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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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22/22

日曜の休日出勤

 日曜日だった。

 昨日に続いての休日出勤。

 さすがに体は重かったが、不思議と昨日ほどの抵抗はなかった。

 もうそういう流れの中にいるのだと、半ば諦めのようなものがあったのかもしれない。

 水瀬は、昨日と同じように私服で会社へ来ていた。

 スーツではない。それだけで少しだけ気分は違う。

 けれど、ビルへ入り、静かなエレベーターに乗ってしまえば、結局はいつもの仕事の空気に戻っていく。

 昨日、村瀬に言われた言葉がふと思い出される。

 ――ここからが正念場だ。

 あれは、ただ気合いを入れるための言葉ではなかったのだろう。

 実際にこうして休日まで使って進めている今になって、その重さが少しずつ分かってきていた。


 執務室へ入ると、今日は部長も来ていた。

 休日のオフィスはやはり静かだ。

 人影はない。

 照明も必要な場所だけが点いていて、広いフロアが少しだけ別の場所のように見える。

 黒川がモニターの向こうで軽く手を上げた。

「おはよ」

「おはよう」

 水瀬が返すと、その少し奥で村瀬も振り向いた。

「おはよう。昨日の続き、やっていこうか」

 部長も席からこちらを見た。

「無理しすぎるなよ、と言いたいところだが、まあ今日も頼む」

 その言い方に少しだけ笑ってしまう。

 結局、今日も長くなるのだろう。

 誰も口には出さなかったが、三人とも同じことを思っていたはずだった。

 黒川がクラウドの管理画面を開く。


 ネットワーク。

 サブネット。

 サーバ。

 画面の中で、少しずつインフラの土台が形になっていく。

 永井が残してくれた構築資料は、今日も頼りになった。


 必要な設定値。

 手順。

 注意点。


 簡潔なのに、抜けがない。

 実際に手を動かしてみるほど、その凄さが分かる資料だった。

 黒川が基盤側を作り、水瀬がその上のサーバ設定を進めていく。

 昨日に比べれば流れは見えてきている。

 だが、それでも簡単ではなかった。

 ひとつ設定して、確認。

 次へ進んで、また確認。

 少し離れた席では、村瀬が別の仕事を進めている。

 スケジュールを見ながら、インフラ側の進捗を整理しつつ、今度はアプリ開発側の見積もりを作っていた。

 あの案件の全体像を聞いたあとでは、その作業ももう別世界のものには見えなかった。

 同じ案件の、別の地層。

 インフラが終われば終わり、ではない。

 その先に、もう一つ大きな山がある。

 水瀬は目の前の手順書に視線を戻した。

 今は、まず自分の手を動かすしかない。


 昼前になると、集中力が少しずつ鈍り始めた。

 設定画面を見ているはずなのに、気づけば同じ行を二回読んでいる。

 カーソルを動かしているのに、頭が追いついていない。

 そんなときだった。

 部長が席を立ち、こちらに声をかけた。

「昼、行くか」

 三人とも顔を上げる。

「苦手なものとか、食えないものはないか?」

 水瀬と黒川は顔を見合わせ、それからほぼ同時に首を振った。

「特にないです」

「自分も大丈夫です」

「そうか。じゃあ行こう」

 部長はそれだけ言って、先に歩き出した。

 村瀬も立ち上がる。

 水瀬と黒川は慌ててその後を追った。

 日曜のオフィス街は、平日の賑わいが嘘みたいに静かだった。

 人はいる。

 だが、まばらだ。

 スーツ姿の集団も、急ぎ足の会社員も、ほとんどいない。

 広い歩道だけが妙に目立って見えた。

 十分ほど歩いたところで、部長が一軒の店の前で足を止めた。

 定食屋のようだった。

 だが、よくあるチェーン店の雰囲気ではない。

 暖簾の色も落ち着いていて、店構えもどこかきちんとしている。

 水瀬は思わず黒川と顔を見合わせた。

(なんか……高そうじゃないか?)

 口には出さなかったが、たぶん黒川も同じことを思っていた。

「いらっしゃいませー」

 店の奥から、割烹着のような服を着た女性がやってきた。

 そして部長の顔を見るなり、少し笑った。

「あら、高橋さん、休日のお昼に珍しいですね。お仕事ですか?」

「そうなんだ。ちょっと忙しくてな。四人だ」

 そのやり取りが、妙に自然だった。

 初めて来た店ではない。そんな空気があった。

 女性はそのまま店内へ案内しながら、今度は村瀬に目を向けた。

「村瀬さんも久しぶりですね」

 その言葉に、水瀬は少し驚く。

 村瀬も知っているということは、この店に来るのは部長だけではないらしい。

 女性はさらに、水瀬と黒川を見た。

「そちらは若そうだから、新人さんかしら?」

 二人とも少しだけ身構えたように、小さく頷いた。

「メニューが決まったら呼んでくださいね」

 そう言って、女性は厨房の奥へ引っ込んでいった。

 席に着くと、部長が言った。

「ここはアジフライが有名でな。平日は行列ができるくらい人気なんだ。夜は居酒屋もやってるから、ちょくちょく来てる」

 そう言いながら、もう何を頼むか決まっている顔をしている。

「値段は気にするな。俺の奢りだ。遠慮せず食べたいもの頼め」

 その言葉に、少しだけ気が楽になる。

 ――が、メニューを開いた瞬間、水瀬は別の意味で固まった。

(高い)

 いつもの昼食の、二倍か三倍はする。

 ファミレスやファーストフードに慣れた感覚だと、一瞬ためらう値段だった。

 黒川もメニューを見たまま、少しだけ目を細めている。

「私はいつものアジフライ定食でいいかな」

 村瀬が言った。

 部長も当然のように頷く。

 いろいろ気になった。

 焼き魚も、刺身も、煮付けも美味しそうだった。

 だが、結局水瀬も黒川も、アジフライ定食を頼んだ。

 注文を終えたところで、部長がふっと口元を緩める。

「今の案件が落ち着いたら、一度みんなで打ち上げに来ようか」

「いいですね」

 村瀬が答える。

 水瀬はその会話を聞きながら、少しだけ気持ちが明るくなるのを感じた。

 飲み会は、嫌いではなかった。

 新人歓迎会のときも、色々な人の話が聞けて面白かった。

 仕事中とは違う顔が見えるのも、なんだか好きだった。


 ふと、社内研修のときの講師との雑談を思い出す。

 最近は、飲みニケーションが減ってしまった。

 少し寂しい。

 そんな話をしていた。

 仕事は成果が出ればいい、という考え方も分かる。

 けれど、同じ会社で、同じチームで働くなら、その人となりを知っていた方がやりやすさは全然違う。

 どんな縁が、あとで役に立つか分からない。

 業界は狭い。

 昔一緒に働いた人が、数年後には別の会社の面接官をしていることもある。

 だから、色んな人と仲良くしておけ。

 そんな話だった。


 新人歓迎会のとき、部長はいなかった。

 出張で不在だったからだ。

 だからこそ、こうして一緒に店へ来られたことが、少しだけ楽しみに感じられた。

 運ばれてきたアジフライ定食は、想像以上だった。

 箸で持ち上げた瞬間、衣がさくっと音を立てる。

 重たすぎず、薄すぎもしない、絶妙な衣だった。

 口に入れると、外は軽く香ばしく、中はふわっと柔らかい。

 魚の香りがきちんと残っているのに、油の重たさは感じない。

 そこに店のソースをつけると、少し甘めの味がちょうどよく重なった。

 アジの塩気を邪魔せず、むしろ引き立てている。

 水瀬は思わず言った。

「めちゃくちゃ美味しいです」

 部長は嬉しそうに笑った。

「そうだろう。ここのアジフライは最高なんだ」

 そう言って、自分も満足そうに箸を進める。

 四人とも、思っていたよりずっと早く食べ終えた。

 会計は当然、部長が支払ってくれた。

「ありがとうございました」

 店の女性が言う。

「ご馳走さま。いつも美味いな。また来る」

 部長がそう返す。

 三人も揃って頭を下げた。

「ごちそうさまでした」

 店を出たあとも、口の中にはアジとソースの余韻が残っていた。

 疲れ切っていたはずなのに、少しだけ体が軽くなった気がした。


 午後の作業は、午前中よりも少し進んだ。

 だが順調、とは言い切れなかった。

 夕方、水瀬の作業が一段落したところで、黒川の進みが少し遅れていることが分かり、手伝いに入ることになった。

 黒川の画面越しに何度も見ていた設定画面。

 だが、いざ自分で触ると、どこをどう設定すればいいのか分からない。

 見慣れない横文字。

 似たような項目。

 手順書の通りに進めていても、時々違う画面が出る。

 そのたびに手が止まり、調べる。

 また進める。

 そして、また止まる。

 手順通りに進めているはずなのに、この設定で本当に合っているのか判断ができない。

 その感覚が、じわじわと焦りを生んだ。

 気づけば、また時間だけが過ぎていく。

 時計を見ると、もう午前一時を回っていた。

 そのとき、村瀬が席にやってきた。

「今日はここまでにしよう」

 黒川が画面から顔を上げる。

「もうですか?」

「明日、月曜だからな。今日は早めに帰ろう」

 その言い方に、水瀬は少しだけ笑いそうになった。

 もう十分遅い。だが、この一週間の感覚では、それでも“早め”なのかもしれなかった。

 部長はまだフロアに残っていた。

 三人が帰る準備を始めると、席から声をかける。

「気をつけて帰れよ」

「お先に失礼します」

 三人はフロアを出た。

 昨日と同じように、オフィスの外は静かだった。

 そして今日もまた、道端でタクシーを拾う。

 ドアが開き、水瀬は後部座席に滑り込む。

 行き先を告げる。

 車がゆっくり走り出す。

 窓の外の街は静かで、どこか眠っているようだった。

 水瀬はシートに体を預けながら、ふと思った。

(アジフライ、美味しかったな……)

 頭に浮かんだのは、結局それだった。

 サーバも、設定も、見積もりも、全部疲れる話ばかりだったのに、最後に残っているのは昼の味だった。

 そのことが少し可笑しくて、水瀬は目を閉じた。

 タクシーは、静かに夜の街を走っていく。

 日曜が、もう終わろうとしていた。


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