初めての休日出勤
昨日、村瀬に言われた言葉が、まだ頭の奥に残っていた。
――本当の意味での戦いは、ここからだ。
その意味を、水瀬はまだ半分も理解できていなかったのかもしれない。
だが、少なくとも一つだけは分かっていた。
今日は、休日だということだ。
昨日の会議が終わったあと、高橋と村瀬から「休日出勤はできるか」と聞かれた。
正直、少しだけ迷った。
本当なら、一人でだらだら寝て、ここ数日の疲れをまとめて回収したい日だった。
とはいえ、彼女がいるわけでもない。
休日らしい予定が入っているわけでもなかった。
だから、水瀬は「大丈夫です」と答えた。
黒川も同じだったようで、その場で二人とも休日出勤することが決まった。
水瀬は、いつものスーツではなく、無地のパーカーに黒いパンツというラフな格好で会社へ来ていた。
休日出勤だから、服装は自由でいいと村瀬に言われていたからだ。
それでも、会社のビルへ入ると少しだけ落ち着かない。
私服のまま仕事をするというだけで、同じ場所のはずなのに、いつもの出勤とは違う場所に来たような気がした。
オフィスは静かだった。
平日とは違い、人の気配がない。
照明も必要な場所だけが淡く灯っている。
その静けさの中で、水瀬と黒川は並んで座っていた。
モニターにはクラウドの管理画面。
黒川がマウスを動かすたびに、画面の中で環境が少しずつ形になっていく。
「サーバは作れたから、構築をよろしく。」
そう言い、黒川はネットワークの構築へと進んだ。
水瀬は頷き、その横で、手元の資料に目を落とした。
サーバ構築手順書。
永井が残したものだった。
無駄がない。
だが、不思議と冷たさもない。
あとから触る人のことを考えて書かれている。
そんな印象を受けた。
(この人、すごいな……)
自然とそう思った。
そして、その人が今いないという現実も、同時に浮かぶ。
水瀬は視線を画面へ戻した。
黒川が用意したサーバに接続する。
ここから先は、自分の役割だ。
OSの設定。
ミドルウェアの導入。
各種パラメータの調整。
手順書をなぞるように、ひとつずつ進めていく。
隣では黒川が次の環境を準備している。
迷いのない手つきだった。
少し離れた席では、村瀬が別の画面を開いている。
スケジュールを見ながら、別の資料を作っている。
アプリ開発の見積もり。
まだ始まってもいない仕事の準備が、すでに始まっていた。
思っていたより、時間がかかった。
手順はある。
やることも明確だ。
それでも、作業は遅かった。
確認して、実行して、また確認する。
その繰り返し。
同じ画面を、何度も見ている気がした。
ふと、文字がぼやける。
まぶたが重い。
ほんの一瞬、意識が途切れる。
――はっとして顔を上げた。
(……まずい)
自分がどこまで進めたのか、一瞬分からない。
ログを確認する。
手順書を見直す。
さっきの自分の動きを、後から追いかけるように辿る。
少しずつ、思い出す。
また作業を再開する。
そんなことを何度も繰り返していた。
だから、進みは遅かった。
焦りはあった。
だが、急げば崩れる。
そんな予感があった。
時計を見る。
終電は、もう過ぎていた。
オフィスにいるのは、自分たちだけだった。
静かだった。
キーボードの音と、時折鳴る通知音だけが、広いフロアに残っている。
時間は、午前二時を回っていた。
そのとき、村瀬が席にやってきた。
「進捗どう?」
黒川が画面を見たまま答える。
「少し遅れてます」
水瀬も、視線を上げた。
「……思ったより、かかってます」
村瀬は少しだけ考えた。
腕を組み、時計を見る。
それから静かに言った。
「今日はここまでにしよう」
黒川と水瀬が顔を上げる。
「今週ずっと詰まってただろ。今日は休日だしな」
一拍。
「この状態で続けても、たぶんミスる」
言い切る口調だった。
そして少しだけ柔らかくなる。
「疲れてるときほど、設定ミスって増えるからさ」
黒川が小さく頷いた。
「そうですね」
水瀬も頷く。
正直、限界に近かった。
PCを閉じる。
オフィスを出ると外は昨日より静かだった。
オフィス街だからということもあり、人もほとんどいない。
空気も少しだけ冷たい。
「タクシー拾うか」
村瀬が言う。
三人で大通りに向かい道端に立つ。
しばらくして、ライトが近づいてきた。
村瀬が手を上げる。
タクシーがゆっくりと止まった。
後部座席のドアが開く。
村瀬が黒川を見る。
「黒川、お前から乗れ。一番遠いだろ」
黒川は一瞬だけ遠慮するような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「じゃあ、お先です。お疲れ様でした」
そう言ってタクシーに乗り込む。
ドアが閉まる。
車は静かに走り出し、すぐに夜の向こうへ消えていった。
道に残ったのは、村瀬と水瀬の二人だけだった。
少しだけ間が空く。
さっきまで三人でいたせいか、急に静かになった気がした。
村瀬がポケットに手を入れたまま、水瀬を見た。
「疲れたか?」
水瀬は少しだけ笑う。
「……疲れました」
「だよな」
村瀬も小さく笑った。
それから少し真面目な顔になる。
「新人なのに、休日出勤やら深夜残業やら、ここまで付き合わせて悪いな」
その言葉に、水瀬は一瞬だけ返事に迷った。
申し訳ない、なんて村瀬が言うと思っていなかったからだ。
「いや……」
水瀬は小さく首を振った。
「正直、きついはきついですけど」
そこで少し言葉を探す。
「でも、自分の実力のなさはすごい分かりました」
村瀬は黙って聞いていた。
「分からないこと、まだ全然多いですし。
先輩たちが見えてるものが、自分には見えてない感じもあるし」
村瀬は小さく頷く。
「うん」
「でも」
水瀬は少しだけ前を見る。
「少しだけですけど、前よりできること増えてるかも、って思いました」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
もっと情けないことを言うつもりだったのに、口から出たのはそっちだった。
村瀬は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「いいじゃん」
軽い言い方だったが、ちゃんと聞いてくれているのが分かった。
「それ、大事だぞ」
村瀬は続ける。
「しんどいときって、自分が何もできてないように思いやすいからな」
道路の向こうから、次のタクシーのライトが近づいてくる。
村瀬が手を上げた。
車が止まる。
「ほら、次お前な」
「ありがとうございます」
水瀬は頭を下げる。
ドアが開く。
乗り込む前に、もう一度だけ振り返る。
「お疲れ様でした」
「おう。ゆっくり休め」
村瀬はそう言って、軽く手を上げた。
ドアが閉まる。
タクシーが走り出す。
窓の外に立つ村瀬の姿が、少しずつ遠ざかっていった。
水瀬はシートに体を預ける。
ようやく、全身の力が抜けた。
疲れていた。
でも、それだけじゃなかった。
今日の自分は、昨日の自分より少しだけ前に進めているのかもしれない。
そんな感覚が、体の奥にかすかに残っていた。




