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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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36/50

朝焼けのガッツポーズ

 朝のカフェで少しだけ気持ちが整ったせいか、その日の水瀬は思っていたよりも落ち着いて仕事に入れていた。

 もちろん、体は重い。

 眠気もある。

 連勤が積み重なっていることは、頭より先に肩や背中が知っていた。

 それでも、昨日までとは少し違った。

 迷ったら設計へ戻る。

 設計に足りないものが見えたら追記する。

 追記した内容を藤堂に見てもらって、問題なければまたコーディングへ戻る。

 その流れが、今日は少しだけ自分の中で繋がっていた。

 朝一番で昨日止まった箇所を見直し、設計書に条件を書き足していく。

 値を保持するのかしないのか。

 戻ったときの見え方をどう揃えるのか。

 確認画面へ進む前に、どこまでチェックをかけるのか。

 設計書へ追記しながら、水瀬は時々藤堂に声をかけた。

「ここ、こう書いた方が読みやすいですかね」

 藤堂は椅子を少しだけ寄せて画面を覗き込み、小さく頷く。

「うん、それでいいと思う。

 少なくとも、昨日よりは迷いにくい」

 その言葉だけで、水瀬は少しだけ救われた。

 昨日は、止まる理由が分からないまま詰まっていた。

 今日は違う。

 どこが曖昧だったのかが分かっているぶん、直すべき場所も見えやすかった。

 設計を直し、またコードへ戻る。

 コードを書いて、また設計へ返る。

 その往復は相変わらず面倒だったし、簡単でもなかった。

 けれど、少なくとも今日は、ただ立ち尽くしている感覚はなかった。

 昼を過ぎる頃には、画面の形は昨日よりずっと前へ進んでいた。

 表示条件も、入力の流れも、少しずつ設計と噛み合ってくる。

 昨日止まった箇所を一つ越え、その先でまた新しい曖昧さを見つけては、戻って直す。

 遅い。

 それは変わらない。

 けれど、水瀬は確かに思っていた。

(今日は、昨日より進んでる)

 その実感があるだけで、指先の重さが少し違った。

 夕方になる頃には、ひとまず動かせるところまで書けた気がした。

 完璧ではない。

 まだ細かいところには不安もある。

 それでも、ここまで来たなら一度動かしてみたいと思った。

 実際に動かして、どこで詰まるのかを見たい。

 水瀬は深く息を吸ってから、実行した。

 次の瞬間、画面に現れたのは大量のエラーだった。

「うわ……」

 思わず声が漏れる。

 赤い文字が並ぶ。

 見慣れない文言がいくつも重なっていて、一瞬だけ頭が真っ白になった。

 けれど、不思議と絶望だけではなかった。

 何も出ないわけではない。

 真っ白なまま止まるわけでもない。

 エラーが出ているということは、少なくともそこまでは処理が進んでいるということだ。

 つまり、動こうとはしている。

 その事実が、水瀬には妙に嬉しかった。

「……ちゃんと動いてる」

 エラーだらけの画面を見ながら、そんなことを思う自分に少し笑いそうになる。

 でも本当に、嬉しかった。

 ここまで来たのだ。

 水瀬はすぐにデバッグモードを立ち上げた。

 コードを一行ずつ止めながら実行し、そのたびに値の動きや処理の流れを確認できる機能だ。


 変数の値。

 条件分岐の流れ。

 どこで意図と違う状態になっているのか。


 その画面を見た瞬間、前の案件のことを思い出した。

 杉本に初めて教わったときのことだ。

『ここで一行ずつ追っていけば、どこでおかしくなってるか見えるから』

 あのときは、画面の見方すらよく分かっていなかった。

 ただ言われるままに、変数の値が変わっていく様子を眺めていた。

 そういえば杉本は、昔はこんな便利なものはなかったと言っていた。

 デバッグ用のコードを自分で埋め込んで、値の流れを無理やり確認していたらしい。

『で、たまに消し忘れて怒られるんだよな』

 そう言って、珍しく少し笑っていたのを覚えている。

 水瀬は画面へ視線を戻した。


 一つ直す。

 もう一度動かす。

 今度は別の箇所で落ちる。

 また止まる。

 また追う。

 直したと思ったら、今度は別のエラーが顔を出す。


 それでも、水瀬は画面から目を離せなかった。

 今日は、動くところまで見たい。

 その思いだけが、妙に強く残っていた。

 気づけば、フロアの空気は夜のものに変わっていた。

 昼間のざわつきはもうない。

 短い会話も減り、キーボードの音と空調の音だけが広い空間に残っている。

 そんなとき、少し離れた席で黒川が伸びをしながら立ち上がった。

「そろそろ上がるか……」

 その声に合わせるように、村瀬も席を立つ。

 藤堂もモニターから目を離し、小さく肩を回した。

 村瀬が水瀬の方を見た。

「水瀬、もうすぐ上がるけど、今日は一緒に帰る?」

 水瀬は一瞬だけ迷ってから、画面へ視線を戻した。

「……今日は、動くところまで見たいです」

 そう言うと、黒川が少しだけ笑う。

「お、熱いな」

 藤堂は小さく息を吐いた。

「気持ちは分かるけど、無理しすぎないでね」

 村瀬も続ける。

「分からなくなったら、勢いで全部触るなよ。

 一個ずつ見ろ」

「はい」

 三人が帰る支度を始める。

 その背中を見送りながら、水瀬はもう一度画面へ向き直った。

 いつもならどこかで区切りを探していたかもしれない。

 けれど、その夜の水瀬は、もう少しだけ先を見たかった。

 フロアには、やがて自分一人だけが残った。

 パソコンのファンの音。

 空調が風を送る音。

 どこかで小さく軋むような建物の音。

 普段は気にもならないそれぞれの音が、妙に耳につく。

 一人きりのフロアは静かすぎて、かえって落ち着かなかった。

 それでも、水瀬は椅子に座り直した。

 エラーを一つ潰す。

 もう一度動かす。

 今度は別の箇所で止まる。

「……そこか」

 小さく呟いて、またコードへ戻る。

 一つずつ。

 一つずつだ。

 すぐに全部は直らない。

 でも、止まる場所は見えている。

 それだけで、昨日までの重さとは少し違っていた。

 やがて、また一つエラーが消えた。

 もう一度実行する。

 画面が切り替わる。

 一瞬だけ、水瀬は何が起きたのか分からなかった。

 赤い文字がない。

 代わりに、こちらが表示したかった画面が、ちゃんとそこに出ていた。

「……動いた」

 声が漏れる。

 次の瞬間、心の中で思いきりガッツポーズしていた。

(動いた!)

 たくさん出ていたエラーが消えて、画面がちゃんと立ち上がっている。

 条件分岐も、表示も、少なくとも今見えている範囲では意図通りに動いている。

 もちろん、まだ全部終わったわけではない。

 この先にまた別の問題があるかもしれない。

 でも、それでもいいと思った。

 今この瞬間、少なくとも自分の書いたコードが、画面を立ち上げた。

 それが嬉しかった。

 水瀬はそのまま画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐く。

 ふと窓の外に目をやると、空が少し明るい。

 夜の黒ではない。

 薄く青んだ朝の色だった。

「……え」

 慌てて時計を見る。

 六時。

 そこでようやく、水瀬は自分が徹夜してしまったことに気づいた。

「うそだろ……」

 でも、口ではそう言いながら、気持ちはどこか高揚していた。

 急いで帰り支度をする。

 PCを閉じ、最低限のものだけまとめて、椅子を戻す。

 フロアを出ると、廊下の窓から朝の光が差し込んでいた。

 帰りのタクシーの中でも、水瀬はあまり眠くならなかった。

 徹夜明けなのに、頭は妙に冴えている。

 たぶん、動いたことに気持ちが持っていかれていたのだと思う。

 自分でも驚くほど、胸の奥が熱かった。

 少し前までなら、エラーが大量に出た時点で気持ちが折れていたかもしれない。

 でも今日は違った。

 止まって、調べて、直して、また進めた。

 そのことが、何より大きかった。

 タクシーの窓の外を流れていく朝の街を見ながら、水瀬はぼんやり思う。

(少しは、成長してるのかもな)

 家に帰って、シャワーを浴びる。

 熱いのかぬるいのかもよく分からないまま、ただ水を浴びた。

 時計を見る。

 一時間くらいなら横になれる。

 水瀬はベッドに倒れ込むようにして寝転んだ。

 だが、目を閉じてもすぐには眠れなかった。

 疲れているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。

 体は重い。

 でも意識が落ちない。

 仕方なく、目を閉じたまま横になる。

 耳の奥で、自分の心臓の鼓動が聞こえる。

 ドク、ドク、と少し速い。

 その音に意識を預けているうちに、ようやく少しだけまどろんできた。

 もう少しで眠れそうだ、と思ったところで、アラームが鳴る。

「……うわ」

 体を起こしながら、水瀬は小さく呻いた。

 疲れているはずなのに、妙に頭だけがはっきりしている。

 こういう日もあるのかもしれないと思う。

 窓の外は、もうすっかり朝だった。

 水瀬は顔を洗い、着替えて、また会社へ向かう支度をする。

 連勤はまだ終わらない。

 デスマーチも続いている。

 それでも今日は、少しだけ違っていた。

 朝焼けの中で、心の中で思いきり拳を握ったあの瞬間だけは、たしかに自分のものだった。

 水瀬は静かに玄関を出た。


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