後半戦の始まり
ショッピングモールから会社へ戻るころには、少しだけ頭が軽くなっていた。
午前中、モニターの文字が滲んで見えていたのが嘘みたいだった。
もちろん疲れが消えたわけではない。
けれど、あのまま執務室に座り続けていたら、午後もほとんど進まなかっただろうということだけは、はっきり分かる。
三人でビルへ入る。
エレベーターの扉が閉まる直前、村瀬が言った。
「少しは戻ったか?」
黒川が肩を回しながら答える。
「午前よりは全然」
「頭がちゃんと動きそうです」
水瀬もそう言うと、村瀬は小さく笑った。
「ならよかった」
エレベーターが開く。
執務室へ戻ると、さっきまでと少しだけ空気が違っていた。
人数が増えている。
水瀬はその違和感に、最初すぐには気づけなかった。
だが、視線を巡らせたところで「あ」と思った。
部長の席の近くに、見覚えのない二人が立っている。
一人は、前に顔合わせで見たときと同じく、無口そうに見えるのに会釈は丁寧だった。
もう一人は小柄で、立ち姿にも歩く速さにも迷いがない。
三浦と藤堂だった。
水瀬が足を止めると、黒川も小さく声を漏らした。
「……あ、来たんだ」
そのとき、村瀬がこちらに気づいた。
「お、戻ったか。ちょうどよかった」
そう言って、二人の方を手で示す。
「今日からこっちに本格合流する。
三浦さんと藤堂さん」
二人がこちらを見る。
三浦は静かに会釈した。
「三浦です。改めてよろしく」
藤堂ははっきりした声で言った。
「藤堂です。」
水瀬と黒川は、揃って頭を下げた。
「お疲れ様です」
そうか、と水瀬は思う。
これで、増員されると聞いていた四人が揃ったのだ。
先週の打ち合わせで顔合わせはしたが、いつ合流するのだろうとずっと頭の片隅に引っかかっていた。
ようやく元の案件が片付いて合流できるようになったようだ。
部長が言った。
「細かい話は村瀬から振る。
とりあえず今は席について、現状を把握してもらえればいい」
三浦は静かに会釈し、藤堂は短く「お願いします」と返した。
村瀬が続ける。
「資料はあとでチャットにも流します。まずは全体像だけ掴んでもらえれば十分です」
その後、定時である17時に現状の進捗と整理という形でみんなで会議室に集まった。
村瀬は、ホワイトボードの前に立った。
「じゃあ、ざっくり今の役割を整理するぞ」
会議室に続々と人が集まる。
佐伯、結城、三浦、藤堂、黒川、水瀬。
そして村瀬と部長。
八人になったその輪を見て、水瀬はふと思った。
少し前まで、たった三人だったのだ。
そこに黒川と自分がいて、村瀬がいて。
その状態で必死に持ちこたえていた。
今は違う。
村瀬が説明を始める。
「まず、インフラ側は大枠できてる。
ただし、検証と詰めはまだ残ってる。
アプリは画面系とバッチ系が並行で進んでるけど、バッチ側がまだ重い」
ホワイトボードに工程を書きながら、誰が何を担当するかを整理していく。
「佐伯と結城には、引き続き重いバッチ側を見てもらってます。
あそこが一番詰まりやすいので、そこは継続でお願いします」
佐伯は軽く手を上げ、結城も短く頷いた。
「三浦には、共通部品まわりを中心に作業を振っていく予定です。
複数機能で共通化できそうな処理がどこにあるか、そのあたりを意識しながら資料を読んでもらえると助かります」
「わかりました」
三浦は静かに答えた。
「藤堂には、画面系の設計と整理を中心に入ってもらう予定です。
水瀬も今やってるバッチをある程度進めたら、藤堂さんの下について画面側を見ていこう」
その言葉に、水瀬は少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
藤堂がそこで、はっきりと水瀬の方を見た。
「よろしく」
短い言葉だったが、声に迷いがなかった。
歩く速さと同じように、その人の仕事の進め方までまっすぐなのだろうと、水瀬は思った。
藤堂は続ける。
「画面側、設計の粒度を揃えたいから、途中から一緒に見てもらうね。
分からないところがあったら、その場で聞いてくれて大丈夫だよ」
言い方ははっきりしていた。
でも、冷たい感じはしない。
必要なことを必要な速さで言う人、という印象だった。
「はい、お願いします」
水瀬が答えると、藤堂は小さく頷いた。
そのやり取りのテンポに、水瀬は少し圧倒された。
質問が短い。
答えも短い。
でも、それで話が成立している。
佐伯も、そこへ自然に口を挟む。
「バッチ側、こっちで引き続き持ちます」
といい、結城が隣で頷いていた。
黒川も言った。
「インフラ側、夕方までに再確認しておきます」
「助かる」
村瀬は頷く。
その輪の中で、水瀬だけが少しだけ遅れている感覚があった。
話についていけないわけではない。
でも、みんなが見ているものの解像度が明らかに違う。
それでも、不思議と置いていかれる感じは前ほど強くなかった。
速い。
でも、その速さが“動いている”感じに変わっていた。
それまでは、重たいものを少人数で引きずっている感覚だった。
けれど、この場に全員が揃った瞬間から、ようやく“前へ動かすための人数”になった気がした。
役割の整理が終わると、それぞれすぐに席へ散っていく。
誰かが資料を探し、誰かがログを見て、誰かがソースを開く。
執務室のあちこちで会話が生まれる。
短い確認。
ちょっとした相談。
仕様の確認。
それなのに、不思議と前より混乱して見えなかった。
むしろ、回り始めた感じがあった。
水瀬は自分の席へ戻りながら、その変化を肌で感じていた。
たとえば午前中までなら、一つの疑問が出るたびに誰かの手が止まっていた。
だが今は違う。
疑問が出ても、すぐ近くで誰かが拾う。
拾った内容が、また次の動きにつながる。
小さな歯車が一気に増えたみたいだった。
水瀬は設計書を開く。
自分の担当は変わらない。
バッチ設計の続きだ。
けれど、周りの回転が上がったせいか、自分の中の感覚も少し変わる。
止まっている感じがしない。
たとえ自分が今難しいところで引っかかっていても、現場全体はちゃんと前へ進んでいる。
そのことが、妙に心強かった。
結城が横を通りながら声をかけてくる。
「さっきの続き、詰まったらまた声かけて」
「ありがとうございます」
「今日は人増えたし、遠慮しなくていいから」
そう言って、すぐ別の席へ向かった。
その背中を見送りながら、水瀬は少しだけ思う。
数日前までなら、先輩たちは“遠い人たち”だった。
頼れるけれど、自分とは違う世界にいるような。
でも今は違う。
背中はまだ遠い。
けれど、ちゃんと同じフロアで、同じ案件の中を走っている。
その距離感の変化が、水瀬には思っていたより大きかった。
翌日は、驚くほど速く過ぎた。
佐伯と結城が見ている重いバッチの設計は、夕方にはかなり整理が進んでいた。
三浦は共通化できそうな処理を洗い出し始めていて、藤堂は画面側の設計の粒度を揃えるために、すでにいくつかの資料へ手を入れている。
黒川がぽつりと言った。
「……早いな」
その声に、水瀬も思わず頷いた。
「早い」
本当に、その一言だった。
自分が一日かけて考えていたことが、先輩たちのやり取りの中では数十分で整理されていく。
速さだけじゃない。
判断の迷い方が違う。
だが、不思議と悔しさだけではなかった。
圧倒される。
でも、それ以上に頼もしい。
ようやく、ちゃんと回り始めた感じがした。
もちろん、案件が楽になったわけではない。
遅れは相変わらずある。
重いところも、危ないところも、まだたくさん残っている。
それでも、前と今では決定的に違うことが一つあった。
進んでいる。
それが、はっきり見えるようになったのだ。
でも、まだまだここからなのだと思った。
ようやくメンバーが揃った。
ようやく、開発が本格的に回り始めた。
でも、デスマーチが終わるわけではない。
むしろ、ここからが後半戦なのだろう。
でも、水瀬の中には不思議と少しだけ前向きなものが残っていた。
走る人数が増えた。
見える景色が変わった。
そして、自分もその列の中にいる。
モニターを閉じる前に、水瀬はもう一度だけ設計書を見返した。
まだ足りない。
まだ分からないことも多い。
それでも。
この日から、案件の空気は少しだけ変わった。
物語は、ここから後半戦へ入っていく。




