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【書籍化・コミカライズ連載中】婚約破棄からの溺愛生活  作者: 彩戸ゆめ
竜帝国の新生活は試練がいっぱい

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第54話 陰謀(クロス)

 ドラゴラム帝国の首都イグドラシルの片隅にある、古びた酒場。


 昼間は賑わうこの場所も、夜更けには静まり返る。けれど、今夜は違っていた。

 酒場の戸が閉まるたび、押し殺したような緊張感が満ちてゆく。


 階下へ向かう扉の前には見張りが立ち、合言葉を知る者だけが通される。誰もが視線を交わさず、靴音だけが乾いた石段に吸い込まれていった。


 地下へと続く階段を降りていくと、薄暗い石造りの部屋がある。

 天井は低く、壁には湿気が滲み、空気は重い。松明の炎が、不気味に揺れていた。


 部屋の中には十数人の人影があった。

 皆、黒いフードつきのローブを身にまとい、顔は深く隠されている。誰が誰だか分からない。


 だが彼らには共通する一つの目的があった。

 それは、皇太子シリウスの、番の排除。


 そもそもは、誰が言い出したのかは分からないが、竜族の中でも最も強く、美しい皇太子シリウスが、人族を番として認識するなどおかしい、という話から始まった。


 きっと悪い力を使ったのだ。

 悪い力とはなんだ。


 あの赤い目が怪しい。まるで血のようではないか。

 きっと、赤い瞳は邪眼なのだ。


 邪眼によって皇太子はあの人族の女を番だと思い込まされているに違いない。


 噂は瞬く間に広がり、クリスティアナと親しくなりかけていた侍女たちですら、彼女を恐れて遠巻きにするようになった。


 噂は刃よりもよく切れ、毒よりも広がる。

 竜人たちの嗅覚が鋭いほど、恐怖は匂いとなって伝染していく。

 だからこそ、この集会が成り立つ。


 クロスは、その一人として部屋の隅に立っていた。

 オレンジ色の髪はフードの中に隠され、緑の瞳だけが暗闇の中で光っている。口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。


 これから起こることを楽しみにしているかのように。


「では、始めよう」


 一人の竜人が、低い声で言った。

 おそらく、この集会のリーダー格なのだろう。


「我々の目的は明確だ。人族の番を、この帝国から排除すること」


 その言葉に、部屋中の竜人たちが頷いた。


「しかし、問題がある」


 別の竜人が言った。


「もし、番が死んでしまえば、シリウス殿下も弱って死んでしまう。それでは本末転倒だ」


 部屋が静まり返った。


 番が死ねば、番同士は共に死ぬ。それは竜人たちの常識だった。

 だからこそ、誰もが排除を望みながらも、決定打を打てずにいる。


 クリスティアナが邪眼でシリウスを操っているという噂はある。だが、噂は噂にすぎないということを彼らは知っている。


 実際のクリスティアナには、竜化できるほどの魔力を持つシリウスを操れるほどの魔力はないからだ。


 その時、クロスが一歩前に出た。


「もし、本物の番ではなかったら?」

「あの噂か。だがシリウス様に魅了をかけられるほどの魔力は、あの女にはないだろう」


 リーダー各の竜人の言葉に、クロスは肩をすくめる。


「魔力は、ね。だけど彼女には神力があるじゃないか」

「神力……まさかそんなものが……」


 竜人たちはクリスティアナがアキテーヌの女王と名乗っていることは知っているが、神力があることまでは知らない。


 神力は、アキテーヌ神族にしかない力だから本当にそんなものがあるとは思ってもいなかったのだ。


「古い記録によれば、アキテーヌの末裔が邪眼で竜人を番と誤認させたことがある」


 クロスの言葉に、部屋がざわめいた。


「邪眼……?」

「そうだ。アキテーヌの魔女は、邪眼を使って竜人を魅了し、自分を番だと誤認させた。だが真実は、邪眼ではなく神力を使った魅了だった。だから、偽の番が死んでも、竜族は弱らなかったという記録がある」


 クロスの声は静かだったけれど、確信に満ちていた。


 竜人たちは息を呑み、その古文書という響きに飛びついた。人はそれが真実かどうかよりも、耳障りの良い、理屈が通っていそうな言葉を信じるものだ。


「つまり……」

「そうだ。シリウス殿下は、きっとあの人族の邪眼によって魅了されているだけなのだ。だから、あの女が死ねば、殿下は正気に戻るに違いない」


 部屋中が期待に満ちた雰囲気に変わった。


「本当か? 本当にそうなのか?」


 だがまだ疑念があるのだろう。

 竜人にとって竜化できるシリウスは至宝。万が一にも失ってはならない。


「ああ。私は古文書を研究している。その記録は、確かに存在する」


 クロスが断言する。


 もちろん、それは嘘だった。そんな記録は、どこにもない。

 だが、クロスには目的があった。


 人族の番を憎む者たちに理由を与え、恐怖を煽り、孤立を完成させること。

 最終的に、その番であるクリスティアナを、手に入れること。

 そしてアキテーヌの秘密を、思う存分研究するために。


 噂はすぐに広がるだろう。それが自分たちの信じたい噂ならばなおさらだ。

 クリスティアナを守る手が減り、助けを求める声が届かなくなり、最後には――本人が自分自身を疑い始める。


 クロスは、松明の炎の揺れの中で、誰にも見えないほど小さく笑った。


 ――まずは、『魔女』にしてしまえばいい。

 そうすれば、あとは勝手に皆が遠ざかる。


 そして、アキテーヌの血が持つ力を、クロスが解明するのだ。

 誰にも邪魔をされないのであれば、多少傷つけても構うまい。

 死なせてしまっては研究が途絶えてしまうから、そこは厳密に加減しなくては。


 暗い地下室に、竜人たちの低い同意の声が満ちていった。


「だが……」


 一人の竜人が、不安そうに言った。


「もし、それが間違いだったら? もし、本物の番だったら?」


 その言葉に、部屋が再び静まり返った。


 確かに、それは大きなリスクだった。

 もし、クリスティアナが本物の番だったら、シリウスも死んでしまう。


 堂々巡りの議論に、クロスはフードの下で笑みを浮かべる。

 そうだ。その言葉を待っていたのだ。


「ならば、殺さずに、仮死状態にすればいい」

「仮死状態……?」

「そうだ。特殊な薬を使えば、人を仮死状態にすることができる。心臓の鼓動を極限まで遅くし、まるで死んだかのように見せる。その間に、新たな番を作ればいいのさ」


 クロスの言葉に、部屋の竜人たちが色めき立った。


「新たな番だと?」

「私は研究の過程で、ある発見をした」


 クロスが、懐から小瓶を取り出す。透明な液体が、松明の光を受けてきらりと光った。


「これは、特殊な薬だ。これを使えば、シリウス殿下は相手に惹かれるはずだ」

「そんなことが可能なのか?」

「ああ。この薬は番だと錯覚させることができる。……偶然できた一本なので、チャンスは一度きりだけれどね」


 クロスが得意げに説明する。

 もちろん、これも半分は嘘だった。


 薬は確かに作った。クリスティアナの髪の毛を、研究の際に密かに集めて。

 だが、それが本当に効果があるのかは、試してみなければ分からない。


 でも、クロスにとっては、どちらでもよかった。

 重要なのは、クリスティアナを手に入れること。

 それだけだった。


「その薬を、誰に使うのだ?」

「もちろん、シリウス殿下に近づける者だ」


 クロスが、部屋の一角を見た。

 そこには、一人の女性の姿があった。

 黒いローブで顔は隠されているけれど、王宮の侍女の制服を着ている。


「あなたなら、シリウス殿下に近づくことができるでしょう?」


 女は声を出さず、わずかに頷いただけだった。


「では、計画を実行しよう。まず、あの人族を仮死状態にする。そして、その間に、あなたか……もしくは、あなたが認めた女性がシリウス殿下の新たな恋人になる」


 クロスの声は、興奮に震えていた。


「仮死状態にする薬は、私が用意する。そして、それをシリウス殿下が信頼している人間に渡す。きっと、疑うことなく飲ませてくれるだろう」


 クロスが、にっこりと笑った。その笑みは、まるで悪魔のようだった。


 クロスの心の中では、計画が完璧に進んでいく様子が思い描かれていた。

 既に仕込みは終えている。この女も味方につければ、必ずうまくいくだろう。


 指輪の秘密も、神力の謎も、すべて解き明かせる。

 ああ、なんて素晴らしいことだろう。


 学者としての好奇心が、彼の倫理観を完全に麻痺させていた。

 人を傷つけることなど、彼にとっては些細なことだった。

 重要なのは、謎の解明。それだけだ。


「では、いつ実行する?」


 リーダー格の竜人が尋ねた。


「近いうちに。準備が整い次第、連絡する。その時にこの薬も渡そう」


 クロスが答えると、部屋の竜人たちは、満足そうに頷いた。

 そして、一人、また一人と、部屋を後にしていき、やがて、部屋には誰もいなくなった。


 クロスは、一人残って、小瓶を見つめる。


 透明な液体が、松明の光を受けて、妖しく光っていた。

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イラスト・小田すずか先生

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