第69話 次は(ザック視点)
山風が、頬を叩いた。
首都イグドラシルを囲む稜線は、夕方の光を受けて青く沈み、万年雪だけが白く眩しい。あの都は、いつ見ても守られているように見える。三方の山に抱かれ、空には浮島の影を戴いて。
その浮島が、今は以前よりも高い位置で静かに留まっていた。
ザックは豹たちの手綱を引き、道端で足を止めた。
風に乗って、遠くから鐘の音が聞こえる。歓声のようにも、祈りのようにも聞こえる音だ。イグドラシルはきっと、まだ騒いでいる。落下しかけた浮島が再び浮上したのだから、当然だろう。
「……つまんねぇ」
吐き捨てるように言ったのは、彼自身の胸の奥に残った薄い苛立ちへの言い訳だった。
隣で、リーラが肩をすくめる。顔には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。
「何がさ」
ザックは振り返らず、遠くの都を目で追った。
あの中心に、英雄になった女がいる。噂を利用して揺さぶり、空気を濁らせ、転ばせようとした相手が。
なのに、結局、天災すらひっくり返して見せた。
「あ~あ、せっかく噂を広げた侍女や酒場の場所をつかんだのに、生かせなかった。しかもお姫様は浮島が落ちるのを阻止したってことで英雄扱いだ」
自嘲のように言うと、リーラは鼻で笑った。
「欲をかくからだよ」
「……だな」
ザックは苦々しく口の端を上げた。
最初からほどほどで引いていれば、もっと長く遊べたかもしれない。だが、彼はいつも一歩踏み込みすぎる。手にした札があると、勝負にしたくなる。相手が揺らげば、もっと揺らしたくなる。
それが、ザックという男だ。
「次はうまくやるさ」
言いながらも、自分の声が少しだけ空回りしているのが分かった。
うまくやる――何を。誰を。いつ。
そんな次が本当にあるのかどうかすら、分からないのに。
リーラは呆れたように、けれどどこか面白がる目で彼を見た。
「次があると思ってるのかい。懲りないねぇ」
「懲りたら俺じゃないだろ」
ザックは肩越しに笑ってみせた。
だが、胸の奥で何かが引っかかっていた。
あの銀の竜。
浮島の上空を切り裂くように飛んだ影。
そして、空の城が上がる瞬間の、あの静かな圧。
あれはヤバイ。
ザックは本能的に、それを感じ取っていた。
そして、それを感じ取った時点で、彼は「一度引く」ことを選べる程度には賢い。少なくとも、今は。
ザックは手綱を引いた。馬車がきしみ、大型の黒豹たちが咆哮を上げる。
それでも……未練がましく、もう一度だけ振り返ってしまった。
イグドラシルが、遠くなっていく。
けれど、空に浮かぶ影だけははっきりしていた。
まるで都に冠を載せたような、浮島。
あそこに、彼女が立ったのだ。
アキテーヌの血を引くとはいえ、ただの人族の娘が、竜人たちの伝説の地に降り立って都を救った。
そりゃあ、英雄扱いもされるか。
確かに苛立つ。けれど同時に……。
胸に沸きそうになる感情を、気のせいだと振り切る。
「……やっぱ、面白いな」
「国が? それとも」
あの姫様かい? という言葉は続けない。リーラが言わなくても、ザックには分かるだろうから。
リーラが軽く手綱を鳴らす。
「ほら、帰るよ。ここに長居すると、面倒が増える」
「分かってる」
ザックはもう一度浮島を見ると、前を向いた。
風が背中を押す。山道の向こうに、国境へ続く道が伸びている。
次があるかどうかは分からない。
けれど――
もし次があるなら。
あの都で、もう一度、賭けをしたくなる自分がいる。
それを認めるのが悔しくて、ザックは鼻で笑い、帰国の途についた。




