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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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増えた人、増えない余裕

 増員メンバーが入って、執務室の空気は少し変わった。

 人が増えれば、それだけ声も増える。

 席を立って誰かのところへ向かう人。

 画面を見せながら確認する人。

 執務室の端では、部長と村瀬が小さな声で工程の話をしている。

 前より、人はいる。

 それなのに、不思議と余裕は増えていなかった。

 むしろ逆だった。

 人が増えたぶん、説明が増える。

 認識合わせも増える。

 質問も増える。

 部長と村瀬は、朝からほとんど席に落ち着いていなかった。

 増員されれば、すぐ楽になる。

 そんな単純な話じゃないらしい。

 水瀬がそのことをぼんやり考えていると、村瀬が席の後ろから声をかけた。

「水瀬、ちょっといいか」

「はい」

 振り向くと、村瀬はモニターを軽く指した。

「今日から、この機能の設計やってみよう」

 画面に表示されていたのは、全体の中では比較的小さめの機能だった。

 大きな山ではない。

 けれど、だからこそ最初に任せるにはちょうどいいのだろうと、水瀬はなんとなく思った。

「まずは設計から始めて。過去の設計書も参考になると思うから、見ながら書いてみて」

「わかりました」

 そう答えたものの、実際にドキュメントを開いてみると、すぐに手が止まった。

 参考にすべき設計書はある。

 過去案件のフォルダにも、それらしい資料は並んでいる。

 けれど、何をどう参考にすればいいのかが分からない。


 画面項目。

 入力値。

 処理概要。

 異常時の動き。


 書いてあることは読める。

 でも、それを今の機能にどう置き換えればいいのかが見えなかった。

 分からないことが、まだうまく分からない。

 水瀬はひとまず、一番近そうな設計書を開いた。

 画面遷移図があり、入力項目一覧があり、処理概要があり、最後に細かな補足が並んでいる。

 こういう形にすればいいのだろう、ということは何となく分かる。

 だが、その“何となく”から先へ進めない。

 今の機能で必要な項目はどこまでか。

 どの画面から始まり、どういう入力を受け、どう返すのか。

 正常系だけでいいのか。

 エラーになった場合はどこまで書くのか。

 考え始めると、むしろ分からなくなっていく。

 しばらく一人で粘ってみた。

 設計書を読んでは今の仕様を見る。

 仕様を見ては設計書へ戻る。

 だが、三十分ほど経ったところで、ようやく自分がぐるぐる同じところを回っていることに気づいた。

 水瀬は小さく息を吐く。

 このまま考えていても、たぶん進まない。

 そう思って、立ち上がった。

 村瀬の席へ向かう。

 だが、ちょうどそのとき、村瀬は結城と話していた。

 その横では佐伯が別の画面を見ながら何か確認している。

 村瀬はスケジュールを開き、工程と人の割り振りを見ながら、二人に何か説明していた。

 水瀬は一瞬だけ、声をかけるのをためらった。

 忙しそうだった。

 本当に、忙しそうだった。

 増員メンバーが入って少し落ち着くのかと思っていたが、現実は逆だった。

 増えた人たちに説明し、認識を合わせ、質問に答え、工程を調整する。

 そのぶん、村瀬の手はむしろ増えているように見えた。

 それでも、水瀬は意を決して声をかけた。

「すみません」

 村瀬が振り返る。

「ん?」

「設計なんですけど……」

 水瀬は少し迷ってから言った。

「何を書けば足りて、何が足りないのかが分からなくて」

 村瀬は一瞬だけ考えるような顔をした。

「今、何を見てる?」

「前の案件の設計書です」

「それで、読んでみてどう?」

「書いてあることは、なんとなく分かるんですけど……今の機能にどこまで必要なのかが分からないです」

 村瀬は小さく頷いた。

「そっか」

 それから、時計を見るように少しだけ視線をずらした。

「本当はちゃんと時間取って見たいんだけど、今ちょっと立て込んでてさ」

「はい……」

「だから、まずはこれだけ意識してみて」

 村瀬は水瀬のモニターをちらっと見た。

「誰が、何を入力して、どういう結果になるか。

 そこをまず自分の言葉で書いてみよう」

「自分の言葉で……」

「うん。いきなり綺麗な設計書にしようとしなくていい。

 まずは処理の流れを、日本語でちゃんと並べてみる」

 一拍置いて、続ける。

「それが書けたら、項目とか例外とかは後から足せるから」

 水瀬は頷いた。

「わかりました」

「ごめんな。今ほんと細かく見てる時間なくて」

「いえ、大丈夫です」

 大丈夫ではない。

 けれど、そう答えるしかなかった。

 それでも、ヒントはもらえた。

 何もないよりは、ずっとよかった。

 席へ戻る。

 水瀬は新しいドキュメントを開いた。


 誰が。

 何を入力して。

 どういう結果になるのか。


 村瀬に言われた通り、その流れをまずは自分の言葉で書いてみる。

 最初はひどくぎこちなかった。

 文章が長い。

 主語が曖昧になる。

 自分で書いているのに、何が処理で何が結果なのか分からなくなる。

 それでも、書き出してみると、少しずつ形になっていった。


 入力項目を書き出す。

 処理の順番を並べる。

 どこで何が保存されるかを書く。


 途中で何度も手が止まる。

 そのたびに仕様を読み返し、過去の設計書を見て、また書く。

 気づけば一時間以上経っていた。

 ようやく、自分なりの設計書らしきものができた。

 水瀬はそれを村瀬へ送った。


 数十分後、レビューが返ってきた。

 そして画面を開いた瞬間、思わず肩がすくんだ。

 指摘だらけだった。

 赤いコメントが、画面のあちこちに並んでいる。

 入力条件が抜けている。

 正常系しか書かれていない。

 エラー時の扱いが曖昧。

 そもそも、誰が何をする画面なのか、前提の説明が薄い。

「……うわ」

 思わず声が漏れた。

 隣で黒川が一瞬だけこちらを見たが、何も言わなかった。

 その沈黙がありがたかった。

 水瀬はしばらく、画面を見つめた。

 情けない。

 だが、不思議と全部が意味不明というわけではなかった。

 指摘を読めば、何が足りないかは少しずつ分かる。

 なぜ直す必要があるのかも、前よりは理解できる。

(ああ、そういうことか)

 前なら、ここで止まっていた気がする。

 何がダメなのかも分からず、ただ落ち込むだけだった。

 今は違う。

 ダメなのは分かる。

 でも、どこがダメなのかも少し分かる。

 それだけで、前よりは進んでいる気がした。

 水瀬は、ひとつずつ直し始めた。


 入力条件を足す。

 処理の前提を書く。

 異常系を追加する。

 言葉を揃える。

 途中でまた止まる。

 仕様を見返す。

 過去の設計書を確認する。


 それでも分からなければ、周りの会話に耳を澄ます。

 執務室では、あちこちで人が話していた。

「ここの認識ってこれで合ってます?」

「その値、昨日の打ち合わせだと変わってる」

「工程ちょっと引き直します」

 人は増えた。

 でも、余裕は増えない。

 むしろ、全員が同時に走り出したことで、フロア全体の密度だけが上がっているようだった。

 増員されてもデスマーチの空気はそのままだ。

 列に並ぶ人が増えただけで、列そのものが消えたわけではない。

 そんなことをぼんやり思いながら、水瀬は修正版をもう一度送った。

 

 二回目のレビューは、少しだけ違った。

 まだ指摘はある。

 だが、一回目ほどではない。

 赤いコメントの量が減っている。

 その差を見た瞬間、水瀬は少しだけ息をついた。

 しばらくして、村瀬が席まで来た。

「どう?」

 水瀬は画面を見せる。

「まだ結構ありますけど……前よりは減りました」

 村瀬はコメントをざっと見て、小さく笑った。

「うん」

 それから、水瀬の方を見る。

「だんだん分かってきた?」

 その言い方が、少しだけ優しかった。

 水瀬は一瞬きょとんとして、それから頷く。

「……少しだけですけど」

「それでいいよ」

 村瀬は頷いた。

「最初はそんなもんだし。

 何が足りないか見えるようになってきたなら、ちゃんと進んでる」

 その言葉に、水瀬は思っていたより救われた。

 疲れは残っている。

 案件は相変わらずきつい。

 人が増えても、余裕は増えない。

 それでも、まったく同じ場所に立っているわけではないのかもしれない。

 水瀬はモニターへ視線を戻した。

 執務室のあちこちで、まだ会話が飛んでいる。

 質問。

 確認。

 打ち合わせ。

 人は増えた。

 でも、忙しさは減っていない。

 むしろ、走る人数が増えたぶん、デスマーチの列が少し長くなっただけなのかもしれなかった。

 それでも、その列の中で、水瀬は昨日よりほんの少しだけ前を向けている気がした。


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