曜日が消えていく
二回目のレビューが返ってきたときには、もうかなり遅い時間になっていた。
赤いコメントの量は、一回目よりずっと少ない。
それだけで、水瀬は少しだけ救われた気がした。
とはいえ、指摘がなくなったわけではない。
足りない説明もあるし、書き方が曖昧なところも残っている。
それでも村瀬に「だんだん分かってきた?」と聞かれたあの一言が、思っていたよりずっと支えになっていた。
自分はまだ全然できていない。
でも、まったく同じ場所に立っているわけでもない。
そのことを、ようやく少しだけ実感できるようになってきていた。
水瀬がモニターの隅に表示された時刻へ目をやる。
二十三時を、とっくに過ぎていた。
金曜日の夜だった。
本来なら、少しは気持ちが軽くなっていてもおかしくない曜日だ。
けれど、執務室の中にはそんな空気はどこにもなかった。
増員メンバーが入ってから、フロアの会話は確かに増えた。
質問が飛び、確認が行き交い、打ち合わせスペースでは部長と村瀬が何度も小さな声で話している。
人は増えた。
でも、余裕は増えていない。
むしろ、説明や認識合わせのぶんだけ、全体の密度が上がっているように感じた。
水瀬は小さく肩を回した。
首の後ろが重い。
目の奥も熱い。
疲れている。
それは間違いなかった。
それでも、まだ誰も帰る空気ではなかった。
黒川は隣で静かに画面を見つめていた。
結城は少し離れた席で、佐伯と何か短く確認しながらキーボードを叩いている。
部長はまた打ち合わせスペースの方に立っていて、村瀬と工程表を見ながら話していた。
どこを見ても、まだ仕事の途中だった。
増員されれば、もっと一気に前へ進むものだと思っていた。
だが実際には、進んでいるのか止まっているのか分からないような細かなやり取りが増えただけにも見える。
誰かが作業して、誰かが確認して、また別の誰かがその前提を確かめる。
チームでやるというのは、ただ人数が増えることではないのだろう。
それぞれが同じ方向を向くための時間が、まず必要になる。
そして、その時間もまた、容赦なく今のスケジュールを削っていく。
水瀬はぼんやりとそんなことを考えながら、モニターへ向き直った。
修正した設計書をもう一度読み返す。
足りないところを埋める。
言葉を整える。
少しだけ集中すると、また時間が飛ぶ。
次に顔を上げたとき、執務室の時計は日付を跨いでいた。
土曜日になっていた。
なのに、誰も驚いていない。
水瀬はそのことを、少しだけ怖いと思った。
しばらくして、村瀬が席へ戻ってきた。
「今日はこのへんにしとくか」
その声に、水瀬は顔を上げる。
村瀬はコーヒーの缶を片手に持ちながら、全体を見回した。
「明日もあるしな」
その一言が、あまりに自然に聞こえた。
明日もある。
つまり、土曜も出社だ。
数週間前の自分なら、その言葉だけでかなり重く感じていたはずだった。
けれど今の水瀬は、ただ小さく頷いていた。
「……はい」
その返事があまりにも自然に口から出たことに、自分で少しだけ驚く。
村瀬は、特に深い意味もなさそうに続けた。
「帰って寝て、また明日やろう。
この状態で無理に引っ張っても、ろくなことにならないし」
黒川が背もたれに体を預けながら、小さく息を吐いた。
「……今日って金曜だっけ」
その声に、水瀬は思わず苦笑した。
「金曜だよ」
「そっか」
黒川は少しだけ笑う。
「もう、あんまり関係ないな」
「だな」
水瀬も頷いた。
金曜だから嬉しい、とか。
土曜だから休める、とか。
そういう感覚が、少しずつ薄れてきている。
今はもう、何曜日かより、今日何時に帰れるのかの方が大事だった。
佐伯と結城も、ちょうど区切りがついたらしく、それぞれ画面を閉じ始めていた。
誰も大きな声は出さない。
けれど、全員の動きに、疲れがにじんでいた。
それでも、帰るという判断が出るだけ、まだいいのかもしれなかった。
PCを閉じる。
ログアウトする。
机の上を軽く整える。
そういう帰るための動きだけが、ここ数日で妙に手慣れてきていた。
気づけば、深夜に会社を出る段取りだけが妙にうまくなっている。
三人でエレベーターへ向かう。
土曜未明のビルは静かだった。
足音だけが、やけに響く。
外へ出ると、空気が少し冷たかった。
夜というには深く、朝というにはまだ暗い。
その曖昧な時間帯が、今の自分たちに妙に似合っている気がした。
「今日もタクシーだな」
黒川が言う。
村瀬は短く頷いた。
「さすがにこの時間じゃな」
三人で道端に立つ。
しばらくすると、遠くからヘッドライトが近づいてきた。
村瀬が手を上げる。
タクシーがゆっくりと止まった。
後部座席のドアが開く。
村瀬が黒川を見る。
「黒川、お前からだな。一番遠いし」
黒川は少しだけ肩をすくめた。
「じゃあ、お先」
「お疲れ」
「また明日な」
黒川が乗り込み、ドアが閉まる。
タクシーは静かに走り出し、すぐに夜の向こうへ消えていった。
道に残ったのは、村瀬と水瀬の二人だけだった。
少しだけ間が空く。
さっきまで三人でいたせいか、急に静かになった気がした。
村瀬が空を見上げるようにして言う。
「もう土曜か」
水瀬もつられて夜空の方を見た。
「ですね」
「早いよな」
村瀬は苦笑する。
「今週、何してたかもう曖昧だわ」
その言葉に、水瀬は少しだけ笑った。
「自分もです。
今日が金曜って言われても、あんまりピンと来なくて」
「まあ、そうなるよな」
村瀬は頷く。
「この案件やってると、曜日より“何時に帰れるか”の方が大事になるし」
水瀬は、その言葉に妙に納得した。
たしかに、そうだった。
何曜日か。
平日か、休日か。
そんなことより、今日の終わりが何時になるのかの方が、今はずっと現実だった。
そのとき、次のタクシーが来た。
村瀬が手を上げる。
車が止まる。
「お疲れ。また明日な」
「お疲れ様です」
水瀬は軽く頭を下げて、タクシーに乗り込んだ。
ドアが閉まる。
車が静かに走り出す。
一人になると、車内は急に広く感じた。
水瀬はシートに体を預ける。
背中が沈む。
ふっと力が抜ける。
前より、この瞬間に慣れてきている気がした。
タクシーに乗る。
行き先を告げる。
静かに運ばれる。
その一連の流れが、少しずつ当たり前になり始めている。
それが、一番まずいのかもしれない。
そんなことを思いながらも、眠気の方が強かった。
窓の外の夜道が流れていく。
見慣れたはずの街なのに、どこか現実感が薄い。
金曜の夜のはずだった。
でも、もう土曜の深夜だ。
週末という言葉が、頭の中で意味を失っていく。
金曜日だから嬉しい、とか。
土曜日だから休み、とか。
そういう感覚が、少しずつ剥がれ落ちている気がした。
気づけば、帰る時間の方が先に頭へ浮かぶようになっていた。
何曜日かより、今日何時に帰れるか。
明日何時に来るか。
そういうことで、一日が区切られる。
タクシーが止まる。
「着きましたよ」
運転手の声で、水瀬は我に返った。
「ありがとうございます」
車を降りると、外の空気は思っていたより冷たかった。
アパートの階段を上る。
玄関を開ける。
暗い部屋。
脱ぎっぱなしの服。
机の上には、飲みかけのペットボトルと昨日のままのコンビニ袋。
数日前なら、こういう光景にもっと違和感があったはずだった。
けれど今は、ただ静かに部屋へ戻った、という感覚しかない。
時計を見る。
三時だった。
水瀬は靴を脱ぎ、壁に手をつきながら小さく息を吐いた。
三時に家に着く。
それだけ聞けば十分おかしい。
でも、そのおかしさに少しずつ慣れ始めている自分がいた。
そのことに気づいて、水瀬はほんの少しだけ目を閉じる。
疲れている。
頭も回っていない。
それでも、明日もまた出社する。
その事実を、もう前ほど強く拒まなくなっている。
ベッドに倒れ込む。
布団の感触が、やけにやわらかかった。
金曜の夜が終わっても、週末は始まらない。
水瀬はそのことを、少しずつ当たり前のこととして受け入れ始めていた。




