先輩たちの背中
数日が過ぎていた。
水瀬は、ようやく開発環境の構築の終わりが見え始めていることに、少しだけ安堵していた。
もちろん、完全に理解できたわけではない。
分かるところは分かる。
だが、調べても調べても、結局よく分からないままのものもあった。
記事を探し、誰かのメモを読み、
「これを入れれば動いた」
と書かれている通りに試してみる。
すると、実際に動く。
理屈ははっきりしない。
でも、前よりは分かる気がする。
そんな状態だった。
それでも、水瀬は以前よりは前に進めていると思っていた。
前の案件では、手順書を見ても何をしているのか分からなかった。
ただ書かれている通りに打ち込んで、言われた通りに進めていただけだった。
今は違う。
全部ではないにしても、見たことのある言葉が増えていた。
意味がすぐに浮かぶ単語も、少しずつ増えている。
ほんの少し。
それでも、その差は大きかった。
その日の朝。
水瀬が席についてPCを開いていると、村瀬の席へ二人の人影が近づいていくのが見えた。
佐伯と結城だった。
昨夜、村瀬から聞いていた。
二人の担当案件がひと段落し、今日からこちらへ合流できるらしい、と。
村瀬と少し話したあと、二人はそのまま水瀬の席までやってきた。
「お疲れ様」
佐伯が先に声をかけた。
「お疲れ様です」
水瀬が椅子を少し引きながら返す。
横で黒川も頭を下げた。
「今日からこっちに合流するから、よろしくな」
佐伯はそう言って、気負いのない笑い方をした。
それだけで、少しだけ空気が軽くなる。
結城が続ける。
「で、早速なんだけど、環境構築したいから、手順書の場所あとでチャットで送ってもらっていい?」
「わかりました」
水瀬がそう返すと、結城がすぐに言った。
「そんな堅苦しくなくていいよ」
少しだけ笑う。
「どうせ三年くらいしか違わないし。もっとフランクで大丈夫」
その言い方に、水瀬は少しだけ気が楽になった。
先輩たちは、もっと壁のある存在だと思っていた。
もちろん仕事の距離感はある。
けれど、話しにくいわけではないらしい。
それだけでも救われる気がした。
「じゃあ、あとで送ります」
「ありがと。助かる」
二人はそう言って、自分たちの席へ戻っていった。
水瀬はチャットを開き、手順書の保存場所を送った。
そのあと、一言だけ付け足す。
まだ全部は終わっていません。途中です。
それを書いて送信してから、少しだけ落ち着かない気持ちになる。
早く終わらせなければ。
そう思いながら、目の前の開発環境構築の続きを始めた。
ファイルを開く。
設定を見直す。
不足している手順を足す。
まだ整っていないところは多い。
だが、だからこそ急ぎたい。
自分が送ったものを、もう先輩たちが見ているのだと思うと、妙な緊張があった。
その日の午後。
チャットの受信音が鳴った。
結城からだった。
水瀬はメッセージを開く。
手順書の最後までやったんだけど、ここから先はまだ手つかず?
心臓が少し跳ねる。
水瀬はすぐに返した。
調査している最中です。
すると、間を置かずに返信が来た。
OK、手伝うよ。この状況だと、たぶんここはこうなってるはず。
で、次はこの設定が必要になると思う
続けて、今まさに水瀬が調べていた内容が、画面に並んでいく。
必要なパッケージ。
設定ファイルの位置。
エラーが出た場合の確認ポイント。
その速さに、水瀬は一瞬言葉を失った。
(さすが先輩だな……)
単純にそう思う。
同時に、自分の現在地がまだまだ遠いことも思い知らされる。
自分は、調べて、迷って、止まっていた。
結城は、そこを見て、すぐ次に進める。
この差は大きい。
だが、不思議と落ち込むばかりではなかった。
こうやって前に進めるなら、それでいい。
そう思えたのは、たぶん少しだけ気持ちに余裕が出てきたからだろう。
水瀬はチャットを見返しながら、手順書へ必要な内容を書き足していった。
夕方には、ようやく開発環境の手順書が一通りの形になった。
水瀬が小さく息を吐いたところで、またチャットが届く。
結城だった。
この手順書、足した方がいい箇所いくつかあったから、少し手を入れたよ
ファイルを開く。
追記されていたのは、ほんの数行だった。
だが、その数行が、自分の書いた説明よりずっと分かりやすかった。
同じことを書いているはずなのに、伝わり方が違う。
自分は“何をするか”だけを書いていた。
結城は“なぜそれが必要か”まで、短く添えていた。
それだけで、手順書の意味がまるで変わる。
水瀬は画面を見つめたまま思った。
(こういうことか)
先輩たちの仕事は、速いだけではない。
他の人が使いやすい形まで考えられている。
そこが、自分との違いなのだろう。
村瀬や黒川、そして今目の前にいる佐伯や結城。
それぞれやり方は違っても、みんな自分より先を歩いている。
その背中が、少しだけ遠く見えた。
でも、前よりは見えている。
それが、少し嬉しかった。
水瀬は手順書を保存し、画面を閉じた。
まだ足りないところはある。
直すところもある。
それでも、今日の自分なりに積み上げたものが、そこには残っていた。
最初の案件の頃は、ただ「分からない」で止まるしかなかった。
けれど今は違う。
分からなくても調べる。
調べても無理なら聞く。
聞いたことを次に活かす。
その繰り返しの中に、自分もちゃんといる。
画面の向こうで、結城と佐伯が何かを話して笑っている。
少し離れた席では、黒川が静かにコードを見つめていた。
村瀬は部長と小さく打ち合わせをしている。
チームが動いている。
その中に、自分も混ざっているのだと思うと、胸の奥に小さな熱が残った。
水瀬はもう一度キーボードに手を置いた。
先輩たちの背中は、まだ遠い。
でも、追いかけることはできる気がした。




