第56話 竜蜜のリキュール
どうやら、また私の悪い噂が広まっているらしい。
廊下を歩くと、ひそひそと交わされる声。視線を向ければ、さっと逸らされる視線。
もう、何度目だろう。
正直なところ、胸の奥に溜まる疲労は隠せなかった。
心ない言葉に傷つかないほど、私は強くはない。
けれど、立ち止まっている暇はないのだとも、分かっている。
こんな噂に、負けていられない。
私は深く息を吸い、気持ちを切り替える。
誰かにどう思われるかではなく、自分に何ができるかを考えよう。
リジュの保湿クリームは、多くの侍女たちに喜ばれた。蒸留酒も、竜人たちの間で静かに評判になり始めている。
ならば、次は何を作ろう。
そう考えたとき、ふと脳裏に浮かんだのは、帝国へ向かう道中で立ち寄った市場の記憶だった。
露店に並ぶ素朴な菓子。その中で、ひときわ甘い香りを放っていた竜蜜の飴の、舌に残る濃厚で芳醇な甘さ。
そして、その隣で「美味しいな」と微笑んだ、シリウスの横顔。
……思い出すと、その表情の甘さまでも思い出してしまう。
いえ、今はそんな時ではないのよ。竜蜜を使って何か作れないかを考えましょう。
私はすぐにシャロンを呼び、相談してみることにした。
「シャロン、竜蜜って……飴以外には、あまり使われないのかしら?」
問いかけると、シャロンは少し困ったように首を傾げる。
「あらあら、竜蜜ですか。確かにとても美味しいのですけれど……他の食材と混ぜると、どうしてもえぐみが出てしまうんですの。ですから、加工品としては飴くらいしか……」
「えぐみ……」
私は、少し悩んだ。
実は最初、蜂蜜酒のようなものを作ろうと考えていた。前世で飲んだ、あの甘くて柔らかな味のお酒。
でも、えぐみが出るなら、発酵は難しいだろう。発酵は、素材の癖を良くも悪くも強調してしまう。
だったら違う方向からアプローチしないといけないわ。
発酵させずに、蒸留酒と合わせるのはどうだろう。
蒸留酒に竜蜜の香りと甘みだけを移して、しばらく寝かせる。アルコールの角を取れば、まろやかなリキュールになるかもしれない。
それなら蜂蜜酒よりも、ずっと手間は少ないから、失敗しても、やり直しはきく。
「シャロン。蒸留酒と、竜蜜を混ぜるのはどうかしら?」
「蒸留酒と……?」
シャロンが目を瞬かせる。
「ええ。発酵はさせないで、ただ混ぜるだけ。そうすれば、えぐみが出にくいかもしれないでしょう?」
私の言葉に、シャロンはしばらく考え込み――やがて、ふっと表情を和らげた。
「……確かに。それなら、試してみる価値はありそうですわね」
「では、早速やってみましょう」
これは、小さな一歩かもしれない。
けれど、こうしてできることを積み重ねていけばいい。
噂に負けるために、私はここにいるのではないのだから。
翌日から、私は実験室に籠もって、竜蜜のリキュール作りに取り組み始めた。
工程は蒸留酒を作った時よりも複雑ではない。だからこそ、余計な失敗をしないよう、一つ一つを丁寧に進める必要があった。
まずは瓶を煮沸し、完全に消毒する。
金属の鍋の中で、ガラスがかすかに触れ合う澄んだ音が響く。
蒸気が立ち上り、実験室にわずかに湿った熱が広がった。
ここで手を抜いたら、全部台無しになるから、慎重にしないと。
煮沸した瓶を布の上に並べ、しっかりと乾かす。
それから、琥珀色に輝く竜蜜を慎重に量る。
甘さは後からでも足せるから、最初は控えめにする。蒸留酒百ミリリットルに対して、竜蜜は十五グラムから二十五グラム程度。
とろりとした竜蜜は、光を受けると金色にきらめき、見ているだけで喉が鳴りそうになる。
それを瓶に落とし入れ、続いて蒸留酒を注ぐ。
ふたを閉め、瓶を軽く振る。
けれど、竜蜜は思った以上に固く、なかなか溶けてくれなかった。
「やっぱり、少し温めたほうが良さそうね……」
私は瓶を湯煎にかけ、人肌ほどの温度まで、ゆっくりと温める。
香りが飛んで味が壊れてしまうから、決して沸かしてはいけない。
ぬるい湯の中で、瓶の中身が少しずつ馴染んでいくのを、私は息を詰めるように見守った。
やがて、竜蜜は蒸留酒に溶け込み、瓶の中に淡い金色の液体が生まれる。
その様子を見て、少しだけ方の力が抜けた。
「うまくいきそうだわ」
助手を務めてくれているシャロンと目を合わせて頷きあう。
これはまだ開発中なので、シャロンだけに手伝ってもらっているのだ。
成功したら、またアダムに試飲を頼むかもしれないけれど。
瓶を取り出し、軽く拭いてから、冷暗所へと移す。
直射日光の当たらない棚の奥。そこに並べ、そっと置いた。
一日一回、瓶を回して中身を混ぜる。それだけでいい。
「これで……しばらく待てばいいのね」
思わず零れた独り言に、隣にいたシャロンが穏やかに頷いた。
「ええ。でも、どのくらい寝かせるかは、様子を見ながらですわね」
「まずは一日?」
「そうですね。一日待って味見をして、それから、さらに寝かせるか判断しましょう」
シャロンの落ち着いた声に、私も頷いた。
焦らず、急がず。
今度は、時間も味方につける。




