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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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14/21

破綻の気配

 席に戻ると、三人ともすぐに作業に入った。

 黒川は追加機能の資料と試算シートを並べ、村瀬は先方から送られてきたメールを開いたまま、添付資料の要点を拾っている。

 水瀬も自分の席で機能概要図を開き、追加された処理を一つずつ追い始めた。

 水瀬は資料に目を落とす。

 追加される機能は、想像していたよりも大きかった。

 既存機能に少し手を足すような話ではない。

 処理の流れそのものに、新しい枝が何本も増えている。


 画面遷移。

 外部連携。

 DB更新。


 ユーザー操作一回に紐づく処理が、見れば見るほど増えていく。

(これ、本当に“追加”で済むのか……?)

 そんな疑問が浮かぶ。

 だが、まだその時点では、どこがどう危ないのかまでは分からなかった。

 水瀬は言われた通り、まずは機能の概要を日本語で整理していく。

 どの画面から始まり、どこへ遷移し、何を登録し、何を返すのか。

 資料をそのまま読むのではなく、自分の言葉に置き換えて書き出していく。

 村瀬の言っていた通りだった。

 いきなりインフラ影響を考えようとすると手が止まるが、「何をする機能なのか」から整理していくと、少しだけ見え方が変わる。

 それでも、理解は遅い。

 昨日の徹夜の疲れが、まだ身体の奥に残っていた。

 頭は働いているつもりなのに、情報が一枚膜を隔てた向こうにあるような感覚がある。

 それでも、止まるわけにはいかなかった。

 しばらくして、隣から小さな声がした。

「……あれ?」

 黒川だった。

 ほんの独り言みたいな声だった。

 けれど、水瀬にはその一言の温度が分かった。

 何かに気づいたときの声だ。

 水瀬はそっと顔を上げる。

「どうした?」

 黒川はすぐには答えなかった。

 マウスを動かし、試算シートをスクロールし、別画面の構成図へ切り替える。

 そのあと、またメール添付の機能概要図に戻った。

「ちょっと待って」

 短くそう言って、黒川は眉間に皺を寄せる。

 水瀬は、資料を開いたまま黒川の画面を覗き込んだ。

 数字の並んだ表。試験結果。構成図。仕様資料。

 いくつもの画面を行き来しながら、黒川は何かを確かめている。

 やがて、黒川が低く呟いた。

「……昨日の前提、崩れるかも」

 水瀬は思わず聞き返した。

「崩れるって?」

 黒川は機能概要図の一部を指差した。

「この追加機能、ユーザー操作一回ごとに、この処理が増える」

「うん」

「で、そのたびに、ここのDB更新が走る」

 画面をよく見る。

 たしかに、そう見える。

 追加されたのは単なる表示処理ではない。

 裏でレコードを書き換え、別テーブルにも履歴を残し、必要なら外部へ通知する。

 一回一回は小さな処理でも、それがまとまれば重くなる。

 水瀬は尋ねた。

「それって、どのくらい増えるんだ?」

 黒川はすぐには答えなかった。

 表を見て、数字をなぞり、もう一度資料に視線を戻す。

 その沈黙が長い。

 数十秒のはずなのに、妙に長く感じた。

 ようやく黒川が口を開く。

「……単純計算でも、昨日の前提の六倍くらい」

「六倍?」

 思わず声が出た。

 黒川は視線を画面から外さないまま続ける。

「DB書き込み。

 昨日見てたのはアクセス数が増える想定だけど、今回は一回の処理の重さそのものが変わる。だから単純な1.5倍じゃ済まない」

 水瀬は自分のノートへ目を落とした。

 そこにはさっきまで整理していた追加機能の概要が並んでいる。

 その一つ一つが、急に重く見えた。


 機能が増える。

 処理が増える。

 更新が増える。


 その結果として、昨日までの試験結果が土台ごと揺らぐ。

 黒川が、ほんの少しだけ深く息を吐いた。

「……これ、今の構成だとDBが先に死ぬ」

 その言い方が、やけにあっさりしていた。

 でも、そのあっさりした言葉の方が、かえって現実味があった。

 水瀬はすぐに村瀬の方を見た。

 声をかけるより先に、村瀬の方が気づいて立ち上がる。

「どうした?」

 黒川は自分の画面を少しずらした。

「追加機能の前提で試算し直したら、DB書き込みが昨日の想定の六倍くらいになります」

「六倍?」

 村瀬の動きが止まる。

「はい。

 アクセス数そのものも増えるんですけど、それより一回の処理の中にぶら下がる更新が増えてるのがきついです」

 村瀬は黒川の画面に手をつき、しばらく黙っていた。

 その沈黙は短かったはずなのに、水瀬には妙に長く感じられた。

 黒川も何も言わない。

 ただ、マウスカーソルだけが画面の上を小さく動いている。

 やがて村瀬が言った。

「……なるほど」

 その一言で、水瀬は嫌な予感が現実に変わったのを感じた。

 村瀬は続ける。

「APは?」

「余裕なくなります。

 でも、その前にDBで詰まると思います」

「ネットワークは?」

「そこまで行く前に落ちる可能性が高いです」

 村瀬は腕を組んだ。

 軽い調子の先輩ではない。

 完全に仕事の顔だった。

 水瀬は思わず聞いた。

「これって……どうするんですか」

 自分でも情けない質問だと思った。

 でも、本当に分からなかった。

 昨日、朝までかけて試験をした。

 影響範囲と費用感を整理した。

 ようやく一次回答を送った。

 なのに、その前提がここで変わる。

 その先に何があるのか、まだ見えなかった。

 村瀬は少しだけ考えてから言った。

「前提、変えるしかないな」

 静かな声だった。

 だが、その言葉は水瀬の胸に重く落ちた。

「昨日の構成、いったん横に置く」

 黒川が苦笑する。

「また最初からですか」

「そういうこと」

 村瀬はあっさり言う。

「中途半端に継ぎ足すと、後でもっと死ぬ」

 水瀬は何も言えなかった。

 昨日の徹夜が頭をよぎる。

 夜通しの試験。

 朝八時のメール。

 終わったと思った瞬間。

 それらが、もう“終わった作業”ではなくなっていく。

 参考にはなる。

 無駄ではない。

 たぶん、そうなのだろう。

 でも、それでも。

 昨日まで積み上げていたものが、そのまま使えないかもしれないという事実は、十分につらかった。

 村瀬は席を立つと、近くのホワイトボードを引き寄せた。

「一回、昨日までの前提を書き出そう」

 ペンを取る。

「現行構成、昨日の想定、今日増えた要件。

 どこまで使えて、どこから捨てるか切る」

 黒川も椅子を回し、ホワイトボードの方を向く。

 水瀬もノートを持って立ち上がった。

 誰も「大変だ」とは言わない。

 叫ぶ人もいない。

 怒る人もいない。

 ただ、静かに“やり直し”が始まろうとしていた。

 それが逆に、水瀬には怖かった。

 昨日まで「追加要件」だったものが、いつの間にか「作り直し」に変わっている。

 しかも、その変化を誰も大げさには言わない。

 前提だけが、静かに入れ替わる。

 水瀬はその様子を見ながら思った。

 ホワイトボードの上で、昨日までの世界と、今夜からの世界が並び始める。

 まだ破綻は確定していない。

 だが、その気配ははっきりと広がっていた。

 水瀬は、ただ忙しいだけとは少し違うものが、ここにはあるのかもしれないと思った。

 それが何なのか、まだうまく言葉にはできない。

 けれど、これはまだ入口に過ぎないのかもしれなかった。


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