第8話「修理代を払ったら三百ゴールドしかない」
朝、いつものように《銀鈴の宿》を出る前に短剣を腰へ差そうとして、鞘の金具がまた少し浮いていることに気づいた。
昨日までも完全に問題がなかったわけではなく、刃には小さな欠けがあり、柄へ巻かれた革もところどころ緩み始めていたし、鞘の留め具については歩くたびにわずかな音がしていた。それでも切れないわけではないし、抜けないわけでもないので、もう少し使えるだろうと先延ばしにしていたのだけれど、今朝は指で金具を押しただけで小さくぐらついた。
「……これは、さすがに駄目かなぁ」
武器の扱いに詳しいわけではない私でも、何となく分かる。こういうものは、完全に壊れてから直す方が高くつく。
前の世界でも似たようなことはあった。靴底が少し剥がれているのにまだ履けるからと放置し、雨の日に盛大に浸水して結局買い替えたり、スマートフォンの充電ケーブルが接触不良なのに角度を調整しながら使い続け、最後にはまったく充電できなくなったりした。そして今、私は同じことを短剣でやろうとしている。
「武器でそれやるのは、さすがに駄目だよね」
短剣は趣味で持ち歩いている道具ではなく、仕事に使い、場合によっては自分の命まで守ってもらうものなのだから、完全に壊れるまで使い続けるわけにはいかない。昨日は柵の修理だけだったので使わなかったけれど、今日は依頼板に何が残っているか分からず、もし魔物を相手にする仕事を取るなら、この状態のまま使うのは少し怖かった。
仕方なく朝食を済ませたあと、冒険者ギルドへ向かう前に武具店へ寄ることにした。
店は西門へ向かう大通りの途中にある《鉄釘屋》という小さな武具店で、以前にも刃を研いでもらったことがある。入口の壁には剣や槍ほど目立つものではなく、革紐や砥石、鞘の金具、小型の盾など、冒険者が日常的に使いそうな道具が所狭しと並んでいた。
「おはようございます」
「おう」
奥から出てきたのは、四十代くらいの男性だった。短く刈った茶髪に太い眉があり、指先には黒い油汚れが染みついている。
「短剣、見てもらえますか?」
「出してみな」
鞘ごと渡すと、男はまず鞘を振り、次に金具を指で押し、それから短剣を抜いて刃を光へ透かした。
「よく使ったな」
「そんなに駄目ですか?」
「駄目ってほどじゃねぇけど、このまま使うなら近いうちにもっと金かかる。刃先が二か所欠けてるし、刃全体も少し寝てる。柄巻きも替えた方がいいし、鞘の留め金は打ち直しだ」
聞いているうちに、嫌な予感がどんどん具体的な金額へ変わっていく。
「全部で、いくらですか?」
「六百八十」
「……六百八十」
思わず聞き返した。
「高いか?」
「高いです」
「なら刃だけにするか?」
「それだといくらです?」
「三百二十」
「柄と鞘は?」
「そのままでも今日明日で壊れるとは言わねぇ。ただ、戦ってる最中に柄がずれたり、走ってるときに鞘が外れたりしても知らん」
「それ聞いたあとで刃だけにする人います?」
「いるぞ。金ないやつはな」
「現実的だなぁ」
修理代は六百八十ゴールドで、昨日の夜に《黒麦房》で使った四百五十ゴールドよりも高かった。麦酒なら何杯飲めるだろうと一瞬考えてしまい、すぐに考えるのをやめた。今その換算をすると、本当に修理を頼みたくなくなる。
「全部お願いします」
「今日使うか?」
「仕事探しに行くつもりです」
「なら昼までにやる。代わりの短剣貸すぞ。古いが使える」
「助かります」
預け代わりの木札を受け取り、六百八十ゴールドを先に払う。革袋から硬貨が減っていく音は小さいのに、気持ちの中ではかなり大きな穴が開いたような気がした。
「修理代、こんなにするんだ……」
「刃物使って稼ぐなら必要経費だ」
「分かってます。分かってるんですけど」
店主が笑う。
「飲み代削られた顔だな」
「そんなに分かりやすいですか?」
「冒険者は大体その顔する」
「仲間が多くて安心しました」
借りた短剣を腰へ差し、《鉄釘屋》を出る。
朝から六百八十ゴールドの出費というのは、かなり重い。昨日の夜、五百ゴールドまで使っていいと言いながら四百五十で止めた自分を褒めたいくらいで、あのとき予算を少し超えていたら、今もっと嫌な気分になっていた気がする。
「今日はちゃんと稼がないとなぁ」
ギルドへ着き、依頼板を見る。
できれば修理代を丸ごと取り返せるくらいは稼ぎたい。
討伐依頼を見ると、北側の森で牙猪二頭、報酬千八百ゴールドというものがあった。昨日までなら少し迷ったかもしれないが、今腰にあるのは借り物の短剣だし、使い慣れていない武器で牙猪を相手にする気にはなれない。
別の紙を見る。
《南東農道・小型害獣駆除。泥角鼠の目撃多数。畑周辺の巡回および駆除。報酬千百ゴールド》
「これくらいかな」
泥角鼠という名前からして、それほど大きな相手ではなさそうに思えるし、報酬も千百ゴールドある。
受付へ持っていくと、いつもの受付嬢が内容を確認した。
「泥角鼠ですね。南東農道沿いの根菜畑で増えているそうです。最低三匹の駆除確認で達成、四匹以上でも追加報酬はありません」
「追加ないんですね」
「害獣駆除なので定額です」
「そういう日もあるか」
「牙猪にします?」
「今日は借り物の短剣なのでやめます」
「修理ですか?」
「六百八十ゴールドでした」
「ああ……」
受付嬢の顔に、少しだけ同情が浮かんだ。
「やっぱり高いですよね?」
「必要経費ですから」
「武具屋と同じこと言う」
「でも高いですよね」
「ですよね」
少しだけ救われた。
依頼場所を確認し、南東門から街の外へ出る。
農道を歩いて三十分ほど進むと、低い木柵で囲まれた根菜畑が見えてきた。土の表面にはところどころ掘り返された跡があり、畑の端では小柄な農夫が腕を組んで待っていた。
「ギルドの人か?」
「はい。ミサキです」
「オルドだ。昨日だけで白根を七本やられた。朝も穴が増えてる」
「泥角鼠って、どのくらいの大きさですか?」
「犬くらいだな」
「鼠って名前なのに?」
「でかい鼠だ」
「そういうことか」
最近、名前だけで大きさを想像するのは危険だと学んできた。
オルドに畑の端を案内してもらう。
「穴はこの辺だ。頭に短い角が一本あるから、見れば分かる。噛むより突っ込んでくる方が多い」
「速いです?」
「そこそこ。けど曲がるのは苦手だ」
「それ助かります」
「畑の中まで追い回すなよ。作物踏んだら鼠より迷惑だ」
「それは絶対気をつけます」
今回の仕事では、泥角鼠を倒すことだけではなく、畑そのものを荒らさないことも同じくらい大事らしい。相手を追いかけることに夢中になって作物を踏み荒らしたら、本当に何をしに来たのか分からなくなる。
私は借りた短剣を抜き、いつものものより少し軽い感触を確かめながら畑の周囲を歩いた。
最初の一匹はすぐに見つかった。
土の盛り上がりが動いたと思った次の瞬間、灰褐色の毛をした動物が穴から飛び出してくる。確かに大きさは中型犬くらいあり、額の中央には短く黒い角が一本生えていた。
「それ鼠なの?」
思っていた鼠からかなり遠い。
こちらに気づいた泥角鼠は低い姿勢になり、次の瞬間にはまっすぐこちらへ走ってきた。オルドの言葉どおり速いが、動きそのものは単純で、横へ避けるとそのまま通り過ぎ、急に曲がり切れず少し大きく回る。
「なるほど」
二度目の突進に合わせて身体をずらし、横を通る瞬間に短剣を首の近くへ入れる。借り物なので少し感覚が違ったが、刃は問題なく入った。
一匹目を仕留めたあとも、そのまま畑の縁を巡回し、掘り返された土の近くを順番に調べていった。二匹目は木柵の外側で見つけ、三匹目は浅い穴の中に潜んでいたので、どちらも畑へ入り込ませないよう位置を見ながら対処する。
最後の四匹目だけは少し面倒で、こちらを見た途端に畑側へ逃げようとしたため、作物の列へ入られる前に回り込み、農道側へ追い出してから仕留めた。
四匹目を倒したところで畑を振り返って確認すると、踏み荒らした作物もなければ壊した柵もなく、依頼人から注意された条件はきちんと守れていた。
「よし」
今日はそれが一番大事だった。
オルドを呼ぶと、四匹の泥角鼠を確認してくれた。
「十分だ。穴もこの四つで大体合ってる」
「まだいる可能性は?」
「ゼロじゃねぇが、今日のところはこれでいい。また増えたら依頼出す」
「畑、踏んでないですよね?」
「見てた。ちゃんと外へ追ったな」
「そっちの方が緊張しました」
「作物は金だからな」
「分かります」
今日の私は朝から金の話ばかりしている気がする。
報告用の角を四本受け取り、街へ戻る途中で昼食を取ることにした。
農道沿いの小さな屋台で黒パンと薄切り燻製肉を買い、水を補充する。合わせて百ゴールドで、昨日とほぼ同じくらいの出費になった。
パンをかじりながら、頭の中で今日の金額を整理する。
朝の修理代が六百八十ゴールドで、昼食と水が百ゴールド、これから受け取る報酬が千百ゴールドなので、単純に差し引きすると今日の仕事で増えるのは三百二十ゴールドしかない。
「三百二十かぁ」
宿代まで考えれば、ほとんど残らない。
もちろん、修理代を全部今日一日だけの出費として考える必要はない。短剣はこれから何日も使うものだし、財布には昨日までの蓄えもある。
理屈では分かっている。
それでも、今日の報酬千百ゴールドという数字を見ながら、そのうち六百八十がすでに武具屋へ消えていると思うと、何となく寂しい。
「必要経費って言葉、嫌いになりそう」
前の世界でも交通費や仕事用の靴、昼食、クリーニング代など、働くために必要なのに自分ではあまり嬉しくない出費はあった。給料をもらうために金がかかるというのは、よく考えると少し理不尽な気もする。
でも、働くための道具が必要なのはこの世界も同じで、むしろ短剣の場合は壊れれば命に関わるぶん、文句を言っても払うしかない。
ギルドへ戻ると、泥角鼠四匹の証明を確認され、予定どおり千百ゴールドを受け取った。
「達成です。お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
革袋を受け取った瞬間だけは嬉しいのに、すぐに朝払った六百八十ゴールドを思い出してしまう。
「一回増えて、一回減った気分だなぁ」
「修理代のことですか?」
「そうです」
「ちゃんと直す方が結局安いですよ」
「みんな同じこと言うなぁ」
「事実なので」
「分かってます」
受付嬢に苦笑しながら礼を言い、ギルドを出る。
次は《鉄釘屋》へ短剣を受け取りに行く。
店へ戻ると、朝預けた短剣はすでに仕上がっていた。
「ほら」
店主から渡される。
刃はきれいに研ぎ直され、小さかった欠けも目立たなくなっている。柄の革は新しく巻き直され、握ったときの感触が朝とはまるで違い、鞘へ入れてみてもぐらつきはない。
「すごい」
「金取ってるからな」
「六百八十ゴールドの重みを感じます」
「ちゃんと手入れしろ。汚れたら拭け。刃が欠けたら早めに持ってこい」
「はい」
「そうすりゃ次は六百八十もかからん」
「それ先に知りたかったです」
「前も言ったぞ」
「……聞いてなかったかも」
「酒のことばっか考えてんじゃねぇのか?」
「否定しにくいなぁ」
借りていた短剣を返し、自分の短剣を腰へ戻す。収まりがよく、それだけで少し安心した。
店を出たところで、改めて今夜の予算を考える。
今日の報酬は千百ゴールドで、修理代が六百八十、昼食と水が百なので、そこまでで残るのは三百二十ゴールド。さらに宿代三百まで今日の収支へ入れてしまえば、夜に使える金なんてほとんどなくなる。
「でも、それはさすがに寂しい」
財布全体にはまだ蓄えがある。
だから今日は、修理代を払ったあとの三百二十ゴールドをそのまま夜の上限と考えることにした。
「三百ゴールドにしよう」
昨日は五百、その前は三百五十、そして今日は三百。修理代を払った日の夜なら、このくらいがちょうどいい。
「三百でも飲める店はある」
以前なら二百九十ゴールドでも麦酒を二杯飲み、豆と茸まで食べられたのだから、一杯と何か温かいものくらいなら十分探せるはずだ。
一度宿へ戻り、短剣を部屋へ置いてから夕方の街へ出る。
今日は最初から安い店を探す。
大通り沿いではなく、南西側の住宅街へ入っていくと、小さな食堂や酒場が増えてきた。仕事帰りの職人より、近所に住む人たちがそのまま寄るような店が多いらしい。
一軒目の品書きでは麦酒が百五十ゴールドだったので、料理まで頼むと三百では少し厳しい。二軒目は串焼きが安かったものの酒が百六十ゴールドするため見送り、さらに角を曲がったところで、今度は温かい湯気に混じって塩気のある出汁のような香りが流れてきた。
「今日はこういうのかも」
朝から修理代のことばかり考えていたせいか、豪華なものを食べたいという気分にはなっていない。それより、安くて温かくて、腹へ落ち着くものが欲しかった。
匂いを追っていくと、小さな土壁の店が見つかった。
入口の上には丸い土鍋を描いた木札があり、その横へ《土鍋屋 ロッカ》と書かれている。
品書きを見る。
《麦酒 百ゴールド》
《塩漬け菜 五十ゴールド》
《焼き豆 七十ゴールド》
《根菜煮 九十ゴールド》
《黒パン 四十ゴールド》
《日替わり土鍋 百六十ゴールド》
値段は全体的に安く、しかも温かい料理が多いため、予算三百ゴールドでも酒と食事を十分に組み合わせられそうだった。
私はそのまま扉を開けた。
「いらっしゃい」
店の中は小さく、二人掛けの卓が四つと、壁沿いに細いカウンターが五席ほど並んでいた。奥には大きな竈があり、その上で大小いくつもの土鍋から湯気が立っている。
店主らしいのは、五十代後半くらいの小柄な女性だった。
茶色と灰色の混じった髪を後ろで丸くまとめ、袖を肘まで上げている。身体は小さいのに動きはかなり速く、客へ料理を出したかと思えばすぐ竈へ戻り、別の鍋の蓋を開けていた。
「一人?」
「はい」
「そこ空いてるよ」
カウンターの端へ座る。
改めて品書きを見ると、麦酒が百ゴールドで日替わり土鍋は百六十ゴールドだから、両方頼んでも二百六十。そこへ黒パンを足せば四十ゴールド増えて、ちょうど三百になる。
「完璧じゃない?」
「何が?」
店主がこちらを見る。
「予算です」
「知らないよ」
「ですよね」
ただ、日替わり土鍋の中身が分からない。
「今日の土鍋って何ですか?」
「根菜と白豆、それに角豚の端肉。塩と香草で煮てる」
「それください。あと麦酒と黒パン」
「三百ちょうど」
「本当に完璧だった」
「変な客だねぇ」
店主が笑いながら注文を通す。
まず麦酒が出てきた。
薄い琥珀色で、昨日飲んだ《黒麦房》の三種類よりかなり素朴な見た目をしている。泡は少なく、冷たさも控えめだった。
一口飲むと、麦の香りは軽く、苦味も弱い。昨日のように香りの違いを細かく考えるための酒ではなく、食事と一緒に気楽に飲むための麦酒という感じだった。
「今日はこれでいいなぁ」
「今日は?」
「昨日ちょっと麦酒を飲み比べる店に行ったんです」
「へぇ。どこ?」
「《黒麦房》」
「あそこは酒が主役だからね。うちは飯が主役」
「分かりやすい」
「酒だけ飲みたいなら、うちより向こう行った方がいいよ」
「今日はご飯も食べたいので大丈夫です」
「なら合ってる」
店によって自分たちの立ち位置がはっきりしているのは面白い。同じ街に同じ麦酒を出す店がいくつもあっても、何を中心に置くかで全然違う。
昨日は酒を知るために店へ入り、今日は三百ゴールドで腹と気持ちを落ち着かせるために入っている。目的が違えば、選ぶ店も変わる。
「はい、黒パン」
先に出てきた黒パンは、小さめの厚切りが二枚だった。表面は少し硬く、持つとしっかり重い。
そのあとすぐ、店主が小さな土鍋を布でつかみながら持ってきた。
「熱いから鍋触るんじゃないよ」
「はい」
蓋を開けると湯気が一気に上がり、薄く濁った汁の中に白い豆と数種類の根菜、小さく切った肉が見えた。表面には細かな緑の香草が浮かび、油はほとんど見えない。
「いい匂い」
朝から金のことばかり考えていた頭が、ようやく料理へ向いた。
木匙ですくい、最初に白い根菜を一つ取って食べてみると、かなり柔らかく煮えていて、噛むとわずかに繊維が残り、そのあとから根菜らしい穏やかな甘みが出てきた。
「これ何ですか?」
「白紐根」
「前にも食べたことあるかも」
「よく使うからね」
そう言われて思い出す。
以前食べた骨出汁麺にも、似た白い根菜が入っていた。ただ、料理が変わると印象も違い、今日は肉の出汁よりも根菜そのものの甘さが前へ出ている。
次に黄色い根菜を食べると、ほくっとした食感のあとに少し栗に近い甘さが広がった。
「これは?」
「黄土芋。煮ると崩れやすいから最後に入れる」
「じゃがいもみたい……でも甘いな」
「じゃがいも?」
「前にいたところの芋です」
「芋なら似たようなのはどこにでもあるよ」
「そうなんですよね。でも全部ちょっと違う」
黄土芋は食感だけならじゃがいもに近かったが、味はもっと甘く、香りには少し土っぽさがある。白豆は柔らかく煮崩れ、汁へ少しとろみをつけており、角豚の端肉は小さく脂身もそれほど多くないけれど、噛むとしっかり肉の味がした。
「これ、端肉なんですよね?」
「そう。大きいところは焼き物に回る。切れ端は鍋」
「無駄がないなぁ」
「金払って仕入れてるんだから、捨てたら損だろ」
「それはそうです」
今日の自分には、その考え方が妙に響いた。
高い部分だけが料理になるわけではなく、余った部分や安い部分にも、それに合った食べ方がある。それは食材だけではなく、お金にも似ている気がした。
千ゴールド使える夜なら厚切り肉を選べばいいし、三百ゴールドしか使えない夜なら、その三百ゴールドで美味しく食べられる店を選べばいい。安い夜が、高い夜の劣化版である必要はない。
「なるほどなぁ」
「また何か考えてるの?」
「ちょっとだけ」
「食べながら難しいこと考えると冷めるよ」
「それは困る」
急いで二口目を食べる。
汁は見た目よりあっさりしていて、塩を中心に肉と豆、根菜から出た味をまとめる程度の香草が使われていた。前の世界の豚汁に似ていると言えば少し似ているし、豆のスープに肉を入れたものとも言えるけれど、味噌はなく、出汁の作り方も違う。
似た料理を探そうとすると、結局どれにも完全には当てはまらなかった。
「もう、根菜煮でいいか」
「それ根菜煮じゃなくて日替わり土鍋だけどね」
「聞こえてた」
「声出てるよ」
最近よく言われる。
麦酒を一口飲むと、濃い酒ではないので温かい鍋の味を邪魔せず、むしろ塩気のある汁を飲んだあとに麦酒を流すことで口の中が少し軽くなり、また鍋へ戻りたくなる。
黒パンをちぎって汁へ浸し、少し待ってから食べてみると、硬かったパンが汁を吸って柔らかくなり、黒パン特有の少し酸っぱい香りまで豆のとろみと混ざっていた。
「これ絶対合うやつだ」
「今食べてから言っただろ」
「食べる前から分かってました」
「じゃあ最初から入れればよかったのに」
「最初はそのまま食べたいんです」
「面倒だねぇ」
「食べ方には順番があるんですよ」
店主は笑いながら次の鍋へ蓋をした。
「パン入れる人、多いですか?」
「最後は大体そうするね。汁残すともったいないし」
「それも無駄がない」
「うちはそういう店だよ」
店内を見回すと、客は六人ほどいて、仕事帰りらしい人もいれば、近所の住民らしい年配の夫婦もいる。
私の斜め後ろでは、作業着姿の男性二人が焼き豆をつまみながら話していた。
「車輪の軸、また替えろってよ」
「先月替えたばっかだろ」
「安い木使ったからだって」
「最初からいいの使えばよかったじゃねぇか」
「親方が安いのでいいって言ったんだよ」
「で、結局二回払うのか」
「そういうこと」
その会話を聞いた瞬間、今日の自分とほとんど同じではないかと思って、思わず匙が止まった。
「分かるなぁ」
小さく呟いたつもりだったが、近い方の男に聞こえた。
「何が?」
「私も今日、短剣の修理に六百八十ゴールド払ったので」
「六百八十?」
「刃と柄と鞘全部です」
「高ぇな」
「ですよね?」
「でも武器なら直すしかねぇだろ」
「それ、今日四回くらい言われてます」
男が笑った。
「必要なもんに金かかるのが一番腹立つんだよ」
「すごく分かります」
「酒なら使った気するけどな」
「そうなんです。修理代って払っても何か買った感じしないんですよ」
「いや、直ってるだろ」
もう一人が冷静に言う。
「それは分かってるんですけど」
「気分の話だよな」
「そうです」
妙に意気投合した。
前の世界でも、税金や保険料、家電の修理費、歯医者代のような出費は、必要だと分かっていても楽しくなかった。何か新しいものを手に入れたわけでもないのに財布だけ軽くなったような気がする。
でも、本当は何も残っていないわけではなく、壊れない状態を維持するために払っている。明日も同じ道具を使って仕事をするための金だ。
「働くって、お金もかかるんだなぁ」
「そりゃそうだ」
男が焼き豆を口へ放り込む。
「道具なきゃ仕事できねぇ」
「ですよね」
「だから仕事して道具直す。直した道具でまた仕事する」
「終わらないですね」
「生きてる間はな」
「急に深い」
「別に深くねぇよ」
周りが少し笑った。
私は土鍋へ戻る。
汁は少し冷めてきたが、そのぶん味が分かりやすくなっていた。白豆の甘み、黄土芋のほくっとした食感、白紐根の柔らかな繊維、角豚の小さな肉片がそれぞれ残っていて、一口ごとに少し違う。
昨日飲んだ三種類の麦酒のように一口ごとの驚きがあるわけでもなく、赤角牛の厚切り炭焼きほどご褒美らしい豪華さもない。それでも土鍋はしっかり温かく、豆と根菜のおかげで腹にも溜まり、三百ゴールドの予算で麦酒まで飲めるのだから、今日の自分にはそれで十分だった。
「今日これで正解だったなぁ」
店主が鍋を洗いながらこちらを見る。
「安いから?」
「それもあるけど、今日は高いもの食べる気分じゃなかったです」
「金ない日?」
「金がないというより、修理代払った日です」
「ああ。じゃあ金ない日だ」
「そう言われると悲しい」
「でも三百あるんだろ?」
「あります」
「なら飯と酒は出る」
「そうなんですよね」
単純だけれど、その通りだ。
三百ゴールドしかないと考えれば寂しいけれど、三百ゴールドあると考えれば、実際に今こうして麦酒と温かい土鍋、それに黒パンまで食べられている。言い方を変えただけで、少し気分まで変わる。
最後の黒パンで残った汁を吸い、鍋をほとんど空にした。
麦酒もあと少ししか残っていない。
追加注文はできない。
予算三百ゴールドを最初の注文で全部使ったからだ。
品書きにある塩漬け菜五十ゴールドが少し気になり、隣の客が食べている焼き豆も香ばしそうに見える。それでも今日は使わないと決めた。
修理代を払った日に、ここから「五十くらいいいか」を始めると、何のために三百と決めたのか分からなくなる。
「追加いらない?」
店主に聞かれた。
「今日は三百って決めてきたので」
「ちょうど使ったね」
「完璧でした」
「じゃあ終わりでいいじゃない」
「ですね」
昨日は予算五百の中から五十残し、今日は三百を全部使った。どちらが正しいわけでもなく、その日の財布と、その日の気分に合わせればいいのだと思う。
私は残っていた麦酒をゆっくり飲み切った。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
「土鍋、美味しかったです」
「また違うの煮てる日もあるけどね」
「今日は今日のがちょうどよかったです」
「そりゃよかった」
私は席を立つ。
会計は注文時に確認した通り、麦酒百ゴールド、日替わり土鍋百六十ゴールド、黒パン四十ゴールドで、合計三百ゴールドだった。
財布の中にはもちろんまだ金があるけれど、今日の夜用として分けてきた小袋はきれいに空になっている。
店を出ると、夜の住宅街は大通りより静かだった。
昼間に直してもらった短剣は今、宿の部屋に置いてある。
改めて六百八十ゴールドという金額を思い出すと、やっぱり高い。麦酒なら六杯以上飲めるし、今日の夕食なら二回分になる。
それでも、明日また仕事へ行くときには、その短剣を腰へ差す。刃の欠けを気にせず使えて、柄がずれる心配もなく、鞘が外れる不安もないと考えれば、何も残らない出費ではなかった。
今日の報酬は千百ゴールドで、昼食と水に百ゴールド、修理代に六百八十ゴールド、夜の食事と酒に三百ゴールドを使った。今日という一日だけを切り取れば、ほとんど稼ぎが残っていないけれど、それでも短剣はきちんと直り、腹はいっぱいになり、麦酒も一杯飲めている。
朝に六百八十ゴールドと聞いたときは、今夜はまともに飲めないかもしれないと思っていた。でも実際には、三百ゴールドあれば温かい土鍋と黒パン、それに麦酒まで楽しめた。
「修理代を払ったら三百ゴールドしかないって思ってたけど……三百あれば、ちゃんと飲めるんだなぁ」
昨日までより贅沢な夜ではないけれど、安いから我慢したという感じもしなかった。その日の稼ぎや出費、それからその日の気分に合う店を探せば、使える金額が少ない日にも、その日なりの楽しみ方はちゃんとある。
そう思えるようになっただけでも、少しずつこの街で暮らすのが上手くなってきたのかもしれない。
もっとも、できれば明日は修理代のかからないまま仕事を終えたい。
そんな現実的な願いを抱えながら、私は静かな住宅街を抜け、《銀鈴の宿》へ戻った。




