第9話「隣の人が食べてる、それください」
昨日の朝に六百八十ゴールドを払って直した短剣は、腰へ差しただけでも以前より収まりがよくなったのが分かった。柄へ巻き直された革は手に馴染み、歩いても鞘の金具が鳴らないし、刃を使わないまま一日を終えられるならそれが一番なのだけれど、せっかく修理した直後ということもあって、今日は以前ほど討伐依頼を避けたい気持ちはなかった。
「六百八十ゴールド分、働いてもらわないとね」
宿の部屋で短剣の柄を軽く叩きながらそう呟いてから、一階の食堂へ下りる。
《銀鈴の宿》の朝食は、薄切りの黒パンと焼いた白身魚、それから豆と刻み野菜の入った汁物だった。焼き魚には塩と乾燥香草が振られていて、淡白な身に少しだけ青っぽい香りがついている。朝から魚を食べること自体は前の世界でも珍しくなかったが、味噌汁も醤油もないので、同じような朝食に見えても口へ入れればまったく別物だった。
この世界へ来たばかりの頃なら、きっと「焼き魚なのに醤油が欲しい」と思っていた気がするし、今でもあれば嬉しいとは思う。それでも、ないものを食事のたびに探すより、目の前に出てきたものをそのまま味わう方が楽だということも、こちらで暮らすうちに少しずつ分かってきた。
「今日は何食べようかな」
朝食を食べながら夜のことを考えている時点で、たぶん今日も平常運転だった。
食堂を出て冒険者ギルドへ向かうと、朝の依頼板の前は相変わらず人が多く、戦闘系の依頼は報酬の高いものから早々に剥がされていた。私も人の隙間から残っている紙を眺めながら、今日一日の疲労と報酬の釣り合いを考えていく。
牙猪討伐は二頭で千七百ゴールド、北東街道の護衛なら千四百ゴールドだが夕方まで拘束され、薬草採取は八百ゴールドで最低二十束必要になる。昨日なら迷わず薬草を選んでいたかもしれないものの、修理したばかりの短剣を持っているせいか、今日は少しくらい戦ってもいいような気がしていた。
そんな気分で紙を見ていると、依頼板の中央より少し下に、比較的新しい依頼が一枚残っていた。
《東側牧草地・尖耳狐の追い払いおよび被害確認。家禽被害あり。討伐証明一匹につき三百ゴールド、現地確認手当四百ゴールド》
「狐かぁ」
尖耳狐という名前は聞いたことがある。
街の外に住む小型の魔物で、普通の狐より身体が大きく、耳が長い。鶏や小型の家畜を狙うので農家から嫌われているが、積極的に人間へ襲いかかるほど危険な魔物ではないらしい。
何匹いるか分からないのが少し気になるものの、現地へ行って被害を確認するだけでも四百ゴールドは出る。一匹倒せば七百、二匹なら千ゴールドになる計算なので、前回のように「三匹程度」という曖昧な言葉を勝手に信じて期待さえしなければ、悪くない依頼に思えた。
「今日はこれでいいか」
受付へ紙を持っていくと、いつもの受付嬢が内容を確認した。
「尖耳狐ですね。東側の牧草地で三日ほど前から被害が出ています」
「何匹いるか分かってます?」
「目撃は二匹から四匹ですが、同じ個体を複数回見ている可能性があります」
「その説明なら信用できます」
「以前、何かありました?」
「三匹程度って言われて七匹いました」
「ああ……あの依頼」
「覚えてるんですね」
「追加手当が出たので」
受付嬢が少し笑う。
「今回は討伐数に応じて加算されますから、数が多い方が報酬は増えます。ただし家禽小屋や牧草地を壊さないことが優先です」
「分かりました」
「それと、尖耳狐の耳は証明部位になります。尾は買い取り対象ですが、傷が多いと値段が落ちます」
「尾も売れるんですか?」
「冬物の襟や帽子に使われます。今の時期なら一尾百から百五十ゴールド程度ですね」
「なるほど」
魔物素材というと、魔石や角、牙のような冒険者らしいものばかり想像していたけれど、毛皮を服へ使うなら前の世界の獣とそれほど変わらない。討伐したものが街の暮らしの中で普通に使われていると思うと、魔物もこの世界の生活から完全に切り離された存在ではないらしい。
依頼を受け、東門から街の外へ出る。
牧草地までは徒歩で四十分ほどだった。
朝のうちは風が涼しかったが、日が高くなるにつれて少しずつ暑くなり、街道の両側に広がる低い草地も明るく照らされている。その向こうには柵で区切られた放牧地や畑が見え、リーベルの城壁から少し離れただけなのに、街中とはずいぶん空が広く感じられた。
現地で待っていたのは、五十代くらいの女性だった。
赤茶色の髪を布でまとめ、厚手の前掛けをつけている。近くには木造の小さな家禽小屋があり、その周囲の柵の一部が少し傾いていた。
「ギルドから?」
「はい。ミサキです」
「私はナーダ。昨日の夜も一羽やられたよ」
「鶏ですか?」
「羽脚鳥だよ。普通の鶏より高いんだから、困ったもんさ」
「羽脚鳥?」
「知らないの?」
「名前は初めて聞きました」
ナーダに案内されて家禽小屋を覗くと、中には鶏に似た鳥が十数羽いて、身体は茶色や白の羽毛に覆われていた。名前の通り脚の上部にも細かな羽が生えていて、体格は鶏より一回りほど大きい。
「卵取るんですか?」
「卵も取るし、年取ったら肉にもする。こいつらは黄身が濃いから、菓子屋がよく買いに来るよ」
「今朝食べた卵、これだったりして」
「宿によっちゃ使ってるんじゃない?」
思ったより身近な鳥だった。
この世界で何気なく食べているものも、当然どこかで誰かが育てていて、それが街へ運ばれている。前の世界ではそういう当たり前のことをほとんど意識しなかったけれど、こちらでは生産している場所と食べる場所の距離が近いぶん、少しだけ見えやすい。
ナーダは小屋の裏へ回り、柔らかい土を指差した。
「足跡がこっちへ続いてる。昨日の夕方に柵を直したんだけど、夜中にまた潜られた」
地面には犬より少し小さな足跡が残っていて、それが林の方角へ続いている。耳が長い魔物だからといって足跡まで特別な形をしているわけではないらしい。
「森まで追います?」
「林の手前くらいまででいいよ。深追いして怪我されても困るし、ここに来なくなればそれでいい。ただ、もう味覚えたやつは何度でも来るから、見つけたら仕留めてくれた方が助かる」
「分かりました」
短剣だけでは少し心許ないので、牧草地の端に落ちていた長めの木の枝も一本拾う。積極的に人間へ襲いかかる相手ではないと聞いているが、足の速い獣を短剣の間合いだけで相手にするより、進路を変えられるものがあった方が安心できる。
足跡を追って林へ向かう途中には抜け落ちた羽毛が数枚あり、ナーダの言う通り昨夜ここを通ったのは間違いなさそうだった。
林へ入って十分ほど歩いたところで、草むらがわずかに揺れた。
立ち止まって目を凝らすと、草の間から茶色い毛と長く伸びた耳が見え、やがて姿を完全に現した尖耳狐は、私が想像していたより一回り以上大きかった。柴犬くらいの身体に狐らしい細長い顔を持ち、頭の倍近い長さの耳は先端だけ黒くなっている。
「かわいいって言うには、ちょっと大きいな」
見た目だけならかなり狐に近いけれど、こちらを見つめる目は鋭く、口を開ければ長い犬歯が見える。
尖耳狐はこちらから距離を取るように身体を動かし、人間へ積極的に襲いかかってくる魔物ではないという話が本当らしいことはすぐに分かった。ただ、このまま逃がせば夜にはまた牧草地へ戻るかもしれないので、私は刺激しすぎないようゆっくり横へ回り込んでいく。
こちらが距離を詰めた分だけ、尖耳狐も同じように離れていく。
「速そうだなぁ」
前の世界で会社員をしていた頃、野生動物を森の中で追いかけることなんて当然なかった。それが今では、大きな狐のような魔物と距離を測りながら短剣を握っているのだから、人生というのは本当に分からない。
少しずつ距離を詰めたところで、尖耳狐が突然横へ走った。
まともに追えば到底追いつけそうになかったものの、幸い逃げた方向には低い倒木が横たわっていた。私はそのまま直線で追うのではなく、先回りするように横へ走り、尖耳狐が倒木を飛び越えようとした瞬間、持っていた枝を進路へ向けて振る。
身体へ当てるつもりではなく、進む方向を変えさせるためだった。
枝が地面を叩いた音に尖耳狐が驚き、一瞬だけ動きを止めたところで距離を詰める。そのまま短剣を抜くと、相手もこちらへ噛みつこうと身体をひねったため、腕を引きながら首元へ刃を入れた。
少し暴れたあと、尖耳狐は動かなくなった。
「一匹仕留めたなら、とりあえず七百ゴールドか」
現地確認手当の四百ゴールドと一匹分の三百ゴールドを合わせれば、最低限の仕事にはなった。ただ、周囲を調べてみると他にも足跡が残っていたので、耳を証明用に切り取り、尾もできるだけ傷つけないよう処理してから、さらに林の奥を少し探してみることにした。
二匹目を見つけたのは、昼近くになってからだった。
今度は一匹ではなく、二匹が少し離れて一緒に動いている。
「二匹同時かぁ」
片方へ仕掛ければ、もう片方は逃げる可能性が高い。それでも両方を無理に相手にして怪我するよりは、その方がずっといい。
まず近い方へ石を投げる。
石そのものは外れたが、突然の音に驚いた二匹は別々の方向へ走り出した。
「分かれてくれるなら助かる」
私は右へ逃げた方を追う。
一匹目より若いのか身体が少し小さく、木々の間を抜けていく速さはかなりのものだった。ただ、逃げた方向が牧草地側だったので、そのまま家禽小屋まで戻られるわけにはいかない。
林を抜ける直前で少し距離が縮まったところへ、先ほど拾った枝を脚元へ投げる。尖耳狐はそれを跳び越えようとして体勢を崩し、その隙に私が距離を詰めて短剣を入れると、今度も大きな反撃を受けることなく仕留めることができた。
息を整えながら、さっきもう一匹が逃げた方向を見る。
当然、もう姿はない。
「現地確認手当が四百で、二匹分が六百なら、ちょうど千ゴールドか」
昨日の報酬千百より少し少ないが、今日は大きな出費の予定もないし、尾まで売れればもう少し増える。無理に三匹目を探して怪我するより、この辺で切り上げた方がいい。
「十分でしょ」
牧草地へ戻り、ナーダへ報告する。
「二匹いました。一匹は逃げましたけど」
「二匹仕留めたなら十分だよ。たぶん昨夜来たのもそいつらだろうね」
「まだ一匹います」
「林へ逃げたなら、しばらく様子見るさ。あんたが追い回したなら警戒もするだろ」
「だといいんですけど」
「羽脚鳥を二羽守れたと思えば、十分元取れてるよ」
「一羽いくらなんです?」
「若いやつなら四百くらい」
「結構するんですね」
「卵取れるからね」
依頼料を払ってでも守りたい理由が、それでよく分かった。
街では料理として出てくる肉や卵の値段しか考えないけれど、生産する側から見れば一羽失うだけでもかなりの損になる。今日私が倒した尖耳狐二匹も、ただ魔物を二匹減らしたというだけではなく、これから産まれるはずだった卵や育てるためにかけた餌代まで守ったことになるのかもしれない。
ナーダから完了印をもらい、街へ戻る。
帰り道の途中で腹が減ったので、東門近くの屋台で平たいパンに焼いた豆と刻んだ野菜を挟んだものを九十ゴールドで買い、水も十ゴールド分補充した。焼いた豆には少し辛い香草が混ぜられていて、噛むたび舌へ小さな刺激がくるうえ、肉が入っていなくても豆の量が多いので思ったより腹に溜まる。
「こういうので昼は十分なんだよね」
夜に飲む予定がある日は、昼食を必要以上に豪華にしたいとは思わない。節約というより、一日に使える金をどこへ配分するかの問題で、前の世界でも昼に少し高いものを食べた日は、夜の居酒屋で一品減らすかどうかを考えていた気がする。
世界が変わっても、やっていることはあまり変わらない。
ギルドへ戻り、証明部位を提出する。
「尖耳狐二匹、確認しました。現地確認手当四百ゴールドと討伐分六百ゴールドで、合計千ゴールドです」
「ありがとうございます」
「尾もあります?」
「二本あります」
「状態見ますね」
受付嬢が別の係へ尾を渡し、しばらくして戻ってきた査定額は二本で二百四十ゴールドだった。
「思ったより高い」
「傷が少ないので。一方が百三十、もう一方が百十ですね」
「じゃあ今日は千二百四十ゴールドか」
「討伐報酬と素材代を合わせればそうなります」
「いい仕事だったかも」
昼食と水の百ゴールドを引いても千百四十ゴールド残り、そこから宿代三百を確保しても八百四十ある。昨日は修理代のせいで夜の予算を三百に絞ったので、今日は少し余裕を持ってもいい気がした。
「夜は七百かな」
千ゴールド近く使うほどではないけれど、三百では昨日と同じになる。今日は林の中を走って狐を追いかけ、修理した短剣もちゃんと使えたのだから、そのくらいのご褒美は欲しい。
「七百。これでいこう」
宿へ戻る途中、《鉄釘屋》の前を通ったところで、何となく短剣の状態が気になった。店へ入るほどではないので腰から少しだけ抜いて刃を確認すると、昨日きれいに研がれた刃には今日二匹仕留めた程度では目立つ傷もついていない。
「ちゃんと拭いておこう」
昨日店主に言われたことを覚えているうちにやる。
宿へ戻ってから布で刃を丁寧に拭き、部屋へ置く。以前なら適当に済ませていたかもしれないけれど、六百八十ゴールドを払った直後なので、今日は自分でも驚くくらい真面目だった。
夕方になり、財布から七百ゴールドだけを小袋へ移す。
「今日は何食べよう」
明確に食べたいものがあるわけではなく、肉でも魚でもいいし、温かいものでも焼いたものでもいい。昨日のように予算から先に店を選ぶのではなく、今日は歩きながら決めることにした。
大通りを北へ進み、これまであまり入ったことのない職人街の外れへ向かう。
夕方の通りには仕事を終えた人が増え、革職人や木工職人らしい服装の人たちが何人も歩いていた。酒場の扉が開くたびに、焼いた肉や香草、麦酒の匂いが通りへ流れ出してきて、それだけでも腹が少し空いてくる。
一軒目は中を覗いただけでかなり混んでいたので諦め、二軒目は魚料理の店らしく少し惹かれたものの、入口に並ぶ客を見て見送った。そのまま歩いて見つけた三軒目は看板が小さく、危うく通り過ぎるところだった。
《青鍋亭》
名前だけなら鍋料理の店に見えるけれど、入口に出された品書きには焼き物も多い。
《麦酒 百三十ゴールド》
《青葉酒 百六十ゴールド》
《岩鶏皮炙り 百十ゴールド》
《塩焼き茸 百ゴールド》
《灰豆煮 九十ゴールド》
《火焼き薄肉 百八十ゴールド》
《香草卵焼き 百五十ゴールド》
《本日の皿 時価》
「時価って嫌な言葉だなぁ」
前の世界でも怖かった。
値段が書いていないものを気軽に頼めるほど、私は財布に自信がない。それでも他の料理は全体的に安く、予算七百ゴールドなら十分楽しめそうだったので、私は扉を開けた。
「いらっしゃい!」
思っていたより明るい声が飛んでくる。
店内は細長く、入口から奥まで一本のカウンターが続いており、四人掛けの卓は二つだけだった。客のほとんどはカウンターへ座っていて、一人客も多い。
店員は二人いて、一人は四十代くらいの男性で、丸く刈った黒髪に大きな鼻、よく通る声をしている。もう一人は二十代前半くらいの女性で、肩までの茶髪を後ろで束ね、料理を運びながら客とよく話していた。
「一人です」
「奥から三つ目空いてるよ!」
「はい」
指定された席へ座ると、隣にはすでに男性客が一人いた。
三十代後半くらいで、袖口に白い粉がついている。パン屋か、何か粉を扱う仕事なのかもしれない。反対側には年配の女性が座っていたが、こちらはすでに食事を終えかけていた。
私は品書きを見ながら、まず酒を決める。
「麦酒ひとつお願いします」
「あいよ!」
料理は酒が来てから考えればいい。
出てきた麦酒は少し赤みのある金色で、泡は薄く、香りには麦だけでなく少し青い草のようなものが混じっていた。一口飲むと苦味は中くらいで、《黒麦房》の香麦ほど香りが強くなく、《風桶》の軽麦酒ほど軽くもない。
「おいしい」
「うちのは青苦葉使ってるよ」
若い女性店員が言う。
「青苦葉?」
「西の低地のやつ。香り弱いけど、後味さっぱりするの」
「苦葉って本当に種類あるんだ」
「酒好き?」
「最近ちょっと気になってます」
「じゃあ青葉酒も好きかもね」
「強いです?」
「麦酒よりちょっとだけ」
「ちょっとだけ、信用していいやつですか?」
「何それ」
「前に失敗したので」
女性店員が笑った。
「うちは本当にちょっとだけ」
「なら後で考えます」
麦酒を飲みながら料理を選ぼうとしていると、隣の男性客の前へ大きな皿が置かれた。
「はい、本日の皿!」
「待ってた」
反射的にそちらを見る。
そして、見たことを少し後悔した。
大きな浅皿の中央には、こんがり焼かれた何かが積まれていた。最初は肉だと思ったものの、表面には細かな切れ目が入り、その隙間から白っぽい身が見えている。上から濃い茶色のたれのようなものがかかり、刻んだ緑の香草と赤い粒が散らされていた。
こちらまで漂ってくる香りには、焼けた脂の香ばしさに甘い匂いとわずかな酸味が混じっていて、品書きだけを眺めていたときとは比べものにならないくらい興味を引かれる。
「何それ……」
思わず口から出た。
隣の男がこちらを見る。
「これ?」
「すみません。美味しそうだなと思って」
「今日の皿だよ。《平尾魚》の腹焼き」
「魚?」
「魚」
肉に見えた。
隣の男が二本の細い木棒を使い、焼けた身をほぐす。中は白く、脂がかなり乗っていて、それを茶色い汁へ絡めて口へ運んだ男の顔が、言葉より分かりやすく味を説明していた。
「……うまい」
そんな顔で食べられたら気になる。
「店員さん」
「はい?」
私は品書きを閉じた。
「隣の人が食べてる、それください」
隣の男が笑った。
「名前聞かなくていいのか?」
「聞きましたけど、もう見た時点でほぼ決まりました」
「本日の皿ね。今日は二百四十ゴールドだよ」
女性店員が教えてくれた。
「二百四十ならください」
「はいよ」
思ったより安い。
麦酒百三十と合わせても三百七十ゴールドなので、予算七百からならまだ三百三十残る。
注文してから、改めて隣の皿を見る。
「平尾魚って、どんな魚なんですか?」
男性客へ聞く。
「川魚。尾が横に平たい」
「名前そのままですね」
「大体そんなもんだろ」
「どのくらいの大きさです?」
「腕くらい。腹のとこが脂乗る」
店員も会話へ入ってきた。
「この時期は川下りする前だから一番太ってるよ。今日は朝にいいの入ったんだって」
「季節ものなんですね」
「そうそう。だから本日の皿」
仕入れによって内容も値段も変わるらしく、時価と書かれていた理由もそれで納得できた。
「時価って書いてあるから怖かったんですよ」
「聞けばいいじゃん」
「聞いたら断りにくいじゃないですか」
「そんなことないよ」
「私はちょっと断りにくいです」
前の世界でもそうだった。
店員に「今日おすすめです」と説明されたあとで値段を聞き、自分の予算を超えていると分かっても、「じゃあやめます」が少し言いづらかった。だから最初から値段が見える店は安心する。
「財布と相談するの大事だろ」
隣の男が言う。
「ですよね」
「俺も今日はこれ食うために昼抜いた」
「それはやりすぎじゃないです?」
「朝パン三つ食ったから大丈夫」
「本当にパン屋さんですか?」
「粉ついてた?」
「袖に」
男が自分の腕を見る。
「製粉所だよ」
「惜しかった」
「パン屋じゃなくて粉屋」
「仕事終わっても粉って落ちないんですね」
「落ちねぇ。風呂入っても耳から出る」
「それ嫌だなぁ」
「だから飲む」
「理由になってます?」
「俺の中ではな」
世界が違っても、仕事の汚れを酒で区切りたくなる人はいるらしい。
やがて私の前にも皿が置かれた。
「お待ち。本日の平尾魚、腹焼き」
近くで見ると、ますます魚とは思えない。
腹側の身を骨から外して大きめの切り身にし、その表面へ細かな切れ目を入れて焼いているらしい。皮は濃い茶色で端の方は少し縮れ、上からかけられた汁からは甘い香りが立っている。
「このたれ何ですか?」
「《赤蜜実》と塩酢、それに魚醤ちょっと」
「魚醤あるんだ」
「ぎょしょう?」
「魚から作る塩辛い調味料です」
「それなら《魚塩汁》のこと?」
「たぶんそれです」
名前は違うけれど、存在としてはかなり近そうだった。
私は木棒で身をほぐす。
表面はしっかり焼かれているのに、中から出てきた白い身は驚くほど柔らかく、脂が透明ににじんでいる。
一口食べる。
「……これ、かなり好き」
腹側だけあって脂はしっかり乗っているのに、口へ残る重さは思ったほど強くない。身そのものは淡白だが、噛むと脂の甘みが広がり、焼かれた皮の香ばしさが後から追いかけてくる。そこへ赤蜜実の柔らかな甘みと塩酢の酸味、魚塩汁の濃い塩気が加わることで、全体の味が一気に締まった。
前の世界で似たものを探すなら、脂の乗ったサバやホッケを甘辛いたれで焼いた料理に少し近い。
ただ、サバほど青魚らしい匂いはなく、ホッケほど身が崩れるわけでもない。脂の感じだけなら別の魚にも似ている気がして、結局どれか一つへ当てはめるのは難しかった。
「また何かと比べてる?」
隣の男に聞かれた。
「前にいたところの魚です」
「似てんの?」
「似てるところはあるんですけど、どれとも同じじゃないです」
「魚なんて土地変われば味違うだろ」
「最近みんな同じようなこと言うなぁ」
《黒麦房》の主人にも言われた。
違うものを無理に同じにする必要はないというのは、その通りなのだと思う。それでも二十六年間慣れた味の記憶はそう簡単には消えないし、似ているものを探してしまうのも仕方がない。
でも、比べること自体が悪いわけではない。
似ているところを見つけたあとに、違うところも知ればいい。
「麦酒合う」
平尾魚を一口食べてから麦酒を飲むと、脂が口へ残ったところに青苦葉の少し青い苦味が入り、舌がさっぱりする。そのあとでもう一度魚へ戻れば、甘い脂を最初から感じられる。
「これ隣で食べられたら頼むわ」
「だろ?」
製粉所の男が得意そうに言う。
「あなたが作ったわけじゃないですよね」
「俺が先に頼んだ」
「それだけじゃないですか」
「でも見本にはなった」
「それはそう」
人が美味しそうに食べている料理というのは、品書きよりずっと強い。
文字で《平尾魚腹焼き》と書いてあっても、たぶん私は注文しなかったと思う。魚だと分からない見た目と、隣の人が一口食べたときの顔、それに漂ってきた香りが全部揃ったから頼んだ。
前の世界でも、居酒屋では似たようなことがよくあった。
隣のテーブルへ運ばれた大皿を見て「あれ何ですか」と店員に聞き、そのまま同じものを頼む。自分で選んでいるようで、半分くらいは周囲の皿に影響されていた。
皿の半分ほど食べたところで、予算を確認する。
現在は麦酒百三十ゴールドと平尾魚二百四十ゴールドで、合計三百七十。残りは三百三十ゴールドある。
青葉酒は百六十、香草卵焼きは百五十なので、両方頼んでも三百十で、合計六百八十になる。ただ、卵は朝食でも食べているし、平尾魚も思ったより量が多い。
「青葉酒ください」
「はいよ」
まず二杯目だけ頼む。
「結局飲むんだ」
隣の男が言う。
「ちょっとだけ強いって言われたので確認です」
「確認で酒飲むやつ初めて見た」
「重要です」
出てきた青葉酒は小ぶりの杯に入っていて、色は淡い緑がかった金色だった。名前から葉だけを発酵させた酒かと思ったが、香りを嗅ぐと麦のような穀物臭も混じっている。
「これ何から作ってるんです?」
「白麦と青香葉。青香葉の汁を発酵途中で入れるの」
「麦酒の仲間?」
「店では別にしてるけど、作り方は近いよ」
一口飲む。
麦酒より少しアルコール感が強いものの、以前飲んだ火蜜酒のように喉が熱くなるほどではない。最初に草のような香りがあり、そのあとにほんの少し甘みが残る。
「本当にちょっとだけだった」
「でしょ?」
「信用してよかった」
「何をそんな警戒してるの」
「昔、一杯で予定が全部狂ったことがあるので」
女性店員は笑って別の客の注文を取りに行った。
青葉酒と平尾魚も相性がよく、麦酒より香りが強いぶん、魚塩汁の濃い味にも負けない。ただ、飲み進めると確かに酔いが回るのは少し早い気がした。
「これ二杯は危ないな」
「だったら麦酒に戻せ」
隣の男が言う。
「今日は二杯までです」
「真面目だな」
「予算もありますし」
「俺はもう三杯目」
「明日大丈夫です?」
「朝早い」
「駄目じゃないですか」
「粉は逃げねぇから」
「それ仕事として大丈夫なんです?」
「遅れなきゃいい」
ずいぶん大らかだった。
そのとき、反対側に座っていた年配の女性が店員へ声をかけた。
「卵焼き半分できる?」
「できるよ。八十」
「じゃあそれ」
私は思わず品書きを見直した。
「半分あるんですか?」
「言われればね」
女性店員が答える。
「品書きに書いてない」
「全部書いたら板いっぱいになるよ」
「そういうものか」
予算計算が少し変わる。
現在は麦酒百三十、本日の皿二百四十、青葉酒百六十で五百三十ゴールド。残りは百七十あるので、卵焼き一皿百五十でも予算内ではある。
ただ、もう魚をかなり食べている。
半分八十ならちょうどいい。
「私も卵焼き半分ください」
「はいよ」
「隣の注文に影響されすぎじゃない?」
製粉所の男が笑う。
「今日はそういう日みたいです」
「自分で何も決めてねぇじゃん」
「麦酒は自分で決めました」
「最初だけだろ」
「でも美味しいもの見つかってるので問題ないです」
店へ入る前は火焼き薄肉か香草卵焼きを考えていたのに、実際には隣の客を見て平尾魚を頼み、店員の話を聞いて青葉酒を追加し、さらに反対側の客を見て卵焼き半分まで頼んでいる。
予定外の注文ばかりなのに、不思議と失敗した感じはない。
むしろ店の中へ入ったからこそ決まったものばかりだった。
しばらくして、小さな皿に厚めの卵焼きが三切れ乗って出てきた。表面には焼き色があり、中には刻んだ緑の香草がかなり多く混ざっている。
「これ羽脚鳥の卵ですか?」
「そうだよ」
「今日それ育ててる人のところ行きました」
「牧草地?」
「尖耳狐の依頼で」
「ああ、ナーダさんのとこ?」
「知ってるんですか?」
「卵あそこから買ってるよ」
「本当に?」
思わず卵焼きを見直す。
朝、牧草地で見た羽脚鳥を思い出す。ナーダが「菓子屋もよく買いに来る」と言っていたけれど、まさか同じ日の夜に、その牧草地から届いた卵を酒場で食べることになるとは思わなかった。
「じゃあ今日守った鳥の卵かもしれない」
「今日産んだやつではないけどね」
「そこまで都合よくないか」
「昨日届いた分」
「でも近いですね」
一切れ食べると、卵は思った以上に味が濃かった。白身より黄身の存在感が強く、焼いてもコクがしっかり残っている。中に入った香草には少し苦味があり、そのおかげで卵そのものの甘さまで強く感じられた。
「朝食べたのより濃い」
「宿のは薄めることもあるからね」
「卵を?」
「大人数分なら白卵混ぜたりするよ」
「なるほど」
店で食べる料理と宿の朝食では、同じ材料でも使い方が違う。
「なんか今日、仕事と夕飯がつながったなぁ」
「何が?」
隣の男が聞く。
「昼間、羽脚鳥を狙う狐を倒したんですよ。その鳥の卵を今食べてるので」
「じゃあ自分で夕飯守ったようなもんじゃん」
「そこまで直接じゃないですけど」
「いいじゃねぇか。働いた感じするだろ」
「ちょっとします」
今日倒した尖耳狐は、ただ依頼書に書かれた魔物ではなかった。尖耳狐は羽脚鳥を食べ、その羽脚鳥は卵を産み、卵は街の宿や酒場へ運ばれて、今こうして私の皿へ乗っている。
当たり前の流れなのかもしれないけれど、自分がその途中へ少し関わったと思うと妙に面白い。
前の世界では居酒屋で卵焼きを頼んでも、その卵を産んだ鶏をどこで誰が育てているのかなんて、ほとんど考えたことがなかった。スーパーへ行けば卵が並び、店へ行けば料理が出てくる。その裏側に誰かの仕事があることは知っていても、自分からはずいぶん遠かった。
この街では、その距離が少し近い。
「こういうのも異世界っぽいのかな」
「何が?」
「何でもないです」
「さっきから独り言多いな」
「よく言われます」
卵焼きを一切れ食べ、青葉酒を少し飲むと、香草の苦味と青葉酒の青い香りが重なり、かなり相性がいい。平尾魚の甘い脂とはまた違った組み合わせで、半分だけ頼めた量も今の腹具合にはちょうどよかった。
予算を計算すると、麦酒百三十、本日の平尾魚二百四十、青葉酒百六十、卵焼き半分八十で、合計六百十ゴールド。予算七百なので九十ゴールド残る。
そこで品書きを見ると、灰豆煮がちょうど九十ゴールドだった。
「ぴったり使える……」
危険な発見をした。
腹はもうかなり満たされていて、灰豆煮を頼んでも食べられないわけではないけれど、今本当に必要かと言われれば必要ではない。ただ、頼めば予算をきれいに使い切れる。
「何悩んでんの?」
隣の男が聞く。
「灰豆煮頼むと七百ちょうどなんですよ」
「腹減ってんの?」
「もう結構満足してます」
「じゃあいらねぇだろ」
「正論」
「予算って使い切るためにあるのか?」
「違います」
「なら残せばいいじゃん」
「その通りなんですけどね」
昨日までの自分なら、追加する理由を探していたかもしれない。予算内だから、九十ゴールドだけだから、せっかくならちょうど使いたいからと、自分で自分を説得していた気がする。
でも今日は、すでに予定外のものを二つ頼んでいる。
それでも十分満足している。
「やめときます」
「偉い」
「なんで褒められてるんだろ」
青葉酒をゆっくり飲む。
少し強い酒なので、最後は急がない。
隣の男も三杯目を飲み終えたらしく、会計を頼んでいた。
「じゃあな。次は自分で料理選べよ」
「今日はありがとうございました」
「俺何もしてねぇけど」
「平尾魚見せてくれたので」
「勝手に見ただけだろ」
「それでもです」
男は笑いながら店を出ていった。
隣の席が空き、さっきまでそこに置かれていた皿も下げられると、急に少し静かになったように感じる。
私は自分の皿を見る。
平尾魚は皮の端が少し残っているだけで、卵焼きも最後の一切れになっていた。
最後の卵焼きを食べると、黄身の濃い味と香草の苦味が口の中に残り、今日の朝に牧草地で見た羽脚鳥の姿を思い出した。
「ちゃんと仕事したなぁ」
今日は林の中を走り回って二匹の尖耳狐を仕留め、その報酬と素材代を合わせて千二百四十ゴールドを受け取った。そのあと何となく入った店で、隣の人が食べていた料理をそのまま頼んだ。
平尾魚という名前さえ、店へ入るまで知らなかった。
計画していたわけではないのに、今日一番印象に残った料理は間違いなくそれだった。
「こういう決め方もありだね」
品書きを見ながら自分で考えるのも楽しいし、予算の中で注文の組み合わせを作るのも楽しい。でも、店へ入ってから隣の皿を見て決めるのも、居酒屋らしい楽しみ方だった。
前の世界でも同じことはあったはずなのに、この世界ではまだ知らない食材が多いぶん、その偶然が少し大きい。料理名を読んでも味を想像できないことが多いからこそ、誰かが本当に美味しそうに食べている姿が、一番分かりやすい説明になることもある。
「ごちそうさまでした」
「はいよ。六百十ね」
「お願いします」
七百ゴールド入れていた小袋から六百十を払い、九十ゴールドを戻す。
「灰豆煮いかなかったんだ」
女性店員に言われた。
「なんで分かるんです?」
「さっきずっと品書きと財布見てたから」
「見られてた」
「九十残った?」
「ちょうど九十です」
「じゃあ次の飲み代にしな」
「そうします」
今日の稼ぎは千二百四十ゴールドで、昼食と水に百、夜は六百十、宿代に三百使う。そこまで引いても今日一日では二百三十ゴールド残るので、昨日より大きく余裕があるわけではなくても、短剣の修理代のような大きな出費がないだけで十分だった。
「またね」
「ごちそうさまでした」
店を出ると、夜の職人街にはまだ人通りが多く、少し強い青葉酒を飲んだせいか身体も内側から温かかった。
歩きながら思い出すのは、平尾魚の甘い脂と焼けた皮の香ばしさ、赤蜜実と塩酢の甘酸っぱいたれ、それを流してくれた青苦葉入りの麦酒、そして最後に食べた羽脚鳥の卵焼きだった。どれも今朝の時点では食べる予定のなかったものばかりで、予定どおりだったのは七百ゴールドまで使っていいと決めたことくらいかもしれない。
それでも予算は守れている。
「隣の人が食べてる、それくださいって、結構いい注文方法かも」
もちろん毎回やるわけにはいかないし、隣の人が高級料理を食べていたら困るし、量が多すぎるものでも困る。それでも、自分では選ばなかった料理と偶然出会えるという意味では悪くない。
今日の私は尖耳狐を追いかけ、知らない魚を食べ、昼間に守った鳥と同じ種類の卵まで食べた。最初から全部決めていたら、たぶんこんな一日にはならなかっただろう。
仕事でも酒場でも、自分で決めて動くことは大事だけれど、たまには目の前に出てきたものへ乗ってみるのも悪くない。しかも今日は九十ゴールドを残したまま、腹も気持ちも十分満たされている。
全部使い切らなくても、予定どおりでなくても、最後に美味しかったと思えたならそれでいい。
そんなことを考えながら、私はまだ口の中に残っている平尾魚の香ばしい脂を思い出しつつ、《銀鈴の宿》へ戻った。




