第55話 小さな願い(アイリーン)
それは、春の光がまだ柔らかかった幼い日々。
初めて彼に手を取られて立ち上がったときから、アイリーンは知っていた。
彼は、自分にとって特別な存在になるのだと。
小さな手のぬくもり。整った横顔に浮かぶ、あの静かな微笑み。
美しい銀色の髪と神秘的な紫の瞳。
まだ恋がどんなものかなんて何も分からなかった年頃なのに、胸の奥が少しだけ熱くなった。
それが、シリウスだった。
歳を重ねても、その感情は変わらなかった。
彼の声を聞くたびに、心がときめく。
その眼差しが別の誰かに向けられれば、それだけで少し寂しくなる。
ずっと隣にいた。
幼馴染として、もう一人の幼馴染のシャロンとともに。
でも、彼の視線がアイリーンを恋人のように捉えることは、一度もなかった。
それでも、いつか……。
いつか番が見つからなければ、自分が妃としてそばにいられるかもしれない。
そう信じていた。
竜人の世界では、魔力の高さがすべてだ。けれど、あまりにも強い魔力同士では、子ができにくい。
アイリーンの魔力は高くない。それは、彼女にとってずっと「足りない」ものの象徴だったけれど、それが反対に希望になった。
シャロンの親族とはいえシリウスの妃になれるほどの身分はなかったけれど、シリウスに番が現れないのなら、自分のように魔力の低い者が跡継ぎを生むための妃となることは、ごく自然な選択肢となるはず。
そこに、わずかな望みをかけていた。
それは、恋と呼ぶには静かで、
夢と呼ぶにはあまりに現実的な――願いだった。
けれど、ある日。
すべてが、静かに崩れた。
彼に番が現れたと聞かされたとき、目の前が真っ暗になった。
まるで、誰にも気づかれないように深く刺さる針のように、痛みは体の内側だけをえぐった。
しかも、その番は人族だという。
竜人より遥かに短命で、脆く、儚い存在。
けれど番であるがゆえに、寿命を分け与えることができる。千年近い寿命を持つシリウスが、その半分を――彼女に?
彼の寿命を奪っていくその人を、正面から否定することはできなかった。
番とは、魂が選ぶもの。番の絆は理屈を越え、命の深いところでつながるものなのだから。
それでも、やるせなかった。
帝国の未来を担う存在で、竜化という異能を宿し、絶大な魔力を持ち、いずれ皇帝となる男。
そんな彼の力の源ともいえる寿命を、たった一人の人族に半分も与えてしまう。
(それで本当にいいの?)
心の奥で、アイリーンは幾度も問いかけてしまう。
これは嫉妬だろうか。それとも忠誠心?
恋する女としての想いと、帝国の一員としての理性が、何度もぶつかり合う。
もし、彼女が怪我をしたら。
もし、浮島が落ちるほどの不安定さがアキテーヌの血を持つ『番』の影響だったとしたら――
それが国を脅かす要因だとしたら。
どうしたらいいのか分からず、心は千々に乱れる。
もし、この思いが一瞬でもいいから届くのなら、どれほどの犠牲を払っても構わない。
本当の番でなくてもいいから、あの紫の目で熱く見つめられたい。
かなわぬ夢だとは分かっていても、それでもアイリーンは願わずにはいられない。
「アキテーヌの魔女……本当に、そうだったのなら……」
小さな呟きが、溶けて消えた。




