要件追加はよくあること
村瀬の待つ会議室に入ると、空気は思っていたより静かだった。
叱責の場のような重苦しさではない。
だが、だからといって安心できる雰囲気でもない。
机の上にはノートPCが三台並び、村瀬はすでに画面を開いていた。
黒川は席に着くなり、メールをもう一度確認している。
水瀬も椅子に腰を下ろした。
「メール、見た?」
村瀬が確認するように言う。
「見ました」
水瀬が答えると、黒川も短く頷いた。
「見ました。……けど、これ要件追加の内容ですよね」
黒川がそう言うと、村瀬は特に驚く様子もなく答えた。
「要件追加はよくあるよ。そんなに変なことじゃない」
水瀬はその言葉を聞いて、少し意外に思った。
(そういうものなのか……)
会議で言われた内容に沿って構成を組み、議事録も残し、その通りに進める。
それが仕事というものだと思っていた。
先方だって、それを分かった上で話しているはずだ。
それなのに、ここでまた前提が変わる。
しかも小さな修正ではない。ほとんど一から見直しに近い。
(結構あるってことなのか……こういうの)
そのとき、水瀬の頭にふと昔の記憶がよみがえった。
まだ大学二年生の頃だった。
同じ高校の先輩が、就職アドバイスのために大学へ来てくれたことがあった。
先輩は一足先に社会人になっていて、しかも水瀬と同じIT業界に勤めていた。
その姿は、当時の水瀬にはとても大人に見えた。
スーツ姿も板についていて、話し方も落ち着いている。
ただ、同時に少しやつれているようにも見えた。
そのとき、同席していた同級生の一人が先輩に質問した。
「社会人になって、大変だったことって何ですか?」
先輩は少し考えてから答えた。
生活が大きく変わること。
学生の頃のように自分のペースだけでは動けないこと。
覚えることが多いこと。
そして――残業が多いこと。
話題は自然と仕事の現場の話になっていった。
その中で、先輩はこんなことを言っていた。
「スケジュール通りに作ってるとさ、仕様変更したいって先方から言われることが結構あるんだよね」
当時の水瀬には、その重さがあまり分からなかった。
仕様変更と言われても、学生の課題で先生から
「ここ直して」と言われる程度のものだと思っていたからだ。
少し修正して出し直せばいい。
そのくらいの感覚だった。
だが先輩は苦笑しながら続けた。
「そのたびに作り直しとか修正が出るんだよ。
でも受注してる以上、納期は変わらない」
そして少し真面目な顔で言った。
「だから予定通りにいかなくなることって結構ある。
仕様変更でスケジュールが崩れて、残業が増えるんだ」
当時の水瀬は、なんとなく頷いていた。
分かったつもりでいたが、本当は分かっていなかった。
いまなら、その意味が少し分かる。
あのとき先輩が言っていたのは、こういうことだったのかと。
「水瀬、大丈夫か?」
村瀬の声で、水瀬ははっと我に返った。
「あ、すみません。大丈夫です。ちょっとぼーっとしてました」
村瀬は苦笑する。
「まあ無理もないよな」
椅子にもたれながら肩をすくめた。
「徹夜明けで、あんまり寝てない状態で呼ばれてるんだ。
新人だし、慣れないこと多すぎるだろ」
その言葉に、水瀬の肩の力が少し抜けた。
「無理だったら言うんだぞ」
「はい」
水瀬は小さく頷いた。
「じゃあ早速だけど、作業を手分けしてやろう」
村瀬はホワイトボードにペンを走らせた。
①追加機能の概要整理
②処理増加ポイントの洗い出し
③インフラ影響の仮整理
「黒川は、追加された機能から想定されるアクセス数の再計算」
「了解です」
「昨日の試験結果は一回置いて、どこで負荷が集中するか見直してほしい」
黒川はすぐにPCを開き、資料を確認し始めた。
次に村瀬は水瀬の方を向いた。
「水瀬は、追加機能の資料を読み込んで現行構成への影響を洗い出してくれ」
「影響、ですか」
「うん。
DB書き込みが増えるとか、外部連携が増えるとか、
“増えそうな処理”をまず言葉にしていこう」
水瀬は少し迷ってから言った。
「これって……どこから見ればいいですか?」
村瀬は一瞬きょとんとしたあと、苦笑した。
「あー、ごめん。まだ新人だったな」
悪意はない。
ただ現場の速度で話してしまっただけだった。
「そしたら、まずは追加機能の内容を日本語で整理しよう」
ホワイトボードを指差す。
「いきなり影響分析しなくていい。
まずは“何が増える機能なのか”を言葉にしていく」
水瀬はホワイトボードを見ながら頷いた。
なるほど、いきなりシステム影響を考えるのではなく、
まずは機能を言葉として整理する。
村瀬は水瀬の表情を見て続けた。
「最初から細かいところに入ると迷うからさ。
まずは全体像だけ押さえよう」
「分かりました」
黒川はすでに資料を開き、ログと試験結果を並べ始めていた。
その手の速さを見ると焦る。
だが焦っても意味はない。
水瀬は添付資料を開き、機能概要図をもう一度見た。
箱。矢印。処理の流れ。
今度は、さっきより落ち着いて見える。
これは何をする機能なのか。
どの処理が増えるのか。
どこに負荷が集まりそうか。
一つずつ言葉にしていく。
「今日は、多分長くなる」
村瀬が最後に言った。
「詰まったらすぐ言え。
抱えたまま止まるのが一番まずい」
二人は頷いた。
会議室を出る。
執務室に戻ると、オフィスの空気はもう完全に「帰る時間」だった。
席を立つ人。
パソコンを閉じる音。
廊下へ向かう足音。
けれど自分たちだけは違う。
これから仕事が始まる。
窓の外はすっかり夜なのに、
自分たちだけが朝みたいな感覚だった。
席に座り、PCを開く。
昨日の徹夜の疲れはまだ身体の奥に残っていた。
それでも画面には、新しい仕様書が並んでいる。
マウスを動かし、資料を開く。
黒川はすでにログを並べていた。
村瀬はメールを書き始めている。
誰も「大変だ」とは言わない。
ただ作業が始まる。
静かに、デスマーチは動き出していた。




