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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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12/28

再び始まる夜

 電話の音で目が覚めた。

 どこか遠くで鳴っている気がして、最初は夢の続きだと思った。

 だが、枕元を手探りした指先にスマホの冷たい感触が触れた瞬間、それが現実だと分かる。

 着信は、ちょうどそこで止まった。

 水瀬は薄く目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。

 体が重い。頭も重い。喉が乾いている。

 布団の中の空気だけが妙にぬるかった。

(……何時だ)

 上体を起こして時計を見る。


 十八時。


 カーテンの隙間から差し込む外の光は、もう夕方というより夜の入口だった。

 朝まで会社にいて、そのまま帰って、風呂に入って、布団に倒れ込んだ。

 そこまでは覚えている。

(寝落ちしたのか)

 スマホを開く。

 通知がいくつも並んでいる。

 その中に、見慣れた表示が目に入った。


 会社 着信履歴:10件


「……え?」

 声が漏れた瞬間、スマホが再び震えた。

 着信。

 画面には、また会社の文字。

 水瀬は慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし」

『あ、出た』

 村瀬の声だった。

『よかったー、出てくれて』

 その声音には、あからさまな焦りはない。

 けれど、余裕もなかった。

『徹夜明けで悪いんだけどさ』

 一拍置いてから、村瀬は続ける。

『一回、出社してくれないかな』

 水瀬の頭が一瞬だけ真っ白になる。

「……今からですか?」

『うん』

 村瀬はあっさり言った。

『先方から追加の要件が来ててさ。ちょっとヤバそうなんだよね』

 昨日の朝、ようやく送ったメールが頭をよぎる。

 影響範囲。費用感。朝までかけて整理した内容。

(……もう来たのか)

『黒川も向かってると思う』

 村瀬が言う。

『とりあえず集まろう。話はそこからで』

 水瀬はしばらく黙った。

 黙っていても状況が軽くなるわけではないと分かっていても、すぐには返事が出なかった。

 胸の奥に、寝る前には感じなかった種類の疲れが戻ってくる。

「……分かりました。向かいます」

『助かる』

 通話が切れる。

 スマホを握ったまま、水瀬はしばらく動けなかった。

 昨日あれだけやったのに。

 ようやく一息つけると思ったのに。

 そんな言葉が頭の中に浮かぶ。

 だが、浮かんだところで意味はない。

 水瀬はゆっくり立ち上がった。

 眠い目をこすりながら、椅子にかけてあったスーツに袖を通す。

 ネクタイは後でいい。結ぶ気力がない。とりあえず鞄に押し込んだ。

 部屋の空気は静かで、まだ仕事の気配がしていない。

 なのに、自分だけがもうそこへ引き戻されている。


 電車は通勤ラッシュで混んでいた。

 いつもと同じ時間帯のはずなのに、見える景色が少し違う。

 いつも自分が降りる駅では、今日は逆に人が押し寄せるように乗ってくる。

 普段なら人が増える駅で、今日は逆に降りる人の方が多い。

 まるで朝の通勤を、巻き戻しながら見ているようだった。

 つり革を握る手に力が入らない。

 眠気が残っているのか、頭がまだ完全には起きていない。

 窓の外では、街の灯りが一つずつ増えていく。

 会社へ向かっているのに、感覚としては夜へ潜っていくみたいだった。


 最寄り駅に着くと、水瀬はそのままコンビニへ入った。

 明るすぎる店内の光が、少しだけ目に刺さる。

(多分、今日も遅くなるんだろうな)

 そう思うと、手に取るものは自然と決まっていった。


 弁当。

 おにぎり。

 ペットボトルのお茶。

 そして、エナジードリンク。


 必要なものだけを選んだつもりなのに、籠の中身が妙に“長期戦”っぽいことに気づいて苦笑する。

 レジに並んだとき、前に見覚えのある背中があった。

 黒川だった。

 少し猫背気味で、袋を片手に持っている。

 水瀬は先に会計を済ませて店を出ていくその背中を見送り、急いで支払いを終えた。

 自動ドアを抜けたところで声をかける。

「おつかれ!」

 黒川が振り返る。

 顔を見た瞬間、水瀬は思わず笑った。

「黒川、やつれたな」

 黒川も口元だけで笑う。

「水瀬だって」

 二人とも、そこで少しだけ和んだ。

 笑う余裕があるのかないのか、自分たちでもよく分からない。

「電話きた?」

「村瀬さんから」

「俺も」

 それだけで十分だった。

 状況はだいたい察せる。

 二人は並んで会社へ向かった。


 朝、帰るときは出社する人たちの流れに逆らうように歩いた。

 今もまた同じだ。違うのは、昼ではなく夜へ向かっていることだけだった。

 会社から出ていく人たちの流れの中を、自分たちだけが逆向きに進んでいく。

 昼夜が反転しているような感覚があった。

 ビルに入り、エレベーターに乗る。

 中には、これから帰るらしいスーツ姿の人が何人かいた。誰も喋らない。疲れた顔だけが、ぼんやり鏡に映っている。

 ようやく執務室へ入ると、村瀬がすぐに気づいた。

「お、二人とも来たな」

 椅子に座ったまま手を上げる。

 声は軽いが、表情は仕事の顔だった。

「まずは先方のメール見てくれ。そのあと会議しよう」

 水瀬は席に座り、PCを開いた。

 電源ボタンを押し、起動を待つ。

 昨日までは何とも思わなかったその数十秒が、今日は妙に長い。

 メールを開く。

 未読の一番上。先方の名前。

 クリックする。

 最初の数行は、普通だった。


 暫定回答ありがとうございました。

 迅速なご対応に感謝いたします。


 そこまではいい。

 問題は、その先だった。


 弊社が予定している機能に、大規模な機能が追加される見込みになりました。

 仕様としては、添付の資料をご覧ください。


 水瀬はスクロールを止め、添付ファイルを開いた。

 表示されたのは、機能概要図だった。

 箱。矢印。処理の流れ。連携先。

 図としては整理されている。だが、目で追った瞬間に分かった。

(これ……)

 水瀬は息を止める。

 これは、単純なスケールアップやスケールアウトだけでは太刀打ちできなそうだ。

 そもそもの構成や考え方から見直しが必要になる気配がある。

 昨日までの前提が、また消えた。

 水瀬は画面から目を離した。

 隣を見る。

 黒川も、ちょうどこちらを向いていた。

 二人は目を合わせる。

 言葉は出なかった。

 でも、思っていることは多分同じだった。

 水瀬は小さく息を吐く。

「……行くか」

 黒川が頷く。

「行こう」

 二人は席を立った。

 村瀬の待つ会議室へ向かう。

 また、長い夜が始まりそうだった。


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