景色もある。
前より分かることは増えた。
けれどそのぶん、仕事の重さも前よりはっきり見えるようになった。
チームが回り始めた。
だからこそ、自分も止まれない。
想像していたよりずっと静かに、でも確実に厳しさを増していた。




