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【書籍化・コミカライズ連載中】婚約破棄からの溺愛生活  作者: 彩戸ゆめ
竜帝国の新生活は試練がいっぱい

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第68話 アキテーヌの神力

 宮殿の庭に出ると、澄んだ空気が頬を撫でた。


 空を見上げれば、浮島がゆっくりと、しかし確実に落下しているのが見える。

 あの巨大な島が、このまま帝都に激突すれば……。


 胸の奥が、ひやりと冷える。


 この街には、何万もの人が暮らしている。

 笑い声も、泣き声も、日々の小さな幸せもある。


 それが空から落ちる石と瓦礫で一瞬にして消えるかもしれないなんて……想像するだけで、息が詰まった。


 私の手は、いつの間にかシリウスの袖を握りしめていた。


「ティアナ」


 呼ばれて顔を上げると、紫の瞳が真っ直ぐに私を捉えていた。

 恐れを押し潰す強さと、私を守る優しさ。その両方が混ざった瞳。


「今から竜化する。驚いても、無理に平静を装わなくていい」


 竜化。


 その言葉は知っていた。

 伝承でも歴史でも、竜人の真の姿として語られるもの。けれど、目の前で見るのは初めてだ。


 私は小さく頷いた。喉が乾いているのが分かる。


 それでも不思議と、恐怖はなかった。


 この人が、私を抱きしめてくれた腕が、嘘ではないと知っているから。

 あの銀の髪と紫の瞳の奥にあるものが、私を傷つけないと知っているから。


 シリウスが一歩、庭の中央へ進んだ。


 周囲の近衛たちが距離を取る。シャロンとアイリーンは息を呑み、アダムはただじっと見守っている。


 空が近い。

 風が強い。


 その風が、まるで始まりを告げるみたいに、庭の木々の葉をざわめかせた。


 シリウスはゆっくりと息を吸い、吐いた。


 次の瞬間、彼の身体から、目に見えない圧が波のように広がった。


 熱い。

 でも焼けるようではない。思わず震えてしまうくらいの力が、空気に溶け出していく。


 光が走った。

 銀色の髪が、白い閃光にほどけるように舞い上がる。


 骨格がきしむ音がした気がした。衣擦れではない、もっと根源的な音。

 彼の背から、巨大な影が立ち上がる。


 私は息を呑んだ。


 ――竜だ。


 庭に立っているのは、銀色の竜だった。


 月光を固めて形にしたような鱗が、ひとつひとつ光を含んでいる。鋭い爪と、天を裂くような翼。けれどその姿は恐ろしさよりも、圧倒的な美しさをまとっていた。


 銀の竜の目が、私を見た。

 紫。

 人の姿の時と同じ色が、そこにある。


 だから私は、怖くなかった。

 どちらかというと、胸が熱くなった。この人のすべてを、私は今、見ているのだと、そう思って。


「ティアナ」


 声は、低く深く響いた。喉の奥から鳴るような声なのに、私の耳には優しい。


 銀の竜が、ゆっくりと前肢を差し出した。

 その掌は、私を抱えられるほど大きい。爪は鋭いのに、動きは恐ろしく丁寧だった。


 私はためらわずに、その掌へ足を乗せた。

 硬い鱗は思ったほど冷たくはなかった。ほんのりと温かい気がする。


 そして私は、掌中の珠のように、ゆっくりと慎重に、竜の手に包まれていく。

 その安心感に、こわばっていた体の力が抜ける。


「行くぞ」


 銀の竜が翼を広げた。

 風が爆ぜ、庭の木々が大きく揺れる。


 次の瞬間、浮遊感が腹の底を突き抜け、私は空へ引き上げられた。


 高い。

 でも、怖いはずなのに、怖くない。


 シリウスの手のひらが、揺れを吸収するように支えてくれるのが分かる。指先が、私を囲って風から守ってくれている。


 眼下に、帝都イグドラシルが広がった。


 三方の山々に抱かれた白い都。屋根の青、壁の白、針葉樹の深緑。人々の営みが小さな光として瞬く。


 そして――その上に影がある。


 浮島。


 近づくほど、その巨大さが現実になる。


 浮島はただの岩塊ではなかった。崩れた回廊、折れた柱、空へ突き出る塔の残骸。蔦に覆われた石壁。かつて宮殿だったものが、時間に削られながらもなお、空中に形を留めている。


 生き物の気配はない。鳥の影もない。

 ただ風だけが、石の隙間を鳴らして通り過ぎていく。


 それが逆に、恐ろしいほど神々しい。


 空に取り残された城。誰も住まない、時間だけが積もった庭。石の回廊の先に、崩れかけた広場が見える。


「ここだ」


 シリウスが、浮島の庭へとゆっくりと降りていく。

 石畳の上にふわりと着地した瞬間、足の裏に冷たい感触が伝わった。


 手の平から降ろされると、風にあおられそうになった。けれども、すぐに背後から風が遮られる。シリウスが銀の翼を半分たたみ、私を守ってくれている。


「ありがとう、シリウス」


 見上げて顔を見ると、変わらない紫の瞳が優しく私を見つめていた。

 視線をめぐらすと、目の前には、石碑が立っていた。


 初代竜王の墓標。


 苔がまだらに付着しているのに、はっきりと絵が残っている。


 そこには、竜が珠を持っていた。

 大きな竜が、壊れやすい大切なものを失くさないように抱えているみたいに見える。


 まるでさっきのシリウスと私みたい。


 不意に左の薬指が熱くなる。視線を落とすと、アキテーヌの星が赤く輝いていた。


 導かれるように、アキテーヌの星を竜の珠に近づける。

 すると、胸元の守護の鱗も光り始める。


 銀と赤の記憶が、昨日の光の混ざり合いが、体の中で蘇る。


「……お願い」


 誰に言ったのか分からない言葉が、唇から漏れた。


 神様に。祖先のアキテーヌに。竜王に。

 そして――愛する私の、銀の竜に。


 私は珠に掌を当てた。

 冷たいはずなのに、触れた瞬間、石の奥から温かさが返ってきた。


 心臓が、とくんと跳ねた。


 指輪が光る。

 赤い光が、私の血管を走るみたいに掌へ流れ込む。


 それに応えるように、胸元の鱗が白銀の光を放ち、赤を包む。

 銀と赤が、混ざり合う。


 淡い薔薇色の輝きが、珠の中心に吸い込まれていった。

 そして――


 足元が、かすかに震えた。


 崩壊の前兆ではなく、何かが目覚めるかのような。


 空気が、変わった。

 重かった風が、軽くなる。


 押し下げてくる圧が、ふっと抜けていく。

 私は反射的に空を見上げた。


 浮島の縁が、僅かに、上がった。


「……上がってる……」


 声が震えた。


 石碑の珠がひときわ強く輝き、淡い光が広場全体へ広がった。

 床の亀裂が、光の筋として繋がり、遺跡の隅々まで走っていく。


 まるで古代の回廊が、一度だけ呼吸をしたかのようだ。


 浮島が、ゆっくりと、確実に浮上していった。

 落下の危機が、遠のいてゆく。


 思わず力が抜けて、膝がくだけそうになる。

 それを支えてくれたのは、竜化を解いたシリウスだった。


「よくやった、ティアナ」


 抱きしめられて、自分が震えているのに気がつく。


 怖かった。

 でも、私の力で、イグドラシルの民を救えた。


 守られるだけでなく、守ることができたのが嬉しい。


 空の城は、再び高みへ戻っていく。

 私たちは、しばらく抱き合って、その奇跡をかみしめていた。

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イラスト・小田すずか先生

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