第64話 完成したリジュのクリーム
翌日、私は部屋で本を読んでいた。まだ外出は控えるようにと言われているので、退屈だけれど、仕方がない。
シャロンとアイリーンを部屋に呼んで、今日は何をしようかと考えていると、扉がノックされた。
「番様、失礼いたします」
聞き慣れた、真面目な声。
「……テオ?」
返事をすると、扉が開いた。
入ってきたのは副官のテオだった。
きちんと整えられた服、背筋の伸びた立ち姿。いつも通りのはずなのに……どうしてだろう、今日の彼は、どこか違って見えた。
なんとなく、表情が平坦というかなんというか。
テオは私に対していつも不機嫌な顔を見せることが多くて、わりと感情が表に出るほうだと思う。
なのに、アダムのように無表情。
それにわざわざ部屋に来るなんて、何かあったのかしら。
「どうしたの?」
問いかけると、テオは淡々とした声で答えた。
「新しい香りの、リジュのクリームが完成したとの報告がありました。安全確認も済んでおりますので、お届けいたします」
そう言って、彼は小さな箱を差し出した。
丁寧に包まれた、淡い色の箱。
蓋を開ける前から、ほのかな甘い香りが漏れてくる。
研究者たちに新しい香りのクリームができたら教えてほしいと頼んでいたけど、どうしてシャロンとか侍女の誰かじゃなくてテオが持ってきたのかしら。
「どうしてあなたが?」
「安全確認のため、私が最終検品と搬入の権限を持つことになりました」
テオが淡々と説明する。
副官であるテオには、王宮内の物資の最終検品と搬入の権限が与えられていた。
侍女が運べば、途中で何が混ざるか分からない。だから、最も信頼できる人物が直接持ち込み、確認することになったということだ。
「まあまあ、今度のクリームはどんな香りなんですの?」
シャロンが華やいだ声を上げる。アイリーンも興味深そうだ。
「竜香を混ぜてみたの。竜人の方たちにはなじみ深い香りだから」
私はテオから容器を受け取った。
「ありがとう」
蓋を開けると乳白色のクリームが詰められていて、表面がつややかに光っている。
香りは、いつものリジュより甘い。花の蜜のようで、けれどどこか冷たい。
私は蓋を開けようとして――
ふっと、視界が揺れた。
「……え……?」
床が遠のく。
自分の指先が、急に自分のものではなくなったように感じる。
息を吸ったはずなのに、肺に空気が入らない。
香りが、一気に濃くなった気がした。
甘い。
甘すぎる。
喉の奥が痺れて、頭の芯が白くなる。
「クリスティアナ様?」
テオの声が聞こえた気がする。
けれど、何も響かない。
言葉が、遠い。
私は椅子から立ち上がろうとした。
でも膝が笑って、力が入らない。
机の端を掴もうとして、指が滑った。
倒れる。
そう思った瞬間、視界の端に銀色が閃いた。
「ティアナ!」
シリウスの声。
すぐに、強い腕が私の身体を支えた。
落ちるはずだった体が、ふわりと抱えられる。
「ティアナ、しっかりしろ!」
シリウスの手が、私の頬に触れる。
でもその温かさを感じるより先に、意識が薄れていく。
耳の奥で、誰かが叫ぶ声がした。
「クリスティアナ様!」
震えるシャロンの声。
「クリスティアナ様……!」
悲鳴に近いアイリーンの声。
「……テオ!」
低く、怒りを含んだ声は、アダムだろうか。
さっきまで平坦だったテオの顔が、誰かに掴まれたように揺れた気がした。
けれど私は、それを確かめることもできない。
目の前が暗くなる。
最後に見えたのは、私を抱くシリウスの紫の瞳だった。
恐ろしいほど真剣で、私の名前を呼ぶ唇が動いている。
大丈夫。
私は、ここにいる。
あなたのそばに――。
そう思ったところで、私の意識はふっと、深い闇に沈んでいった。




