限界の眠気
メールを送信したあとだった。
キーボードから手を離した瞬間、ふっと力が抜けた。
それまで張りつめていた糸が、どこかで切れたような感覚だった。
画面の文字が、わずかに揺れて見える。
水瀬は目をこすった。
まぶたが、重い。
昨夜はほとんど寝ていない。
その前の日も、まともに眠ったとは言い難い。
ここまで何とか動いていた体が、急に「もういいだろ」と言い始めたようだった。
「……ちょっと休憩スペース行ってきます」
椅子から立ち上がりながら言う。
黒川がモニター越しにこちらを見る。
「おう」
村瀬は画面を見たまま、軽く手を振った。
「コーヒーでも飲んでこい」
水瀬は軽く頭を下げ、執務室を出た。
廊下は静かだった。
夜と朝の境目のような、妙に曖昧な時間帯。
人の気配もない。
休憩スペースの自販機だけが、やけに明るかった。
コーヒーを買う。
缶を手に取り、椅子に腰を下ろす。
プシュ、と缶を開ける音が、妙に大きく響いた。
一口飲む。
苦味が、ぼんやりした頭の奥にゆっくり広がる。
少しだけ、意識が戻る。
……はずだった。
だが数分もしないうちに、まぶたがまた重くなってきた。
頭がゆっくり前に傾く。
ほんの少しだけ、目を閉じるつもりだった。
――気がつくと、周りがざわざわしていた。
誰かの笑い声。
自販機のボタンを押す音。
何人かの社員が話しながら飲み物を選んでいる。
水瀬はゆっくり顔を上げた。
休憩スペースには、出社してきたばかりらしい社員が数人いた。
腕時計を見る。
「……え」
休憩スペースに来てから、一時間経っていた。
体を起こす。
急に焦りが湧いてくる。
「やば……」
椅子から立ち上がり、慌てて執務室へ戻った。
ドアを開ける。
執務室には何人か出社しており、少しの物音が聞こえるが、静かだった。
黒川は机に突っ伏して寝ている。
村瀬は椅子に座ったまま腕を組み、目を閉じていた。
水瀬が椅子に腰を下ろした瞬間。
村瀬が顔を上げた。
「お、戻ってきたな」
目は開いているが、まだ少し眠そうだった。
「戻り遅いからさ」
村瀬は軽く首を回した。
「休憩スペース見に行ったら寝てた」
水瀬は苦笑する。
「……すみません」
「まあいいよ」
村瀬は黒川の方を見る。
「黒川にも、始業時間まで休憩にしようって言っといた」
時計を確認する。
「あと三十分くらいある」
水瀬の方を見た。
「もうちょい寝ててもいいぞ」
その言葉は、思っていたよりありがたかった。
「……少し寝たら、だいぶ楽になりました」
「ならよかった」
村瀬は椅子にもたれた。
水瀬は体を軽く伸ばす。
頭はまだ重いが、さっきよりは動く。
「……コンビニ行ってきます」
ふと思い立って言った。
村瀬が片目を開ける。
「おう」
ビルの一階にあるコンビニへ向かうために執務室をでた。
店内は朝の空気だった。
パン。
おにぎり。
カップ麺。
棚を見ながら、水瀬はぼんやり考える。
体は疲れている。
頭も、当然いつもより鈍い。
何を食べるのが正解なのか、少し迷う。
そのときだった。
「俺たちもきた」
振り向くと、黒川だった。
その後ろに村瀬もいる。
「腹減ったな」
黒川ががっつり系の弁当を持ちながら話し始める
すると村瀬が
「お腹いっぱいになると眠くなるから、ほどほどにな」
と、レジへ向かいながら言った。
そう言いながら、カゴにはがっつり系の弁当とエナジードリンクが入っていた。
水瀬は一瞬ツッコミかけた。
(それ、ほどほどじゃないだろ……)
だがそのとき、黒川がぽつりと言った。
「……流石に二日連続の徹夜はきついな」
レジ前で肩を回す。
「昨日は帰ったら寝た?」
水瀬は笑った。
「爆睡だったよ」
「俺も」
黒川は短く言った。
朝食と飲み物を買い、三人はエレベーターに乗り、執務室へ戻った。
席に着いたタイミングで、部長が現れた。
「状況どう?」
短い確認だった。
「会議室行こう」
三人は席を立つ。
会議室。
村瀬が状況を説明する。
キューを使った構成。
DB更新速度が遅くなる可能性。
部長は黙って聞いていた。
そのときだった。
村瀬のパソコンが通知音を鳴らした。
新着メール。
差出人は、先方だった。
村瀬がメールを開く。
本文は、思っていたより落ち着いた内容だった。
問題点は理解しました。
弊社でもシステム上問題ないか確認を取りますので、お時間をください。
ひとまず、キューを扱う方針で進めてください。
水瀬は小さく息を吐いた。
部長が口を開く。
「キューによる更新速度の遅延」
村瀬を見る。
「いつまでに検証できる?」
村瀬は腕を組んだ。
「キューからDB更新する簡易処理を作って……」
小さくつぶやく。
「更新件数増やして……」
少し考えたあと、言った。
「今日一日もらえれば、どのくらいの遅延で更新できるか検証できます」
水瀬は驚いた。
(今日一日で……?)
機能を作る。
動かす。
検証する。
本当にそこまで辿り着けるのか。
ふと黒川を見る。
黒川は腕を組み、静かに考えていた。
戸惑いはない。
きっと、もう構成は見えているのだろう。
水瀬は思う。
(これが……経験値の差ってやつか)
胸の奥に、焦りが広がった。
部長が言った。
「遅れそうだったら連絡くれ」
三人を見る。
「調整は私がやる」
静かな声だった。
だが、その言葉は思っていたより心強かった。
同時に、水瀬は悟る。
今日は帰れない。
徹夜明け。
そして、もう一日。
部長が席を立つ。
「じゃあ、進めてくれ」
ドアが閉まる。
会議室に静けさが戻る。
村瀬が小さく息を吐いた。
「……やるか」
黒川が頷く。
水瀬も頷いた。
眠気はまだ残っている。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
終わったはずの夜の続きが、
また静かに動き出していた。




