第66話 まさかあなたが犯人だなんて
私は、シリウスの腕の中で目を覚ました。
体が重くて、まだ完全には意識が戻っていない。
でも、シリウスの温もりを感じて、安心した。
「……シリウス……?」
掠れた声で呼ぶと、腕の力が一瞬だけ強まった。
「起きたな。……もう大丈夫だ。絶対に、もう二度と――」
最後まで言い切れない声。怒りと安堵と後悔が混ざったような震えが、胸元から伝わってくる。私はその胸に額を寄せたまま、ゆっくり呼吸をした。
生きている。
ちゃんと、息ができる。
心臓が動いている。
ああ、良かった。愛しいこの人を一人にさせずに済んだ……。
いつの間にか、部屋には人が増えていた。侍女や近衛、それから医師。
シャロンたちは部屋の隅に固まり、テオは拘束されたままだけれど、相変わらずぼんやりとしている。
「クリスティアナ様。聞こえますか。指は動かせますか?」
医師が、私の顔を覗き込んだ。
「……はい。大丈夫、です」
自分の声が思ったよりしっかり出て、少しだけ安心した。
医師は脈を取り、瞳孔を確認する。けれどその間も、シリウスは私を離さない。私の背中に腕を回したまま、医師の手元を鋭い目で追っている。まるで医師でさえ信用できないと言わんばかりに。
「殿下、診察の妨げに――」
医師が控えめに言いかけた瞬間、シリウスの腕がほんの少しだけ緩んだ。けれど離れない。私の肩に指先が食い込むほど、まだ握りしめている。
医師は苦笑して、最小限の検査を終えた。
「後遺症は見受けられません。脈も安定していますし、心臓の動きも問題ない。しばらく安静にしていただければ、回復は早いでしょう」
私は息を吐き、シリウスの胸に頬を押し当てた。彼のいつもより速い心臓の鼓動が、私の耳に力強く響く。それが、まるで「ここにいる」と確認させてくれる。
「……ティアナ」
低い声が、髪を揺らすほど近くで響いた。
「君を失ってしまうかと思って怖かった」
たったそれだけ。なのに、胸が締め付けられる。
「……私も、少しだけ」
正直に言うと、シリウスの腕がまた強くなる。離さないという宣言のように。
それからシリウスの視線が、すっとアイリーンへ向いた。さっきまで私に注がれていた熱が、別の鋭さに変わる。
「アイリーン」
名前を呼ぶ声が、静かなのに怖い。
「さっきの質問に答えろ。君は、何かいつもと違うものをつけていないか」
「え……?」
アイリーンが目を瞬かせる。自分が責められている理由が分からない、という顔だった。
「私、ですか? そんな……いつも通りです。……あ、でも」
アイリーンはふと思い出したように、首元に指を当てた。
「侍女に『恋のお守りです』って……香水をもらって、それをつけました、けど……」
シリウスの指先が、私の背中でぴくりと動いた。
「どの侍女だ」
シリウスが訊くと、アイリーンは泣きそうな顔で名前を告げた。すると、シャロンが息を呑んだ。
「……その者、最近……クロス様とよく、外出しておりましたわ」
クロス。
アキテーヌの研究をしているあの人が? そんな、まさか。
私はシリウスの腕の中で身を固くした。
すると彼は、安心させるように私の髪に唇を寄せる。短い、触れるだけのキス。
「すぐに呼べ」
シリウスの声が、命令になった。
数刻も経たないうちに、拘束された男が部屋へ連れてこられた。
オレンジ色の髪が乱れている。手枷をつけられ肩を押さえられても、特に焦っている様子はない。
本当にこの人が、私を殺そうとしたの……?
「あ~。バレちゃったんですねぇ」
まるで実験が失敗したのを面白がるような、力の抜けた声。
その声に、私はぞっとした。人の命がかかった場で、そんなふうに笑えるなんて。
シリウスの腕が私を抱く力を増した。私は彼の胸に守られているのに、クロスの視線が私の肌をなぞるようで、気持ち悪い。
「説明しろ」
シリウスの声は低い。怒りが凍った音。
「ええ。簡単ですよ」
クロスは肩をすくめた。研究発表でも始めるみたいに、楽しげに。
「アイリーン様に渡した香水には、ちょっとした混ぜ物をしておきました。クリスティアナ様の髪と、アイリーン様の髪を混ぜて作った疑似番薬です。番の匂いに反応する相手――つまり、クリスティアナ様の番であるシリウス殿下にだけ効果が出るようにね」
私の髪。
ぞわり、と頭皮が粟立つ。
そういえば研究のためといって、髪の毛を渡したことがある。あれで疑似番薬なんていうものを作ったの?
「テオに、あのクリームを運ばせたのもお前の仕業か」
シリウスが言葉を継ぐ。
「そうそう」
クロスは軽く頷いた。
「暗示は便利でしょう。真面目で忠実な人ほど、綺麗にかかる。……副官殿は優秀ですからね。安全確認の名目で搬入できる権限まである。あれは、ちょっと感動しました」
感動?
この状況で?
私は唇を噛み、怒りで喉が震えるのを抑えた。
「目的は」
シリウスが尋ねる。短く、切り捨てるように。
「そんなに殺気を飛ばさなくても、私は番様を殺そうなんて少しも思っていませんってば。だって殺したら研究ができないじゃないですか」
「研究だと?」
クロスは、当たり前みたいに言った。
「クリスティアナ様はアキテーヌの神秘そのものだ。でも殿下の監視の元じゃ、研究するにも制限がありすぎる。だったら、仮死状態にして、治療に見せかけて連れ出して研究室に運び込めば、安心して観察できますからね」
あまりにも身勝手な言い分に、怒りを覚える。
まるで私のことを、実験動物か何かのようにしか思っていない。
シリウスの空気が、さらに冷えた。
「よくそんな杜撰な計画が成功すると思ったな」
「杜撰? ええ、確かに。でも、成功しそうだったでしょう?」
クロスは子供のように笑った。……頭はいいのかもしれないけど、人間性が壊れている。まさかこんな人だったなんて。
私は、それ以上その声を聞いていたくなくて、視線を逸らした。
窓の外の、夕方の青が薄くなる空に、浮島が見える。
あの、不思議な小島。
帝都の上にずっと浮かんでいる、古代の竜族の宮殿。
いつかシリウスと一緒に行ってみたいと思って――。
……やっぱり、おかしい。
昨日、気のせいだと思った違和感が、今、はっきり形になった。
どう見ても、浮島が下がっている。
私は息を呑んだ。
「浮島は、時期によって高さが変わるのですか?」
ぽつりと零れた私の言葉に、部屋の視線が一斉に窓へ向いた。
部屋の中に怖いほどの沈黙が満ちる。
「まさか」
誰かが低く呟き、駆ける足音が響いた。
近衛が窓辺に殺到し、シャロンが青ざめたまま口元を押さえ、アイリーンが震える声で「そんな……」と呟く。
シリウスが、私を抱きしめたまま窓を見上げた。
紫の瞳が、浮島の位置を正確に測るように細まる。
そして、その顔から、血の気が引いた。
「……落下している」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一斉にざわめいた。
今までの恐怖とは違う。帝都そのものが揺らぐ、巨大な危機の気配。
混乱が始まった。




