第65話 偽りの香り(シリウス視点)
シリウスの腕の中で、クリスティアナの身体がぐったりと力を失った。
「ティアナ……!」
頬に触れると、肌は冷たくない。熱もない。ただ、血の気が引いたような白さだけが際立っていた。
胸元に耳を寄せる。
鼓動は、ある。確かに、ある。
息がようやく胸の奥まで落ちていく。
死んでいない。
まだ、ここにいる。
「殿下!」
シャロンの悲鳴じみた声が背後から聞こえた。続いて、アイリーンが駆け寄る足音。アダムの低い怒声が、室内の空気を叩き割る。
「テオ、貴様……何をした!」
テオは、抵抗しなかった。
アダムに腕を掴まれても、まるで痛みを知らない人形のように、視線を宙に漂わせたままだ。
目の焦点が合っていない。表情がない。謝罪も、動揺も、恐れも、何ひとつ浮かばない。
明らかにおかしい。
忠誠の塊のような男だ。任務を逸脱することなど、決してしない。
ましてや、ティアナに危害を加えるなど。
「拘束しろ。今すぐだ」
シリウスが短く命じると、近衛がなだれ込んできた。
テオの両腕が背で取られ、膝をつかされる。それでも彼は、無表情のまま、何も言わない。
その光景を視界の端で捉えながら、シリウスはクリスティアナを抱き直した。
軽すぎる。竜人と比べると、骨の細さが、腕の中で痛いほど分かる。
胸の奥が焼ける。
怒りと焦りが、竜の本能を呼び覚まそうとする。だが、今ここで暴れれば、空気そのものが刃になって、彼女の肌を裂きかねない。
「医師を。今すぐに」
命じた声は自分でも驚くほど低かった。
指示した後、ふっと、別の匂いがシリウスの鼻先をかすめた。
甘く、柔らかい。それでいて、胸の奥を強く掴むような――
番の、匂い。
シリウスは息を止めた。
あり得ない。
番の匂いは、ティアナだけだ。
彼女がここにいるのに、なぜ、別の場所からそれが立ち上る?
視線が、反射的に動いた。
アイリーンが、そこにいた。
駆け寄ってきた顔は蒼白で、唇が震えている。涙が浮かびそうな目でクリスティアナを見つめ――そして、その彼女から、確かに匂いがする。
馬鹿な。
頭の中で否定が弾けるのに、身体は反応する。
竜の本能が、微かにそちらへ引かれた。胸の奥がざわつく。喉の奥が熱くなる。
理性が本能に引きずられそうになる。
――違う。
シリウスは奥歯を噛み、腕の中の温もりに意識を戻した。
ティアナだ。自分の番は、ここにいる。心臓は動いている。匂いも、肌も、鼓動も、すべてが彼女だ。
なのに、あの匂いは確かに『番』のものと似ている。
けれど、似ているだけだ。とても腹立たしいほどに。
「アイリーン」
シリウスが名を呼ぶ声は、刃のようになった。
アイリーンがはっと顔を上げる。
「殿下……?」
「……何をつけている」
一瞬、彼女が言葉を失う。
分からない、という顔だ。驚きと困惑だけが浮かび、悪意の影が見えない。
「何もつけておりません」
クリスティアナが倒れたことに関係していると疑われているのだろうかという怯えが、アイリーンの顔に浮かぶ。
疚しさは見えない。だが、それならばこの匂いはなんだ。
番を求める衝動。
番を守る衝動。
その二つが、矛盾した形で同時に走る。
だが、匂いが揺らぐだけで、認識は崩れない。
シリウスは己に言い聞かせるように息を整えた。
自分は匂いに反応してしまっただけだ。
だが反応しても、選ぶのは理性だ。誓いだ。魂が結ぶものだ。
「近づくな」
言いながら、シリウスは腕の中のクリスティアナを、さらに守るように抱き込んだ。
アイリーンがびくりと身を引く。シャロンが眉をひそめ、アダムが険しい目で周囲を見回した。
その時だった。クリスティアナの胸元が、淡く光った。
白銀の光。
シリウスが渡した守護の鱗だ。
そして同時に左手から赤い光が輝く。
――アキテーヌの星。
銀と赤。
二つの光は互いを拒まず、むしろ引き寄せ合うように伸びていく。
胸元から溢れた白銀が細い糸となって彼女の指先へ流れ、指輪の紅が花弁のように広がって胸へ返る。
その交わる場所で、光は溶け合い、淡い薔薇色のきらめきへと変わった。
それと同時に、あの紛らわしい匂いが、すっと引いていく。
霧が晴れるように。
余計な音が消えるように。
残ったのは、腕の中の甘い、唯一の番の匂いだけだった。
「ティアナ……」
シリウスが名を呼ぶと、クリスティアナの睫毛が震えた。
白い瞼がわずかに持ち上がり、赤い瞳がゆっくりと焦点を結ぶ。
「……シリ……ウス……?」
掠れた声。
けれど、その一言だけで、胸の奥に溜まっていた焦燥が崩れ落ちた。
「ここにいる。大丈夫だ」
シリウスは額を寄せたい衝動を必死に抑え、彼女の肩を支えた。
指輪の光が、まだ淡く瞬いている。まるで、偽りを剥がし終えた証明のように。
誰かが、匂いでシリウスの世界を歪めた。
番の本能を、道具にしようとした。
絶対に許さない。
シリウスは静かに顔を上げた。
クリスティアナの指輪の光が、最後にひときわ強く輝き――やがて、静かに収まっていった。




