案件の全容
翌朝。
会社のエントランスを抜けた瞬間、少しだけ現実に引き戻された気がした。
昨日までの空気が、まだ体の奥に残っている。
眠気も疲労も、完全には抜けていない。
それでも、足は止まらなかった。
今日は先方との打ち合わせがある。
昨日まとめた検証結果。
そして、それを整理した報告資料。
あの場で何を言われるかで、この案件の方向が決まる。
水瀬はエレベーターに乗り込み、静かに階数表示を見つめていた。
執務室に入ると、すでに黒川と村瀬が席についていた。
黒川はモニターに向かったまま、何かを確認している。
村瀬は椅子にもたれ、軽く首を回していた。
「おはよう」
水瀬が声をかける。
「おはよ」
黒川が短く返す。
村瀬も軽く手を上げた。
「資料、最終確認しとこう」
その一言で、三人とも自然にモニターへ視線を戻した。
検証結果。
グラフ。
前提条件。
どれも昨夜、何度も見直したものだ。
それでも、打ち合わせ直前になると、不思議と細かいところが気になってくる。
水瀬はページをスクロールしながら、表現を一つだけ修正した。
それ以上は触らない。
触りすぎると、逆に崩れる気がした。
しばらくして、高橋が席から立ち上がった。
「時間だな」
短くそう言う。
「会議室行こう」
三人もすぐに立ち上がる。
ノートPCを持ち、資料を開いたまま、四人で会議室へ向かった。
会議室に入り、席に着く。
村瀬がPCをテレビへ接続し、画面を映す。
黒川が接続状況を確認する。
水瀬は資料を開き、すぐに説明できる状態に整えた。
準備は整った。
だが、まだ相手はいない。
静かな時間が流れる。
やがて、村瀬がテレビ会議の接続ボタンを押した。
数秒の待機。
そして画面が切り替わる。
先方の会議室が映し出された。
「お世話になっております」
スピーカーから声が流れる。
水瀬は自然と背筋を伸ばした。
打ち合わせが、始まった。
高橋が口を開く。
「それでは、検証結果のご報告から入らせていただきます」
村瀬が資料を操作する。
画面にグラフが映し出される。
キューを用いた構成。
負荷テストの条件。
遅延が発生する分岐点。
説明は落ち着いていた。
だが、その内容は軽くない。
先方は黙って聞いている。
そして、説明が一区切りしたところで、先方の担当者が口を開いた。
「今回ご提示いただいたキューを用いた構成についてですが――」
一拍置く。
「検証結果の内容は理解いたしました」
その言葉に、水瀬はわずかに息を緩める。
だが、すぐに続きが来る。
「ただ、弊社側でもキューを用いた構成について問題がないか、改めて検討させていただきたいと考えております」
“持ち帰り”。
その一言が、空気の温度をわずかに変えた。
先方は続ける。
「そのため、一部条件については再検証をお願いできればと思います」
村瀬がすぐに頷く。
「承知しました。再検証の上、改めて結果をご提示いたします」
高橋も続ける。
「補足資料も含めて整理し、再提出させていただきます」
短いやり取りだった。
だが、その中に含まれる意味は軽くない。
“まだ確定ではない”。
それでも――
「方向性としては問題ないと考えています」
その一言で、最低限の合意は取れた。
水瀬はようやく、小さく息を吐いた。
だが、会議は続く。
「では次に、納品物とスケジュールについてですが――」
画面が切り替わる。
新しいスライド。
そこに表示されたスケジュールを見て、水瀬は思わず目を凝らした。
三ヶ月後。
納期は、変わっていない。
だが、やることは明らかに増えていた。
高橋が静かに言う。
「今回の追加要件を踏まえ、体制の見直しと費用の再調整をお願いしたいと考えています」
先方が頷く。
「増員ということですね」
「はい。現状のスコープでは、既存メンバーのみでの対応は難しいと判断しています」
短い沈黙。
だが、それはすぐに終わった。
「承知しました。見積もりをご提示いただければ検討いたします」
あっさりと了承された。
高橋が続ける。
「ありがとうございます。見積もりが確定次第、ご連絡いたします」
それで、会議は終了した。
画面が切れる。
会議室に、静けさが戻った。
数秒の空白。
村瀬が小さく息を吐く。
「……とりあえず、通ったな」
黒川も頷く。
「ですね」
水瀬も肩の力を少し抜いた。
だが、その安心は長く続かなかった。
(……あれ)
ふと、違和感が浮かぶ。
この案件のゴール。
自分は、ちゃんと理解しているのか。
水瀬は少し迷いながら口を開いた。
「すみません……一ついいですか」
「ん?」
村瀬が振り返る。
「この案件って……インフラを作れば終わり、ってわけじゃないんですか?」
一瞬の沈黙。
そして村瀬が、ああ、と小さく笑った。
「……あれ、言ってなかったっけ?」
水瀬は首を振る。
村瀬は軽く息を吐いた。
「元々さ、この案件、永井さんがメインでやる予定だったんだよ」
その名前に、水瀬は反応する。
入院して離脱した、あのベテラン社員。
「あの人、インフラもアプリも両方できるタイプでさ」
村瀬は続ける。
「だから最初から、インフラもアプリもやる前提だった」
水瀬の中で、点と点がつながる。
「アプリ開発のタイミングで増員する予定だったし、そこは計画に入ってた」
一拍置く。
「ただ、その前のインフラで無茶な要求が重なってな」
黒川が小さく言った。
「ずっと高稼働でしたもんね」
「そう」
村瀬は苦笑する。
「で、風邪引いて、肺炎で入院。ドクターストップ」
淡々とした説明だった。
だが、十分すぎるほど重かった。
「で、今はこの状態」
村瀬が肩をすくめる。
「納期は変わらない。やることは増えてる。検証で時間も食ってる」
そして、水瀬を見る。
「ここからが正念場だな」
水瀬は何も言えなかった。
知らなかった。
いや――考えていなかった。
この案件の全体像。
それが、今ようやく見えた。
(……これ、相当やばい)
部長が増員を提案した理由。
今のメンバーでは足りないという判断。
すべてが、腑に落ちた。
このプロジェクトは、もう“普通の案件”ではない。
静かに崩れかけた前提の上に、無理やり積み上げられたもの。
それでも、止まることはできない。
プロジェクトは、すでに動き出している。
そして――
本当の意味での戦いは、ここからだった。




