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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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21/22

初めての休日出勤

 昨日、村瀬に言われた言葉が、まだ頭の奥に残っていた。

 ――本当の意味での戦いは、ここからだ。

 その意味を、水瀬はまだ半分も理解できていなかったのかもしれない。

 だが、少なくとも一つだけは分かっていた。

 今日は、休日だということだ。


 昨日の会議が終わったあと、高橋と村瀬から「休日出勤はできるか」と聞かれた。

 正直、少しだけ迷った。

 本当なら、一人でだらだら寝て、ここ数日の疲れをまとめて回収したい日だった。

 とはいえ、彼女がいるわけでもない。

 休日らしい予定が入っているわけでもなかった。

 だから、水瀬は「大丈夫です」と答えた。

 黒川も同じだったようで、その場で二人とも休日出勤することが決まった。


 水瀬は、いつものスーツではなく、無地のパーカーに黒いパンツというラフな格好で会社へ来ていた。

 休日出勤だから、服装は自由でいいと村瀬に言われていたからだ。

 それでも、会社のビルへ入ると少しだけ落ち着かない。

 私服のまま仕事をするというだけで、同じ場所のはずなのに、いつもの出勤とは違う場所に来たような気がした。


 オフィスは静かだった。

 平日とは違い、人の気配がない。

 照明も必要な場所だけが淡く灯っている。

 その静けさの中で、水瀬と黒川は並んで座っていた。

 モニターにはクラウドの管理画面。

 黒川がマウスを動かすたびに、画面の中で環境が少しずつ形になっていく。

「サーバは作れたから、構築をよろしく。」

 そう言い、黒川はネットワークの構築へと進んだ。

 水瀬は頷き、その横で、手元の資料に目を落とした。

 サーバ構築手順書。

 永井が残したものだった。

 無駄がない。

 だが、不思議と冷たさもない。

 あとから触る人のことを考えて書かれている。

 そんな印象を受けた。

(この人、すごいな……)

 自然とそう思った。

 そして、その人が今いないという現実も、同時に浮かぶ。

 水瀬は視線を画面へ戻した。

 黒川が用意したサーバに接続する。

 ここから先は、自分の役割だ。


 OSの設定。

 ミドルウェアの導入。

 各種パラメータの調整。


 手順書をなぞるように、ひとつずつ進めていく。

 隣では黒川が次の環境を準備している。

 迷いのない手つきだった。

 少し離れた席では、村瀬が別の画面を開いている。

 スケジュールを見ながら、別の資料を作っている。

 アプリ開発の見積もり。

 まだ始まってもいない仕事の準備が、すでに始まっていた。

 思っていたより、時間がかかった。

 手順はある。

 やることも明確だ。

 それでも、作業は遅かった。

 確認して、実行して、また確認する。

 その繰り返し。

 同じ画面を、何度も見ている気がした。

 ふと、文字がぼやける。

 まぶたが重い。

 ほんの一瞬、意識が途切れる。

 ――はっとして顔を上げた。

(……まずい)

 自分がどこまで進めたのか、一瞬分からない。

 ログを確認する。

 手順書を見直す。

 さっきの自分の動きを、後から追いかけるように辿る。

 少しずつ、思い出す。

 また作業を再開する。

 そんなことを何度も繰り返していた。

 だから、進みは遅かった。

 焦りはあった。

 だが、急げば崩れる。

 そんな予感があった。

 時計を見る。

 終電は、もう過ぎていた。

 オフィスにいるのは、自分たちだけだった。

 静かだった。

 キーボードの音と、時折鳴る通知音だけが、広いフロアに残っている。

 時間は、午前二時を回っていた。

 そのとき、村瀬が席にやってきた。

「進捗どう?」

 黒川が画面を見たまま答える。

「少し遅れてます」

 水瀬も、視線を上げた。

「……思ったより、かかってます」

 村瀬は少しだけ考えた。

 腕を組み、時計を見る。

 それから静かに言った。

「今日はここまでにしよう」

 黒川と水瀬が顔を上げる。

「今週ずっと詰まってただろ。今日は休日だしな」

 一拍。

「この状態で続けても、たぶんミスる」

 言い切る口調だった。

 そして少しだけ柔らかくなる。

「疲れてるときほど、設定ミスって増えるからさ」

 黒川が小さく頷いた。

「そうですね」

 水瀬も頷く。

 正直、限界に近かった。

 PCを閉じる。


 オフィスを出ると外は昨日より静かだった。

 オフィス街だからということもあり、人もほとんどいない。

 空気も少しだけ冷たい。

「タクシー拾うか」

 村瀬が言う。

 三人で大通りに向かい道端に立つ。

 しばらくして、ライトが近づいてきた。

 村瀬が手を上げる。

 タクシーがゆっくりと止まった。

 後部座席のドアが開く。

 村瀬が黒川を見る。

「黒川、お前から乗れ。一番遠いだろ」

 黒川は一瞬だけ遠慮するような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。

「じゃあ、お先です。お疲れ様でした」

 そう言ってタクシーに乗り込む。

 ドアが閉まる。

 車は静かに走り出し、すぐに夜の向こうへ消えていった。

 道に残ったのは、村瀬と水瀬の二人だけだった。

 少しだけ間が空く。

 さっきまで三人でいたせいか、急に静かになった気がした。

 村瀬がポケットに手を入れたまま、水瀬を見た。

「疲れたか?」

 水瀬は少しだけ笑う。

「……疲れました」

「だよな」

 村瀬も小さく笑った。

 それから少し真面目な顔になる。

「新人なのに、休日出勤やら深夜残業やら、ここまで付き合わせて悪いな」

 その言葉に、水瀬は一瞬だけ返事に迷った。

 申し訳ない、なんて村瀬が言うと思っていなかったからだ。

「いや……」

 水瀬は小さく首を振った。

「正直、きついはきついですけど」

 そこで少し言葉を探す。

「でも、自分の実力のなさはすごい分かりました」

 村瀬は黙って聞いていた。

「分からないこと、まだ全然多いですし。

 先輩たちが見えてるものが、自分には見えてない感じもあるし」

 村瀬は小さく頷く。

「うん」

「でも」

 水瀬は少しだけ前を見る。

「少しだけですけど、前よりできること増えてるかも、って思いました」

 その言葉は、自分でも少し意外だった。

 もっと情けないことを言うつもりだったのに、口から出たのはそっちだった。

 村瀬は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。

「いいじゃん」

 軽い言い方だったが、ちゃんと聞いてくれているのが分かった。

「それ、大事だぞ」

 村瀬は続ける。

「しんどいときって、自分が何もできてないように思いやすいからな」

 道路の向こうから、次のタクシーのライトが近づいてくる。

 村瀬が手を上げた。

 車が止まる。

「ほら、次お前な」

「ありがとうございます」

 水瀬は頭を下げる。

 ドアが開く。

 乗り込む前に、もう一度だけ振り返る。

「お疲れ様でした」

「おう。ゆっくり休め」

 村瀬はそう言って、軽く手を上げた。

 ドアが閉まる。

 タクシーが走り出す。

 窓の外に立つ村瀬の姿が、少しずつ遠ざかっていった。

 水瀬はシートに体を預ける。

 ようやく、全身の力が抜けた。

 疲れていた。

 でも、それだけじゃなかった。

 今日の自分は、昨日の自分より少しだけ前に進めているのかもしれない。

 そんな感覚が、体の奥にかすかに残っていた。



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