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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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任された手順

 顔合わせが終わり、各々が席へ戻っていく。

 執務室はいつもと変わらないようでいて、少しだけ空気が違っていた。

 増員メンバーの顔を見たからかもしれない。

 案件が次の段階へ進んだのだという感覚が、目に見えないところで広がっていた。


 水瀬が席に座り、PCを開き直したところで、村瀬が後ろから声をかけた。

「水瀬、ちょっといいか」

「はい」

 振り向くと、村瀬はいつもの軽い顔ではなく、少しだけ仕事の顔をしていた。

「明日から、アプリ開発用の環境構築をやってほしい」

 一瞬、意味が頭に入るまでに間があった。

「……自分が、ですか?」

「うん」

 村瀬は頷く。

「もちろん、今やってる作業が片付いてからでいい。

 残りは黒川に引き継いでもらう」

 水瀬は思わず黒川の方を見た。

 黒川は画面を見たままだったが、その横顔には少しだけ不安が浮かんでいるように見えた。

「黒川一人で大丈夫なんですか?」

 水瀬が聞くと、村瀬は少しだけ肩をすくめた。

「不安はあると思う。でも、今慌てて全部を一気にやる必要はない」

 一拍置いて続ける。

「アプリ開発がある程度進まないと、サーバに入れるものも入れられないからな。

 今の残り工程なら、黒川一人でも十分回せると思う」

 そして、少しだけ声を柔らかくした。

「もちろん、手が必要になったら俺も水瀬もフォローする。

 その形でいきたい」

 黒川はそこでようやく顔を上げ、小さく頷いた。

「わかりました」

 村瀬は今度は水瀬の方を見る。

「開発環境は作るだけじゃなくて、そのときに手順書も一緒に作ってほしい」

 その言葉に、水瀬は思わず背筋を伸ばした。

「手順書、ですか」

「そう」

 村瀬は頷く。

「あとから入るメンバーも、それを見て同じ環境を作れる形にしたい。

 結構重要だぞ」

 その瞬間、胸の奥に少しだけ重みが落ちた。

 自分が作ったものを、みんなが使う。

 今までにはなかった種類の責任だった。

 プレッシャー、と言ってしまえばそれが一番近い。

 だが、村瀬はすぐに続けた。

「別に、最初から百点満点じゃなくていい」

 水瀬が顔を上げる。

「いきなり完璧なものは求めてないよ。

 それに、みんなエンジニアだ。多少手順が抜けてても、自分でフォローできる」

 少し笑って、ホワイトボードの方へ目をやる。

「その都度、みんなで手順に手を加えていけばいい」

 その言葉に、水瀬は少しだけ肩の力が抜けた。

 ああ、と心の中で思う。

 これが、チームでやるということなのかもしれない。

 一人で完璧なものを背負うのではなく、足りないところは埋めながら進めていく。

 そう考えると、さっきまでの重さが少しだけ形を変えた。

「……やってみます」

 水瀬が言うと、村瀬は軽く頷いた。

「頼んだ」


 その日の作業は、そこからも続いた。

 インフラ側の残りを詰める。

 黒川が中心で進め、水瀬も手を動かす。


 確認。

 修正。

 また確認。


 日付が変わり、また夜が深くなっていく。

 気づけば、それにも少しだけ慣れてしまっていた。

 時計が夜中の二時や三時を指していても、驚かなくなっている自分がいる。

 それがいいことなのかどうかは分からなかった。

 途中でコンビニへ行き、買ってきたエナジードリンクの最後の一口を飲み干したところで、村瀬が席の方へ来た。

「今日は上がるか」

 黒川が時計を見る。

「もう三時ですね」

「進捗は、まあ、少しずつって感じだな」

 村瀬は苦笑した。

「といっても、まだまだ遅れてることには変わりないけどさ」

 それから、少しだけ真面目な声になる。

「徹夜になってもいいことない。今日はここまでにしよう」

 黒川も水瀬も、異論はなかった。


 PCを閉じる。

 ログオフする。

 椅子を戻す。


 帰る支度だけは、もうだいぶ手慣れていた。

 今日もタクシーだった。

 水瀬はタクシーのドアが開くたびに、頭の片隅で財布のことを考えていた。

 クレジットカードに慣れていないせいで、毎回現金で払っている。

 もちろん交通費として精算はされる。

 だが、それは月末締めで、翌月に返ってくる。

 月末までは、まだ一週間ある。

 毎回のタクシー代は、思っていたより新人の財布には痛かった。

 それでも、夜中の三時に電車が走っているわけではない。

 水瀬は財布から紙幣を出しながら、少しだけ苦笑した。

(社会人って、こういうところも現実なんだな)

 そんなことを思いながら、その日は家へ帰った。


 翌日。

 水瀬は言われた通り、開発環境の構築に取りかかった。

 だが、いきなり手が止まった。

(……何をすればいいんだ?)

 そこで、もう詰まっていた。

 開発環境を作る。

 言葉としては分かる。

 だが、最初の一歩が見えない。

 必要なものを洗い出すのか。

 手順書を書くのか。

 まずインストーラを集めるのか。

 頭の中で考えれば考えるほど、むしろ分からなくなっていく。

 たまらず、水瀬は村瀬の席へ向かった。

「すみません」

「ん?」

「開発環境の構築って……どうすればいいんですか?」

 村瀬はすぐに答えなかった。

 少しだけ考えてから、逆に聞いた。

「前の案件やってたとき、どうだった?」

「手順書がありました」

「だよな」

 村瀬は頷く。

「じゃあ、その手順を見て、どんなものを入れてたのか、今回は何が必要なのか考えてみようか」

 水瀬はそこで、少しだけ気づいた。

 村瀬は答えを知っている。

 たぶん、この場で全部教えることもできる。

 でも、それをしない。

 それは意地悪ではなく、たぶん、水瀬のためだった。

「まずは前の手順を、自分の言葉で書き直してみ」

「……はい」

 席に戻る。

 前の案件で使っていたドキュメントを開く。

 そこに書かれている手順を、一つずつ読む。

 以前は、ただ書いてある通りに作業をしていただけだった。

 でも、今は少し違う。

 サーバ構築を経験したからか、見覚えのある言葉が増えている。


 ミドルウェアの名前。

 環境変数。

 ポート。

 パス。


 分かるとは言えない。

 だが、“見たことがある”だけで、前よりずっと取っつきやすかった。

 水瀬は新しいドキュメントを開いた。

 前の案件の手順書を参考にしながら、自分の言葉で書いていく。

 一つずつ。


 なぜこれが必要なのか。

 何を入れるのか。

 その順番である理由は何か。

 途中で何度も手が止まる。

 調べる。

 また書く。


 だが、それでも、前よりは進んでいた。

 同時に、水瀬は思い知らされてもいた。

 作られていた手順書が、どれだけすごかったのかを。

 ただ並べただけではない。

 必要なものが、必要な順番で、誰が見ても迷いにくいように書かれている。

 開発環境。

 その一言の中に、どれだけ多くの前提が詰まっているのか。

 アプリを開発する上で、何が必要で、なぜ必要なのか。

 それを一つずつ紐解けなければ、たぶんコードを書いてもうまくいかない。

 最初の案件で学んだことだった。

 けれど、あのときの自分は、紐解くこと自体ができなかった。

 分からないことが、分からない。

 調べても調べても、余計に分からなくなるばかりだった。

 そのときのことを思い出す。

 前の案件で担当だった杉本に聞いたことがある。

「何を入れてるのかさっぱりなんですけど、どうしたら……」

 杉本は、そのとき笑いながら言った。

『最初はそうだよな。

 でも、まだ新人だし、初めての案件だろ?

 分からないのは当然だし、だんだん、なんでこの手順が必要なのか分かるようになってくるよ』

 本当に、その通りだった。

 まだ足りない。

 知らないことだらけだ。

 それでも、あの頃よりは確実に見えるものが増えている。

(……やっぱり、成長できてるんだな)

 そのことが、少しだけ嬉しかった。

 水瀬は新しい手順書の画面を見つめながら、静かにキーボードへ手を置いた。

 まだ先は長い。

 でも、やることは少しずつ見え始めていた。


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