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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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31/50

後半戦の始まり

 ショッピングモールから会社へ戻るころには、少しだけ頭が軽くなっていた。

 午前中、モニターの文字が滲んで見えていたのが嘘みたいだった。

 もちろん疲れが消えたわけではない。

 けれど、あのまま執務室に座り続けていたら、午後もほとんど進まなかっただろうということだけは、はっきり分かる。

 三人でビルへ入る。

 エレベーターの扉が閉まる直前、村瀬が言った。

「少しは戻ったか?」

 黒川が肩を回しながら答える。

「午前よりは全然」

「頭がちゃんと動きそうです」

 水瀬もそう言うと、村瀬は小さく笑った。

「ならよかった」

 エレベーターが開く。

 執務室へ戻ると、さっきまでと少しだけ空気が違っていた。

 人数が増えている。

 水瀬はその違和感に、最初すぐには気づけなかった。

 だが、視線を巡らせたところで「あ」と思った。

 部長の席の近くに、見覚えのない二人が立っている。

 一人は、前に顔合わせで見たときと同じく、無口そうに見えるのに会釈は丁寧だった。

 もう一人は小柄で、立ち姿にも歩く速さにも迷いがない。

 三浦と藤堂だった。

 水瀬が足を止めると、黒川も小さく声を漏らした。

「……あ、来たんだ」

 そのとき、村瀬がこちらに気づいた。

「お、戻ったか。ちょうどよかった」

 そう言って、二人の方を手で示す。

「今日からこっちに本格合流する。

 三浦さんと藤堂さん」

 二人がこちらを見る。

 三浦は静かに会釈した。

「三浦です。改めてよろしく」

 藤堂ははっきりした声で言った。

「藤堂です。」

 水瀬と黒川は、揃って頭を下げた。

「お疲れ様です」

 そうか、と水瀬は思う。

 これで、増員されると聞いていた四人が揃ったのだ。

 先週の打ち合わせで顔合わせはしたが、いつ合流するのだろうとずっと頭の片隅に引っかかっていた。

 ようやく元の案件が片付いて合流できるようになったようだ。

 部長が言った。

「細かい話は村瀬から振る。

 とりあえず今は席について、現状を把握してもらえればいい」

 三浦は静かに会釈し、藤堂は短く「お願いします」と返した。

 村瀬が続ける。

「資料はあとでチャットにも流します。まずは全体像だけ掴んでもらえれば十分です」


 その後、定時である17時に現状の進捗と整理という形でみんなで会議室に集まった。

 村瀬は、ホワイトボードの前に立った。

「じゃあ、ざっくり今の役割を整理するぞ」

 会議室に続々と人が集まる。

 佐伯、結城、三浦、藤堂、黒川、水瀬。

 そして村瀬と部長。

 八人になったその輪を見て、水瀬はふと思った。

 少し前まで、たった三人だったのだ。

 そこに黒川と自分がいて、村瀬がいて。

 その状態で必死に持ちこたえていた。

 今は違う。

 村瀬が説明を始める。

「まず、インフラ側は大枠できてる。

 ただし、検証と詰めはまだ残ってる。

 アプリは画面系とバッチ系が並行で進んでるけど、バッチ側がまだ重い」

 ホワイトボードに工程を書きながら、誰が何を担当するかを整理していく。

「佐伯と結城には、引き続き重いバッチ側を見てもらってます。

 あそこが一番詰まりやすいので、そこは継続でお願いします」

 佐伯は軽く手を上げ、結城も短く頷いた。

「三浦には、共通部品まわりを中心に作業を振っていく予定です。

 複数機能で共通化できそうな処理がどこにあるか、そのあたりを意識しながら資料を読んでもらえると助かります」

「わかりました」

 三浦は静かに答えた。

「藤堂には、画面系の設計と整理を中心に入ってもらう予定です。

 水瀬も今やってるバッチをある程度進めたら、藤堂さんの下について画面側を見ていこう」

 その言葉に、水瀬は少しだけ背筋を伸ばした。

「はい」

 藤堂がそこで、はっきりと水瀬の方を見た。

「よろしく」

 短い言葉だったが、声に迷いがなかった。

 歩く速さと同じように、その人の仕事の進め方までまっすぐなのだろうと、水瀬は思った。

 藤堂は続ける。

「画面側、設計の粒度を揃えたいから、途中から一緒に見てもらうね。

 分からないところがあったら、その場で聞いてくれて大丈夫だよ」

 言い方ははっきりしていた。

 でも、冷たい感じはしない。

 必要なことを必要な速さで言う人、という印象だった。

「はい、お願いします」

 水瀬が答えると、藤堂は小さく頷いた。

 そのやり取りのテンポに、水瀬は少し圧倒された。

 質問が短い。

 答えも短い。

 でも、それで話が成立している。

 佐伯も、そこへ自然に口を挟む。

「バッチ側、こっちで引き続き持ちます」

 といい、結城が隣で頷いていた。

 黒川も言った。

「インフラ側、夕方までに再確認しておきます」

「助かる」

 村瀬は頷く。

 その輪の中で、水瀬だけが少しだけ遅れている感覚があった。

 話についていけないわけではない。

 でも、みんなが見ているものの解像度が明らかに違う。

 それでも、不思議と置いていかれる感じは前ほど強くなかった。

 速い。

 でも、その速さが“動いている”感じに変わっていた。

 それまでは、重たいものを少人数で引きずっている感覚だった。

 けれど、この場に全員が揃った瞬間から、ようやく“前へ動かすための人数”になった気がした。

 役割の整理が終わると、それぞれすぐに席へ散っていく。

 誰かが資料を探し、誰かがログを見て、誰かがソースを開く。

 執務室のあちこちで会話が生まれる。

 短い確認。

 ちょっとした相談。

 仕様の確認。

 それなのに、不思議と前より混乱して見えなかった。

 むしろ、回り始めた感じがあった。

 水瀬は自分の席へ戻りながら、その変化を肌で感じていた。

 たとえば午前中までなら、一つの疑問が出るたびに誰かの手が止まっていた。

 だが今は違う。

 疑問が出ても、すぐ近くで誰かが拾う。

 拾った内容が、また次の動きにつながる。

 小さな歯車が一気に増えたみたいだった。

 水瀬は設計書を開く。

 自分の担当は変わらない。

 バッチ設計の続きだ。

 けれど、周りの回転が上がったせいか、自分の中の感覚も少し変わる。

 止まっている感じがしない。

 たとえ自分が今難しいところで引っかかっていても、現場全体はちゃんと前へ進んでいる。

 そのことが、妙に心強かった。

 結城が横を通りながら声をかけてくる。

「さっきの続き、詰まったらまた声かけて」

「ありがとうございます」

「今日は人増えたし、遠慮しなくていいから」

 そう言って、すぐ別の席へ向かった。

 その背中を見送りながら、水瀬は少しだけ思う。

 数日前までなら、先輩たちは“遠い人たち”だった。

 頼れるけれど、自分とは違う世界にいるような。

 でも今は違う。

 背中はまだ遠い。

 けれど、ちゃんと同じフロアで、同じ案件の中を走っている。

 その距離感の変化が、水瀬には思っていたより大きかった。


 翌日は、驚くほど速く過ぎた。

 佐伯と結城が見ている重いバッチの設計は、夕方にはかなり整理が進んでいた。

 三浦は共通化できそうな処理を洗い出し始めていて、藤堂は画面側の設計の粒度を揃えるために、すでにいくつかの資料へ手を入れている。

 黒川がぽつりと言った。

「……早いな」

 その声に、水瀬も思わず頷いた。

「早い」

 本当に、その一言だった。

 自分が一日かけて考えていたことが、先輩たちのやり取りの中では数十分で整理されていく。

 速さだけじゃない。

 判断の迷い方が違う。

 だが、不思議と悔しさだけではなかった。

 圧倒される。

 でも、それ以上に頼もしい。

 ようやく、ちゃんと回り始めた感じがした。

 もちろん、案件が楽になったわけではない。

 遅れは相変わらずある。

 重いところも、危ないところも、まだたくさん残っている。

 それでも、前と今では決定的に違うことが一つあった。

 進んでいる。

 それが、はっきり見えるようになったのだ。

 でも、まだまだここからなのだと思った。

 ようやくメンバーが揃った。

 ようやく、開発が本格的に回り始めた。

 でも、デスマーチが終わるわけではない。

 むしろ、ここからが後半戦なのだろう。

 でも、水瀬の中には不思議と少しだけ前向きなものが残っていた。

 走る人数が増えた。

 見える景色が変わった。

 そして、自分もその列の中にいる。

 モニターを閉じる前に、水瀬はもう一度だけ設計書を見返した。

 まだ足りない。

 まだ分からないことも多い。

 それでも。

 この日から、案件の空気は少しだけ変わった。

 物語は、ここから後半戦へ入っていく。


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