第63話 甘く切なく
シリウスから「しばらくは部屋から出ないで」と言われたのは、あの騒動の翌日だった。
毒入りの菓子――あの甘い香りを思い出すだけで、舌の奥がひやりとする。
食べる前に異変に気づけたのは幸運だったのに、その幸運が「次はもっと巧妙に来る」と告げているようで、胸の内が落ち着かない。
「侍女が付いている。必要なものはすべて運ばせる。私は、君の身が一番大事だ」
シリウスの紫の瞳が、真剣に私を見つめている。その眼差しに、私は何も言えなくなった。
「……分かったわ」
私は頷いた。頷くしかなかった。
部屋に閉じこもるなんて、王国にいた頃の私ならきっと嫌がったはずだ。人の目が怖くて、逃げるために閉じこもった夜が、いくつもあったから。
でも今は違う。逃げるのではなく、守るための「待つ」のだ。
とはいえ、ただ待つだけでは、心がじわじわと削れていく。
だから私は、机の上に広げた紙とインク壺に向かって、深呼吸した。
部屋の中には、柔らかい日差しと、シリウスが残していった香りがまだ薄く漂っている。
銀の匂い。冷たい雪解け水のような、清冽な香り。
竜人たちが「番の匂い」と言うものがあるのだとしたら――きっと、こんなふうに胸の奥を落ち着かせるものなのだろう。
「できることをしよう」
小さく呟いて、自分を奮い立たせる。
そうだ。ステラルージュのラベルを考えよう。
竜蜜のリキュール、ステラルージュ。シリウスと私の絆を表す、大切なお酒。
それにふさわしいラベルを作りたい。
やっぱり星をモチーフにしたデザインにしたい。
でもラベルの形は王国で見たワインの瓶のように四角くするのではなくて、ステラルージュのもっと柔らかくて、どこか夢みたいな味を表すものがいい。
私は紙の上に、丸みのある枠を描いた。
その枠の中に、赤と銀を基調にした、星の模様。
竜人の文字は角ばっていて格調高いけれど、ステラルージュという商品名は、あえて流れるように書きたい。夜空を横切る流星みたいに。
中央には、小さな星を散らす。
星の下には、赤い雫。けれど血のようにはしたくない。宝石の雫。ルビー色のきらめき。……私の赤い髪を参考に。
縁取りは銀にしよう。シリウスの銀髪と対になるような、上品な光の色。
「……うん」
自分でも少し、楽しくなってきた。
どうだろう。皆いいと言ってくれるだろうか。
シリウスに聞いても、きっと何でも肯定してくれるから参考にならなさそう。他の人にも意見を聞くべきね。
集中して描いていると、時間があっという間に過ぎていく。
ふと顔を上げると、窓の外には夕暮れの空が広がっていた。
オレンジ色に染まる空が、とても美しい。そして、その空に浮かぶ浮島が目に入る。
……あら?
私は、眉をひそめた。
浮島の位置が、いつもと違うような気がする。少し、低くなっているような……。
それとも、角度の問題かしら。
夕暮れの光の加減で、そう見えるだけなのかもしれないけど……。
立ち上がって窓の外をよく見ようと思ったけれど、ちょうどそこにノックの音が聞こえた。
「クリスティアナ、入ってもいいか?」
シリウスの声だ。
「ええ、どうぞ」
私が答えると、扉が開いてシリウスが入ってきた。
その姿を見た瞬間、胸が高鳴る。
何度見ても、シリウスは美しい。銀色の髪が、夕日を受けて輝いている。
シャラリと髪飾りが揺れて音を立てた。
「何をしていたんだ?」
シリウスが優しく尋ねる。
「ステラルージュのラベルを考えていたの」
私がデザインした紙を見せると、シリウスの目が輝いた。
「とても素敵だ」
その言葉に、頬が熱くなる。
「ありがとう」
シリウスが、私の隣に座った。
その距離の近さに、心臓が早鐘を打つ。
シリウスの体温が、すぐそばに感じられる。甘い香りが、鼻をくすぐる。
それは、シリウスだけが持つ香り。竜人特有の、どこか神秘的な香り。
しばらく二人でステラルージュのデザインを見つめていた。
静かな時間が流れる。
でも、その静けさは居心地が悪いものではなくて、むしろ心地よかった。
シリウスがそばにいるだけで、安心する。
やがて、シリウスが小さく息を吸い込んだ。
何か言おうとしているのが分かって、私はドキドキしながら彼を見た。
「クリスティアナ」
シリウスが、私の名前を呼ぶ。
でも、その声はいつもより少しだけ躊躇いがちだった。
「何かしら?」
私が尋ねると、シリウスは少し考えるような表情を浮かべた。そして、意を決したように口を開く。
「君を……もっと親しく呼びたい」
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
「親しく……?」
「ああ。クリスティアナは美しい名前だが、少し長い。もっと……もっと、近い距離で呼べる名前がいい」
シリウスの紫の瞳が、真剣に私を見つめている。その眼差しには、少しだけ不安そうな色が混ざっていた。
まるで、私に拒絶されることを恐れているかのように。
「ティアナ、と呼んでもいいだろうか」
その名前を聞いた瞬間、私の胸が熱くなった。
ティアナ。
短く、優しく、そして親密な響き。
それは、愛する人だけが呼ぶ、特別な呼び方。
「ティアナ……」
私が自分でその名前を呟くと、不思議な感覚に包まれた。
その名前は、まるで私の心に直接触れるような、そんな温かさがあった。
「もし嫌なら、無理には……」
シリウスが慌てて付け加える。その様子が、なんだか可愛らしくて、私は思わず笑みを漏らす。
「いいえ」
私は首を横に振った。
「嬉しいわ。ティアナ……素敵な響きね」
その言葉を聞いた瞬間、シリウスの表情がぱっと明るくなった。
まるで、太陽が雲間から顔を出したかのように。
「本当か?」
「ええ。あなたにそう呼んでもらえるなんて……嬉しい」
私が微笑むと、シリウスも嬉しそうに微笑んだ。
そして、もう一度、今度はもっと優しく、愛おしそうに私の名を呼んだ。
「ティアナ」
その声が、胸の奥まで染み込んでくる。
甘くて、温かくて、とても幸せで。
でも、私にも言いたいことがあった。
勇気を振り絞って、口を開く。
「あの……私も、あなたのことを……」
言葉が、途中で詰まってしまう。恥ずかしくて、顔が熱くなる。
でも、言わなければ。
「私も、もっと親しく呼びたいの」
私が小さな声で言うと、シリウスの目が驚きに見開かれた。
「君も……?」
「ええ。でも、その……敬称なしで呼ぶなんて、失礼かしらと思って……」
私がもじもじと言うと、シリウスは優しく首を横に振った。
「失礼なんかじゃない。むしろ、そう呼んでほしい」
その言葉に、私は勇気をもらった。深く息を吸い込んで、彼の名を呼ぶ。
「……シリウス」
その名前を口にした瞬間、世界が変わったような気がした。
敬称を取り払っただけなのに、なぜこんなにも距離が近くなったように感じるのだろう。
シリウスの目が、優しく細められた。その表情は愛に満ちている。
「もう一度」
シリウスが、甘く囁く。
「え……?」
「もう一度、呼んでくれないか」
その声には、切ない響きがあった。
私は、少し恥ずかしかったけれど、もう一度彼の名を呼んだ。
「シリウス」
「ああ……」
シリウスが、満足そうに息を吐いた。
「君の声で、私の名を呼ばれると……胸が熱くなる」
その言葉に、私の顔がさらに熱くなった。
恥ずかしくて、でも嬉しくて、どうしていいか分からない。
「ティアナ」
シリウスが、今度は私の名を呼んだ。
その声は、さっきよりももっと優しく、もっと愛おしそうだった。
「君は、私の番なのだから。もっと近くにいていい。もっと、心の距離を縮めていい」
シリウスの手が、私の手を取った。
温かい。
その温もりが、私の心まで温めてくれる。
「ティアナ、君を……もっと近くで感じたい」
「私も……シリウス」
その名前を呼ぶたびに、胸が甘く痛む。
こんなにも、名前を呼ぶだけで幸せな気持ちになれるなんて。
シリウスが、私を抱きしめた。
この腕の中にいれば、何も怖くない。
「愛している、ティアナ」
その言葉が、耳元で優しく響く。
私は、シリウスの胸に顔を埋めた。彼の心臓の鼓動が、耳に伝わってくる。規則正しく、力強く。
「私も……愛してるわ、シリウス」
その言葉を口にした瞬間、涙が溢れてきた。
幸せすぎて、どうしていいか分からない。
「ティアナ……泣いているのか?」
シリウスが心配そうに尋ねる。
「ううん……嬉しいの」
私が答えると、シリウスは優しく私の涙を拭ってくれた。
「君が泣くと、私の胸も痛む」
「ごめんなさい。でも、本当に嬉しくて……」
「泣かないでくれ、ティアナ。君の笑顔が見たい」
その言葉に、私は涙を拭いて、精一杯の笑顔を作った。シリウスは、その笑顔を見て、優しく微笑んだ。
「ああ、その笑顔だ。君が笑うと、世界が明るくなる」
そして、シリウスは私の額にそっとキスをした。
私たちは、そのまましばらく抱き合っていた。
窓の外では、夕日が沈んでいく。
美しい空が、私たちを包み込んでいて、私はただ、シリウスの温もりだけを感じていた。
彼の心臓の鼓動が、私の耳に聞こえる。
それは、生命の音。
愛の音。
私は、目を閉じてその音に耳を傾けた。
幸せだった。こんなに幸せでいいのだろうか、と思うほどに。
やがて、シリウスがゆっくりと私を離した。
その目には、名残惜しさが浮かんでいる。
「もう、遅い時間だ。君は休まなければ」
「でも、まだあなたと一緒にいたい」
私が正直に言うと、シリウスは困ったように微笑んだ。
「私もだ。けれど……その、私たちはまだ婚約中だから……」
言葉を濁すけれど、その赤い顔を見れば、どういうことか分かる。
そうよね。確かに、そういうことは正式に結婚してからじゃないと……。
「また明日、会おう。ティアナ」
シリウスが、もう一度私の名を呼ぶ。
その声が、胸に染み込む。
「ええ。おやすみなさい……シリウス」
私も、彼の名を呼んだ。
シリウスが部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、静かに響いた。
まだ、シリウスの温もりが残っている。
まだ、彼の香りが漂っている。
シリウス。
その名前を心の中で何度も呼びながら、幸せな気持ちでそこに立ち尽くした。




