昼の逃避行
火曜日の午前中だった。
執務室の空気は、朝からずっと重かった。
キーボードの音。
椅子のきしむ音。
遠くで交わされる短いやり取り。
どれも平日のオフィスでは当たり前のはずなのに、水瀬には少し遠く聞こえた。
眠かった。
ここ数日の疲れが、もう隠しようもなく溜まっている。
目の奥が熱くて、頭の芯がずっと鈍い。
モニターを見つめ、設計書を読み返す。
だが、同じ行を二回、三回と目でなぞっていることに気づく。
(……まずい)
意識が少し浮いていた。
水瀬は小さく首を振って、背筋を伸ばした。
隣を見ると、黒川も似たような顔をしていた。
画面を見たまま、ほんの少しだけ目を閉じている。
「黒川」
水瀬が小さく声をかける。
黒川がはっとしたように顔を上げた。
「……寝てた?」
「ちょっとだけ」
黒川は苦笑した。
「水瀬も今飛びかけてたろ」
「バレた?」
「バレてる」
二人とも少しだけ笑う。
笑ってはいるが、状況はよくなかった。
その後も、気が抜けるたびに意識が沈みかける。
そのたびに、どちらかが声をかける。
「起きろ」
「そっちも」
そんなやり取りを何度か繰り返した。
だが、眠気は根本的には消えない。
注意し合っていても、作業効率は明らかに落ちていた。
黒川がモニターを見たまま言う。
「午前中、全然進んでない気がする」
「進んでない」
水瀬も正直に答えた。
「頭が仕事してない」
「それな」
黒川は小さく息を吐いた。
そのときだった。
後ろから声が落ちてきた。
「二人とも、限界そうだな」
振り向くと、村瀬が立っていた。
いつもの少し軽い顔ではある。
だが、目はちゃんとこちらを見ていた。
「そんなに分かります?」
水瀬が言うと、村瀬は苦笑する。
「分かるよ。
さっきから二人とも同じ画面見てる時間長すぎる」
黒川が少しだけ肩をすくめた。
「否定できないです」
「よし」
村瀬はそれだけ言うと、ポケットからスマホを取り出した。
「飯行くぞ」
「え、行くんですか?」
水瀬が思わず聞き返す。
「行く」
村瀬は即答した。
「今日はちょっと遠出しよう」
「遠出?」
黒川も顔を上げる。
「このままここにいても、たぶん頭死んだままだろ。
だから、ここから逃げよう」
その言い方に、水瀬は少しだけ笑いそうになった。
逃げる。
昼前だというのに、会社から。
「PC閉じろ。
今日は俺が連れてくから」
村瀬がそう言うので、水瀬と黒川は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく頷いた。
三人でビルを出る。
昼前の空気は思っていたより明るかった。
ずっと蛍光灯の下にいたせいか、太陽の光が妙にまぶしい。
村瀬はそのまま道端に立つと、すぐにタクシーを拾った。
止まった車を見て、水瀬は思わず黒川と顔を見合わせる。
(昼飯行くのにタクシー?)
黒川もたぶん同じことを思っている顔だった。
村瀬は何事もないように後部座席のドアを開ける。
「乗れ乗れ」
「タクシーで行くんですか?」
水瀬が聞くと、村瀬は笑った。
「行く」
「昼ご飯ですよね?」
「そうだよ」
黒川も半分呆れたように言う。
「そこまでして食べに行くんですか」
「まー、場所は楽しみにしておけ」
村瀬はそれ以上説明しない。
三人で乗り込むと、村瀬は運転手に行き先を告げた。
それは、職場から一番近いショッピングモールだった。
水瀬は一瞬、聞き間違いかと思った。
「ショッピングモールなんですか?」
村瀬は前を向いたまま答える。
「いいからいいから、任せな」
黒川が小さく笑う。
「絶対なんか考えてますよね」
「考えてるよ」
「何ですか」
「着けば分かる」
そう言って、村瀬は意地悪そうに口元を緩めた。
意図は教えてくれないらしい。
タクシーは昼の街を抜け、十分もしないうちにショッピングモールへ着いた。
水瀬と黒川はまだ半信半疑のまま、村瀬の後をついて行く。
けれど村瀬は、テナントが並ぶ明るいエリアの方へは向かわず、建物の外周を少し回るように別の方向へ歩き出した。
「そっちなんですか?」
「そっち」
水瀬も黒川も頭に??が並んでいたと思う。
ショッピングモールに来たのに、別の場所?
歩くこと五分ほど。
村瀬が一軒の店の前で止まった。
暖簾には、大きく鮨と書かれている。
村瀬はその暖簾を手で押し分けて、戸を開けた。
水瀬は思わず足を止める。
(え、ここ……?)
高そうだった。
店構えからして、いつもの昼飯の雰囲気ではない。
隣で黒川も小さく目を見開いていた。
たぶん同じことを思っている。
「何してんだ、入るぞ」
村瀬が振り返る。
「いや、でも……」
「今日は俺が奢るから。
ちょっと贅沢しようぜ」
「いいんですか?」
水瀬が聞くと、村瀬は苦笑した。
「いいよ。
大変な案件に放り込んじまったのもあるし、罪滅ぼしってことで」
その言い方が軽くて、少しだけ救われる。
村瀬はそのまま先に入っていった。
中から威勢のいい声が飛ぶ。
「らっしゃい!」
三人はその声に押されるように店へ入った。
席に案内される。
水瀬は座りながら、店の中を見渡した。
いつも行く安い回転寿司とは、明らかに違う。
店の空気も、木のカウンターも、置かれている湯呑みも、何もかもが少しだけきちんとしている。
黒川が小さく言った。
「俺、回らない寿司初めてかも」
水瀬は思わず頷いた。
「僕も」
村瀬が笑う。
「そんな大げさな顔すんなよ」
「いや、だって寿司屋ですよ」
水瀬が言うと、黒川も続く。
「昼に来る場所じゃないですよね、たぶん」
「今日は特別」
村瀬はそう言って、メニューを開いた。
三人ともランチを注文する。
値段を見て、水瀬は一瞬だけ固まった。
(高い)
アジフライのときと同じだった。
いや、もしかするとそれ以上かもしれない。
だが、もうここまで来ると、変に遠慮する方が失礼な気もした。
注文を終え、少し待つ。
その間も、店の中には包丁の音や短いやり取りが響いていた。
その音だけで、なんだか少し特別なところに来た気がした。
最初に運ばれてきたのは味噌汁だった。
蓋を取った瞬間、ふわっと香りが立ち上る。
鼻を抜けて、そのまま頭の方まで抜けていくような、はっきりした海老の風味だった。
水瀬は思わず目を見開く。
「……すごい」
椀の上には、海老の頭が乗っていた。
甘海老だろうか。
それだけで、もう美味しそうだった。
腹の虫が、ぐうと小さく鳴る。
「味噌汁でこんなテンション上がることある?」
黒川が笑う。
「今、かなり上がってる」
水瀬は正直に答えた。
続いて寿司が運ばれてくる。
ネタが大きい。
そして、きちんと握られている感じがした。
回転寿司の気軽さとは別の、“ちゃんとした食べ物”の雰囲気がある。
ひとつ口に運ぶ。
美味しかった。
派手な驚きというより、静かにちゃんと美味しい。
ネタの温度と、シャリのまとまり方が、普段食べているものと少し違う気がする。
「うま……」
水瀬が思わず呟くと、黒川も頷いた。
「うまいな」
村瀬は満足そうに味噌汁を飲んでいる。
「だろ」
その顔が少し得意げだった。
三人とも、しばらくは食べることに集中した。
ちゃんと座って、ちゃんと温かいものを食べている。
それだけで、ここ数日の張りつめた感じが少しだけ緩む気がした。
水瀬は味噌汁を飲みながら思う。
最近は、昼食すら作業の合間に押し込むだけになっていた。
空腹を埋めるためのもの。
それが今日は、ちゃんと昼ご飯だった。
食べ終えると、三人とも自然に息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
会計が終わったあと、水瀬と黒川は村瀬に頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
村瀬は気にした様子もなく手を振る。
「いいよいいよ」
それから、ふと思い出したように言った。
「今日は部長に話してあるから、あと一時間くらいサボって帰ろう」
「サボりですか?」
黒川が聞き返すと、村瀬は笑う。
「サボりサボり。
本当は家に帰って休んでいいよって言いたいけど、案件的にはそうも言ってられないからな。
だから三時くらいここを出る感じで、いい具合に息抜きしようぜ」
その言葉に、水瀬は少しだけ驚いた。
ご飯を食べて終わりだと思っていた。
でも、村瀬はもっとちゃんと“逃がす”つもりらしい。
「いいんですか」
「いいんだよ。
このまま戻っても、たぶん午後も頭動かないだろ」
それは否定できなかった。
来た道を戻り、三人はショッピングモールの中へ入った。
周りから見れば、スーツ姿の三人組は少し変だったかもしれない。
平日の昼間に、仕事の途中みたいな顔をした男が三人でぶらついている。
それでも、その違和感すら少し面白く感じた。
村瀬は洋服屋を覗き、黒川はスニーカーを見ていた。
水瀬もつられて店の中を見る。
服を買うつもりなんてなかったのに、見ているうちに少しだけ気持ちが仕事から離れていく。
会社の外で、仕事と関係ないものを見ている。
それだけのことが、妙に新鮮だった。
そのあと三人でスタバに入り、フラペチーノを買った。
スーツ姿でフラペチーノを持って歩くのも、少し変だった。
でも、そのちぐはぐさが妙に可笑しくて、黒川と水瀬は何度か笑った。
「こんなの飲むの久しぶりだな」
黒川が言う。
「俺も」
水瀬が答える。
村瀬はストローをくわえながら、少しだけ満足そうに言った。
「少しはリフレッシュできたか?」
「かなり」
水瀬は素直に答えた。
「ほんとに、だいぶ違います」
「でしょ」
村瀬は頷く。
「たまには強制的に逃げないとだめなんだよ」
その言葉を、水瀬は少しだけ噛みしめた。
強制的に逃げる。
今の自分たちには、それくらいでちょうどいいのかもしれない。
そうしているうちに、時計は三時に近づいていた。
村瀬が空になったカップを見て言う。
「よし、帰るぞ」
黒川が少しだけ残念そうに言う。
「現実戻りますか」
「戻ろう」
村瀬は笑った。
「でも、午前中よりはマシだろ」
「それはそうですね」
水瀬も頷く。
本当に少しだけだった。
でも、午前中の重たい頭のまま午後に戻るのとは、たぶん全然違う。
三人はまた会社へ向かった。
逃避行は終わる。
現実には戻る。
それでも、水瀬は思っていた。
こういう時間があるから、なんとか壊れずに済んでいるのかもしれない、と。




