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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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29/50

少し近づく距離

 月曜日の朝だった。

 水瀬にとっては、十五連勤目の朝だった。

 週の始まり、という言葉だけを見れば、少し仕切り直せるような気がしそうなものだった。

 けれど、水瀬にとってはまるで違った。

 土日も会社に来ていたせいか、曜日が変わったという実感が薄い。

 ただ、昨日の続きにそのまま線が引かれているだけだった。

 眠気は残っている。

 肩も重い。

 だが、それでも足は自然に会社へ向かっていた。

 十五日も続けて出社しているのに、もうそれを異常だと思う感覚の方が薄れ始めている。

 そのことが、水瀬には少しだけ怖かった。

 本当は、もう少し早く起きるつもりだった。

 だが、目を開けた瞬間、嫌な感覚が走った。

 時計の表示が、想定していた時間を過ぎている。

「……やば」

 声が漏れる。

 飛び起きて、顔を洗い、最低限だけ身支度を整える。

 朝食を取る余裕はなかった。

 家を出る。

 駅までの道を、半分走るようにして進む。

 肩で息をしながら電車に乗り込み、水瀬は窓に映る自分の顔を見た。


 疲れている。

 分かりやすく、疲れていた。


 会社に着くと、執務室にはもうほとんどの人が出社していた。

 平日の朝らしく、キーボードの音と話し声が混ざっている。

 休日の静けさに慣れた身には、その賑やかさが少しだけ遠く感じられた。

 佐伯はすでに席で資料を開いていた。

 結城は黒川のモニターを覗き込みながら、何かを説明している。

 少し前まで、あの二人は“増員されてきた先輩”だった。

 でも今はもう、そこにいるのが自然な気がした。

 執務室の景色の中に、当たり前みたいに溶け込んでいる。

 水瀬は小さく息を整えながら、自分の席へ向かった。

「おはようございます」

 少し遅れての挨拶になる。

 黒川が振り向いた。

「おはよ。珍しいな、少し遅いじゃん」

「寝坊しかけた」

 水瀬が正直に言うと、黒川は小さく笑った。

「だろうなって顔してる」

「自分でもそう思う」

 そんなやり取りをしながら席に座り、PCを立ち上げる。

 画面が表示されるまでの数十秒、ぼんやりと前を見つめた。

 今やっているのは、バッチ設計だった。

 土日に少し進めた。

 進めたつもりではある。

 けれど、前に進んでいる感覚と、分からないまま手を動かしている感覚が、まだ半分ずつ混ざっていた。


 画面を開く。

 複数のテーブル。

 取り出す条件。

 登録先。

 処理の順番。


 見れば見るほど、簡単ではない。

 水瀬は小さく息を吐いて、キーボードに手を置いた。

 しばらくして、また手が止まる。


 このデータを、どこで取得するのか。

 取り出したあと、どの順番で処理するのか。

 登録先のテーブル設計と、処理の流れをどう揃えるのか。


 頭の中で考えてみる。

 だが、途中で線が切れる。

 そこで無理に突っ込むと、余計に分からなくなることも、少しずつ覚えていた。

 水瀬は画面から顔を上げた。

 村瀬の席を見る。

 ちょうど結城と佐伯がそこにいて、村瀬を囲むように画面を見ていた。

 少し離れたところから部長も会話に加わっている。

 仕様の確認なのか、工程の相談なのか、みんな表情は仕事の顔だった。

 今、声をかけるのは違う気がした。

 水瀬は一度視線を戻しかけた。

 だがそのとき、村瀬がこちらに気づいた。

「どうした?」

 少しだけ手を止めて聞いてくる。

「バッチの設計で、ちょっと詰まってて……」

「あー、ごめん、今ちょっと手が離せなくて」

 村瀬は申し訳なさそうに言った。

 そしてすぐに、隣の結城を見る。

 結城と佐伯は席が空いていたから移動してきていた。

「結城、今いける?」

 結城が顔を上げた。

「うん、大丈夫ですよ」

 水瀬は一瞬だけ迷ったが、村瀬が軽く顎で促した。

「そのへん、結城の方が詳しいから。聞いてみ」

「……はい」

 そう答えると、結城が自分の席の方へ椅子を少し動かした。

「じゃ、見せて」

 水瀬はノートPCを少しだけそちらへ向けた。

「どこで詰まってる?」

 結城にそう聞かれても、水瀬は一瞬言葉に詰まった。

 全部、とは言えない。

 でも、一言でどこかと言われると難しかった。

 少し考えてから、水瀬は言った。

「このデータを使うのは分かるんですけど、どのタイミングで取って、どこに持たせるのがいいのかが整理できなくて」

 結城は画面を見ながら頷いた。

「あー、そこか」

 少しだけ笑ってから、画面の一部を指す。

「最初って、細かいとこまで見ようとして逆に迷うんだよね」

 水瀬は思わず頷いた。

 まさに今がそうだった。

「だから、まずは“これが本線”ってとこだけ押さえればいいよ」

「本線……」

「そう。

 最初に何を受け取って、最後にどこへ返すのか。

 そこだけ先に決めると、途中に何が必要か見えやすくなるから」

 本線。

 その言い方は、村瀬に言われた“入口と出口”よりも、少しだけ掴みやすかった。

 目の前に一本、太い線を引く。

 それ以外は後から足す。

 そう考えると、さっきまで広がりすぎていた情報が少しだけまとまり始める。

 結城はさらに続ける。

「バッチって、最初はだいたいここで迷うんだよ。

 画面みたいに見た目がないから、流れが頭に残りにくいし」

「結城さんもですか?」

「もちろん」

 結城は笑った。

「最初から分かるやつ、そんなにいないよ」

 そこで横から声がした。

「いるなら、俺が会ってみたいわ」

 後ろの席にいた佐伯だった。

 水瀬が少し驚いていると、佐伯は肩をすくめる。

「俺も新人のとき、バッチの設計レビューでかなり赤くされたし」

「そんなにですか」

「そんなに」

 佐伯は笑う。

「画面系と違って、動いてるところ見えないからな。

 どこで何してるのか、最初ほんと分かりにくいんだよ」

 それは、まさに今の水瀬の感覚だった。

 水瀬は思わず苦笑する。

「今、ちょうどそんな感じです」

「だよな」

 佐伯は頷いた。

「でも、それ普通だから大丈夫。

 最初から全部見えてるやつなんか、ほぼいないよ」

 その一言が、思っていたより沁みた。

 結城も、佐伯も、今の水瀬よりずっと頼もしく見える。

 でも、最初からこうだったわけではないらしい。

 その事実だけで、少しだけ救われる気がした。


 席へ戻る。

 さっきまで同じ画面を見ても、ただ情報が並んでいるだけだった。

 でも今は、“本線”という言葉が一本の線になって頭の中に残っている。

 最初に何を受け取るか。

 最後にどこへ登録するか。

 そこを決めてから、必要なデータを途中で拾っていく。

 その順番で考えると、前より少しだけ整理しやすかった。

 水瀬は設計書を書き直し始める。


 入口。

 処理の流れ。

 参照するテーブル。

 登録先。


 もちろん、すらすら書けるわけではない。

 途中で何度も止まる。

 だが、止まり方が前と違った。

 ただ真っ白になって止まるのではなく、

 どこで詰まっているのかが少し見える。

 それだけで、前よりかなり違った。


 昼前、村瀬が席へ戻ってきたタイミングで、水瀬は少しだけ画面を見せた。

「お、進んだじゃん」

「結城さんに少し教えてもらいました」

「そっか」

 村瀬は画面を見ながら、軽く頷く。

「いいね。

 一人で抱え込むより、その方が早い」

 それから、水瀬の方を見て少し笑った。

「なんか、チームっぽくなってきたな」

 その言葉に、水瀬は少しだけきょとんとした。

 チームっぽい。

 たしかに、そうかもしれない。

 これまでは、先輩たちが遠く見えていた。

 頼れるけれど、自分とは別の場所にいる人たち。

 でも今は、分からないことを聞ける。

 教えてもらったことが、ちゃんと自分の作業に返ってくる。

 その距離が、少しだけ近くなっている気がした。

「はい」

 水瀬は小さく頷いた。

「少しだけですけど」

「それで十分だよ」

 村瀬はそう言って、また別の打ち合わせへ向かっていった。


 午後も、仕事は相変わらず詰まっていた。

 会話は飛び交うし、確認も止まらない。

 増員されたからといって、一気に楽になるわけではない。

 それでも、水瀬の中には午前中とは少し違う感覚が残っていた。

 頼れる人がいる。

 しかも、その人たちは遠くから見ているだけの存在ではなくなり始めている。

 そのことが、思っていたより大きかった。

 もちろん、自分が追いつけたわけではない。

 差はまだ大きい。

 でも、その背中をただ眺めているだけではなくなってきた気がした。

 執務室のあちこちで交わされる会話も、前より少しだけ耳に入る。

 用語の意味が少し分かる。

 話の流れが少し追える。

 それだけで、自分もほんの少しこのチームの中に入れているように感じた。

 水瀬はモニターの前で姿勢を直した。

 設計はまだ終わっていない。

 案件も相変わらず厳しい。

 増員しても、余裕は増えない。

 それでも。

 前より少しだけ、一人で戦っている感じが薄れていた。


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