第7話「ビールじゃない。でも、もう一杯」
昨日の朝から予想していた筋肉痛は、残念ながら予想を裏切ってくれなかった。
目を覚まして最初に感じたのは腕よりも腰の重さで、ベッドから身体を起こした瞬間、昨日何度も抱えた穀物袋の感触まで思い出した気がした。痛くて動けないほどではないけれど、何も考えず勢いよく起き上がったことだけは少し後悔する程度には、背中から腰にかけてしっかり疲れが残っている。
「来るって言われてたけど、本当に来たなぁ」
昨日《風桶》で話した大柄な男から、「明日来るぞ」と言われていた。そのときは軽麦酒を二杯飲んで気分がよくなっていたので、まあ寝れば何とかなるだろうと思っていたけれど、身体というものは酒場での楽観論には付き合ってくれないらしい。
ゆっくり着替えて一階へ下り、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取る。
今日の朝食は黒パンに焼いた卵、それから薄い豆のスープだった。卵は前の世界の鶏卵より少し小さく、黄身の色が濃い。塩だけで焼かれているのに味がしっかりしていて、パンを少しずつスープへ浸しながら食べていると、身体の内側からようやく起きてきたような気がした。
「今日は昨日より軽い仕事にしよう」
ここ数日、この言葉を何度口にしたか分からない。
軽い仕事をすると決めて倉庫へ行き、穀物袋を何十個も運んだのが昨日である。戦闘がないという意味では確かに軽かったのかもしれないが、少なくとも身体はそう判断してくれなかった。
とはいえ、今日一日まったく働かないという選択肢もないわけではない。
ここ数日の報酬のおかげで財布にはまだ余裕があるし、一日休んだからといってすぐ宿代が払えなくなるわけでもない。それでも朝食を食べながら財布の中身を思い浮かべると、何となく落ち着かなかった。
この世界へ来てから、私の中には妙な習慣ができている。
夜に飲むなら、できればその日に何かしら働いておきたい。別に誰かに決められたわけではないし、昨日までの金で飲んだところで何の問題もないのに、朝から何もしないまま夕方を迎えると、酒場へ入るときに少しだけ後ろめたくなりそうな気がする。
「完全に自分ルールなんだけどね」
前の世界でも、休日の昼から飲むことはあったし、むしろ休みの日に飲む酒は好きだった。だから「働かなければ飲んではいけない」と本気で思っているわけではない。ただ、この世界では仕事を自分で選び、終わればその場で報酬を受け取り、その金額を見て今夜の店を決めるという流れそのものが、少しずつ生活の一部になってきているのだと思う。
「今日は本当に軽いやつ。今度こそ」
朝食を終え、私は冒険者ギルドへ向かった。
依頼板の前は朝からそれなりに混んでいたが、今日は討伐依頼を最初から候補から外し、護衛も昨日までの疲れを考えて見送ることにした。荷運びという文字を見つけた瞬間には、昨日の腰が思い出したように重くなった気がしたので、それも避ける。
そうして条件を絞っていくと、仕事というものは意外と残らない。
「楽して稼げる依頼、ないかなぁ」
「あるなら俺が取るよ」
横にいた若い冒険者に即答された。
「ですよね」
「腰痛いのか?」
「昨日、南倉庫で荷運びしてました」
「ああ、あれか。俺、一回やって二度と取ってない」
「そんなに?」
「剣振ってる方が楽だった」
「分かる気がしてきました」
妙なところで共感してから、再び依頼板を見る。
端の方に、小さな紙が残っていた。
《西側共同畑・外柵補修補助。破損箇所確認済み。木杭交換、縄張り直し。半日程度。報酬九百五十ゴールド》
「これなら……」
柵の修理なら少なくとも魔物と戦う必要はなさそうで、昨日のように荷物を延々と運び続ける仕事でもない。しかも報酬は九百五十ゴールドあり、昨日より百五十多い。
「木杭って、重いかな」
昨日の経験があるので、そこだけ慎重になる。
受付へ持っていき、内容を確認した。
「西側共同畑の外柵補修ですね。破損箇所は四か所で、現地の農夫と一緒に作業します。交換用の杭と工具は現地にあります」
「杭って、一人で何本も運んだりします?」
「交換場所の近くまで荷車で運ばれているはずです」
「取ります」
「判断が早いですね」
「昨日ちょっとありまして」
受付嬢は詳しく聞かなかった。
集合場所を確認し、私は西門へ向かう。
共同畑は街の外へ出てすぐの場所にあり、歩いて二十分ほどだった。麦畑や豆畑が広がる一角を、腰より少し高い木柵が長く囲んでいる。
その柵のそばに、小さな荷車と三人の男がいた。
「ギルドから来た人か?」
声をかけてきたのは、四十代くらいの農夫だった。日に焼けた顔に短い灰色の髭があり、肩幅は広い。
「ミサキです。柵の補修で来ました」
「俺はゲルン。こっちはうちの若いの二人だ。昨日の夜、角鹿が突っ込んだらしくてな。四か所やられてる」
「角鹿?」
「畑の芽を食いに来る。追い払えば逃げるんだが、柵だけは壊していきやがる」
「今日は来ませんよね?」
「昼間はまず来ねぇよ」
「よかった」
「そんなに戦いたくないのか?」
「今日は腰が痛いので」
「正直だな」
ゲルンが笑った。
最初の破損箇所へ案内されると、確かに木柵の一部が大きく内側へ倒れていて、杭が一本根元から折れ、横木も外れていた。
「これを抜いて、新しい杭を打つ。縄も張り直すぞ」
「分かりました」
作業そのものは難しくなかった。
折れた杭の周囲を小さな鍬で掘り、根元を引き抜く。新しい杭を穴へ立て、二人で位置を合わせながら大きな木槌で地面へ打ち込んでいく。
最初の一発を私が打ったところで、昨日とは違う場所へ衝撃が響いた。
「今度は肩かぁ」
「腰よりましだろ」
ゲルンが言う。
「明日にならないと分からないです」
「若いのに年寄りみたいなこと言うな」
「昨日も若いから大丈夫って何回も言われました」
「じゃあ大丈夫だ」
「根拠が増えてないんですよ」
笑いながら、もう一度木槌を振る。
穀物袋を延々と運ぶよりはずっと楽だった。一か所終われば少し歩き、次の破損箇所を直す。作業内容も杭を替える場所、縄だけ張り直せばいい場所、横木を固定し直す場所と少しずつ違うので、昨日のように同じ動作を何十回も繰り返す単調さもない。
二か所目を終えたところで、若い農夫の一人が水筒を差し出してきた。
「飲む?」
「ありがとうございます」
「昨日暑かったから、角鹿も水探してこっち来たんだと思う」
「畑の作物を食べに来たんじゃないんですか?」
「それもある。あいつら何でも食うから」
「鹿っぽいですね」
「鹿っぽい?」
「いえ、何でもないです」
この世界へ来てから、前の世界の動物に似た名前や姿の生き物をかなり見てきた。角兎や牙猪、角鹿など、見た目や呼び名にどこか馴染みを感じるものは多いけれど、似ているからといってまったく同じ生き物ではない。
食べれば味も違うし、生態も少しずつ違う。
最近は料理でも同じことを考えるようになっていた。麦酒やパン、煮込みや串焼きといった名前や見た目だけなら前の世界で知っているものに近いのに、実際に口へ入れると少しずつ違う。
「似てるけど、同じじゃないんだよなぁ」
「何が?」
ゲルンに聞かれた。
「角鹿です」
「そりゃ角鹿は角鹿だろ」
「そうですよね」
こちらの人にとっては当然だった。
昼前には三か所目まで終わり、最後の一か所は縄を張り直すだけだったので、予定より少し早く仕事が終わった。
ゲルンが柵を一通り確認し、問題がないことを確かめる。
「これでいい。助かった」
「終わりですか?」
「ああ。完了票はこっちから出しとく」
「ありがとうございます」
「また壊されたら依頼出ると思うぞ」
「角鹿次第ですね」
「毎年何度かやられる」
「大変だなぁ」
「そのぶん、お前らの仕事にもなるだろ」
「それはそうなんですけど」
畑が壊されることを期待するのも違う気がする。
私はゲルンたちと別れ、リーベルへ戻った。
今日は昼食を持ってきていなかったので、西門近くの屋台で焼き薄パンと豆肉の挟み焼きを買った。薄いパンの間に潰した豆と細かく刻んだ燻製肉、それから香草が挟まれていて、値段は九十ゴールド。水の補充に十ゴールド使ったので、昼の出費は合わせて百ゴールドだった。
昨日の倉庫仕事より身体はずっと楽で、腰の筋肉痛は残っているものの、今日の作業で新しくどこかを痛めた感じもない。
「今度こそ軽い仕事だった」
それだけで少し嬉しくなった。
ギルドへ戻ると、すでに完了報告が届いていた。
「西側共同畑、外柵補修。確認済みです。報酬九百五十ゴールドになります」
「ありがとうございます」
革袋を受け取る。
昨日の八百ゴールドより百五十多く、それでいて身体の疲れは明らかに少ないのだから、今日はかなり理想に近い仕事だった気がする。
「こういうのでいいんだよなぁ」
「何か言いました?」
「いえ、理想的な仕事だったなと思って」
「人気はあまりありませんけどね」
「どうしてです?」
「九百五十ゴールドなら、討伐へ行く人の方が多いですから」
「私は柵でいいです」
「人それぞれですね」
本当にそう思う。
今日の仕事で使ったのは昼食と水の百ゴールドなので、実質的には八百五十ゴールド増えたことになる。宿代三百ゴールドを引いても、昨日より少し余裕がある。
「今日は四百五十……いや、五百まで使ってもいいかな」
ギルドを出てから考える。
報酬九百五十ゴールドから昼の百ゴールドと宿代三百ゴールドを引き、夜に五百ゴールド使えば、今日一日で残るのは五十ゴールドになる。
「五十かぁ」
大きく残るわけではない。
ただ、昨日は三百二十ゴールドしか使わなかったし、財布全体にはまだ余裕がある。
そして今日は、少し試してみたいものがあった。
昨日の《風桶》で軽麦酒を飲んだとき、店によって麦酒の作り方がかなり違うことを改めて感じた。《麦穂亭》のもの、《夕樽》の薄麦酒、《猪火亭》で肉に合わせて出された濃い麦酒、《炭角亭》の甘みのある一杯、そして昨日の仕事帰り向けの軽麦酒まで、どれも店では同じように「麦酒」と呼ばれているのに、味はかなり違っている。
「この世界のビールって、結局何なんだろう」
気になり始めると、飲みたくなる。
我ながら便利な思考回路だと思う。
「今日は五百。勉強代込み」
誰に言い訳しているのか分からない理由をつけ、今夜の予算を五百ゴールドに決めた。
一度宿へ戻り、汗を拭いて服を替える。
夕方になってから、私はいつもより少し目的を持って街へ出た。
今日は料理より、酒から店を探してみたい。
リーベルには酒場が多く、その中には料理を売りにする店もあれば、酒そのものを売りにしている店もあるはずだった。
市場の北側から職人街へ向かう途中、酒樽の印がついた看板を何軒か見つけた。一軒目は葡萄酒が中心らしく、入口の品書きを見ただけで予算五百ゴールドでは料理まで楽しむのが難しそうだったので諦める。二軒目は蒸留酒らしい透明な酒の瓶が並んでいて、昨日の筋肉痛が残る身体で強い酒を飲む気にはなれなかった。
三軒目は、店というより工房に近い外観だった。
入口の横に小さな樽が三つ並び、その上には黒く塗られた麦の穂を描いた木札が掛けられている。
《黒麦房》
「麦酒の店かな」
品書きを見る。
《淡穂 百ゴールド》
《黒穂 百三十ゴールド》
《香麦 百二十ゴールド》
《三種小杯 百八十ゴールド》
《麦粕焼き 八十ゴールド》
《塩燻豆 七十ゴールド》
《薄焼き腸詰め 百四十ゴールド》
《酢香菜 六十ゴールド》
三種類を少しずつ飲めるらしい《三種小杯》という文字を見つけた時点で、今日の店はほとんど決まった。
「今日はここだな」
扉を開ける。
店内は酒場というより、本当に小さな醸造所の一角をそのまま客席にしたような造りだった。壁際には大小いくつもの樽が積まれ、奥には銅色の大きな釜のようなものまで見える。
客席は四人掛けの卓が三つと、太い木材で作られたカウンターが八席ほどあり、店の中には麦の香りと少し甘い発酵臭が混じって漂っていた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥にいたのは、四十代後半くらいの男だった。
短い黒髪に灰色が混じり、鼻の下には短い髭がある。太い腕には細かな火傷の痕がいくつかあり、酒場の主人というより職人らしい雰囲気だった。
「一人です」
「好きなとこ座ってくれ」
私はカウンターの端へ座る。
「三種小杯って、三種類の麦酒ですか?」
「ああ。初めてならそれが分かりやすい」
「じゃあ、それください。あと塩燻豆」
「二百五十」
最初の注文は二百五十ゴールドで、今夜の予算五百ゴールドに対してちょうど半分になる。今日は最初から酒を比べるつもりなので、このくらい残しておけば追加もしやすい。
少し待つと、小さな木杯が三つ並べられた。
左は薄い金色、真ん中は琥珀色、右は濃い茶色で、同じ麦酒と呼ばれているものとは思えないくらい見た目から違っている。
「左から淡穂、香麦、黒穂。軽い順にな」
「全部、麦酒なんですよね?」
「そうだが?」
「こんなに色違うんだなぁ」
まず淡穂から飲む。
昨日の《風桶》で飲んだ軽麦酒に少し似ているが、こちらの方が麦の甘さがはっきりしていた。口当たりは軽く、苦味も弱いのに、飲み込んだあとには焼いた穀物のような香りが残る。
「これ、飲みやすいですね」
「淡穂麦を多く使ってる。苦葉は少なめだ」
「苦葉?」
「知らないのか?」
「たぶん」
主人がカウンターの下から乾燥した葉を一枚取り出した。
細長く、深い緑色をしている。
「麦酒に苦味と香りをつける葉だ。土地によって違う葉を使う」
「ホップみたいなものかな」
「何だそれ?」
「こっちの話です」
前の世界のビールにはホップが使われていたが、こちらでは苦葉という植物を使うらしい。役割は似ているけれど、同じものではない。
次に真ん中の香麦を飲む。
「……全然違う」
口へ含んだ瞬間、麦より先に草花のような香りが広がり、そのあとに少しだけ柑橘に似た爽やかさが出てくる。苦味は淡穂より強いものの、嫌な苦さではなく、飲み込んだあとまで香りが長く残った。
「これ好きかも」
「香苦葉を使ってる。東の丘で採れるやつだ」
「同じ麦酒でも、葉でこんなに変わるんですね」
「麦も違うぞ」
「そこも?」
「水も違えば変わる」
「そんなに?」
主人が少し呆れたような顔をする。
「麦から作りゃ全部同じ味になると思ってたのか?」
「そこまでじゃないですけど……」
でも、どこかでそう考えていたのかもしれない。
この世界では、麦から作る発泡性の酒を大きくまとめて「麦酒」と呼んでいるらしい。だから同じ名前でも、使う麦、苦葉、水、焙煎の仕方、発酵のさせ方で味がかなり変わる。
前の世界でビールと一口に言っても、いろいろ種類があったのと似ている。
「じゃあ、これもビールみたいなものではあるんだよなぁ」
「びーる?」
「前にいたところの麦酒です」
「似てるのか?」
「似てます。でも……」
もう一口、香麦を飲む。
草花のような香りの奥にわずかな柑橘の爽やかさがあり、そこへ麦の甘みが重なったあと、最後に香苦葉の心地よい苦味が残っていく。その一連の味をゆっくり確かめてみると、やはり前の世界のビールと単純に同じものだとは思えなかった。
「同じではないですね」
「そりゃそうだろ。知らん酒と同じにされても困る」
「ですよね」
主人の言い方に少し笑ってしまった。
そこで塩燻豆が出てきた。
小さな茶色の豆が殻つきのまま浅い皿へ盛られていて、表面には粗い塩が振られ、近づけるとしっかり煙の香りがした。
「これ、燻してあるんですか?」
「茹でてから軽くな」
一粒食べてみると、中は柔らかく少し粉っぽい。豆自体にはほんのり甘みがあるが、表面の塩と燻香がかなり強く、その味だけで自然に次の一口を飲みたくなる。
「酒飲ませる味だ」
「そのためのつまみだからな」
「正しい」
香麦を一口飲むと、燻製の香りが残った口へ草花のような麦酒の香りが重なり、想像していた以上に相性がよかった。
次は右端の黒穂。
色はかなり濃く、光に透かしても茶色に近い。
口へ含んだ瞬間、今までの二つとはまるで違う香ばしさが広がった。焦がしたパンの耳や深く煎った穀物を思わせる香りがあり、そのあとに少し苦味と甘味が来る。
「コーヒーっぽい……いや、違うな」
香ばしさだけなら少し思い出す。
黒ビールにも近い気はするけれど、それでもこちら独特の甘い穀物の余韻がある。
「黒穂麦を炒ってから仕込む」
「だからこんな色になるんですね」
「強い肉とか燻製に合わせるならこっちだな」
塩燻豆を食べてから黒穂を飲んでみると、淡穂では豆の燻製香に少し負けていたのに、黒穂はむしろ香ばしさ同士が重なり、味がさらに強くなった。
「面白いなぁ」
三つとも麦酒なのに、味はまるで違う。
前の世界のものと比べれば、どれも「ビールっぽい」と言えるのかもしれない。
ただ、飲めば飲むほど、その言い方だけでは足りない気がしてきた。
「ビールじゃないんだよなぁ」
小さく呟く。
「何が?」
主人に聞かれた。
「こっちの麦酒です。前にいたところの酒に似てるんですけど、飲むとやっぱり違うなって」
「なら別の酒なんだろ」
「簡単に言いますね」
「違うもんを無理に同じにする必要あるか?」
「……ないですね」
確かにない。
こちらへ来たばかりのころは、知らない料理や酒を口にするたび、前の世界の何に似ているかを探していた。鶏肉に近い、ステーキっぽい、ラーメンみたい、ポテトサラダに似ていると、知っている味へ置き換えた方が安心できたからだと思う。
でも最近は、少しずつ「似ているけれど違う」と思えるようになってきた。
砂走鳥は砂走鳥で、赤角牛は赤角牛。
そして、ここの麦酒はここの麦酒でいい。
「その方が楽しいかもなぁ」
「何が?」
「いえ。こっちの話です」
主人は肩をすくめた。
隣の席には、いつの間にか二人の男が座っていた。一人は革の前掛けをした職人風で、もう一人は商人らしい服装をしている。
「また黒穂か?」
「今日は香麦だ。明日朝早い」
「それで変わるのか?」
「気分は変わる」
「意味ねぇだろ」
二人が笑う。
「朝早いんですか?」
つい聞いてしまった。
「東門が開く前に荷を揃えろってよ」
職人風の男が答える。
「なのに注文来たの今日の昼だぞ」
「急ですね」
「商会のやつは『少しだけ早めに』って言いやがった」
「少しだけって便利な言葉ですよね」
「分かるか?」
「前の仕事でもよくありました。『少しだけ直して』が少しだったこと、あんまりないです」
「それだよ!」
男が杯を持ち上げた。
「少しって言ったやつに限って、自分でやらねぇんだ」
「すごく分かります」
世界が変わっても、「少しだけ」は危険な言葉らしい。
もう一人の商人が苦笑する。
「お前も断ればいいだろ」
「断ったら次の仕事来ねぇんだよ」
「じゃあやるしかないな」
「だから飲んでんだろ」
その理屈もよく分かる。
私も前の世界で、翌朝が早いのに一杯だけ飲んで帰ったことがある。早く寝た方が身体にはいいと分かっていても、そのまま帰ると一日が仕事だけで終わったような気がして、何となく悔しかった。
「仕事のあとに一杯欲しくなるの、どこでも同じなんだなぁ」
そう思いながら三つの杯を見ると、もうほとんど残っていなかった。
どれが一番好きかと聞かれれば、今のところ香麦だと思う。草花のような香りと、後から来る爽やかな苦味が気に入った。
私は予算を計算する。
三種小杯が百八十ゴールド、塩燻豆が七十ゴールドなので、ここまでで二百五十ゴールド。予算は五百ゴールドだから、残りも同じく二百五十ある。
香麦は一杯百二十ゴールドで、薄焼き腸詰めは百四十ゴールド。両方頼むと二百六十になり、予算を十ゴールドだけ超えてしまう。
「十足りないかぁ」
かなり惜しい。
香麦だけなら余裕だし、腸詰めだけでも問題ない。
ただ、今ちょうど目の前では隣の男が薄焼き腸詰めを食べている。
薄く切った腸詰めを鉄板で焼いたものらしく、端が少し反り返り、脂が表面で光っている。そこから香草と燻製の匂いが漂ってくる。
「……見なきゃよかった」
「何だ?」
隣の男がこちらを見る。
「それ、美味しそうですね」
「美味いぞ」
「予算が十ゴールド足りないんですよ」
「細けぇな」
「大事なんです」
私はもう一度考えた。
昨日なら、二十ゴールド足りなくて酢漬け根菜を諦めた。
今日も予算を十だけ超えれば、香麦と腸詰めの両方を頼める。
財布全体には金がある。
たった十ゴールド。
でも、こういう「たった十」を毎回許し始めると、そのうち二十、五十、百まで誤差として扱いそうで怖い。
「こういうところなんだよなぁ」
私は品書きを見直した。
《麦粕焼き 八十ゴールド》
「麦粕焼きって何ですか?」
主人に聞く。
「酒仕込んだあとに残る麦を、粉と混ぜて薄く焼いたやつ。腹に溜めるもんじゃないが、つまみにはなる」
「それください。あと香麦もう一杯」
「二百」
これなら合計四百五十ゴールドになり、予算内で五十ゴールド残る。
「腸詰め諦めたのか?」
隣の男に聞かれた。
「今日はこっちにします」
「十くらい出せばいいのに」
「昨日も似たこと言われました」
「毎日予算と戦ってんのか?」
「たぶん仕事より真剣です」
男が笑った。
香麦が今度は普通の大きさの木杯で出てきた。
三種小杯で味見したときより量があるぶん、口元へ運んだときに香りを強く感じる。草花を思わせる香りのあとに、少しだけ柑橘のような爽やかさが混じり、麦の甘みと苦葉の苦味がゆっくり残った。
「やっぱりこれ好きだな」
三種類を比べたあとで、もう一度飲みたいと思って選んだ。
それだけで、少し嬉しい。
そこへ麦粕焼きが来た。
見た目は薄い煎餅とパンの中間のようで、丸く平たく焼かれた表面には粗い塩と黒い小さな種が散っている。
「酒の残りから作るんですね」
「捨てるのもったいないからな」
一口かじってみると、表面はぱりっとしているのに完全に乾いているわけではなく、中にはわずかな柔らかさが残っていた。麦の香りがかなり強く、その奥には発酵由来なのか、ほんの少し酸味も感じる。
「これ、酒と同じ匂いする」
「同じ麦だからな」
「黒い種は?」
「焦香種。噛むと香るぞ」
言われた通り噛んでみると、最初に少し胡椒に似た刺激があり、そのあと木の実のような香ばしさが広がった。
香麦を飲む。
同じ麦を使っているからなのか、酒と麦粕焼きの香りが自然につながり、別々に口へ入れているのに一つの料理みたいにまとまって感じられる。
前の世界でも酒粕を料理に使ったり、ビールの原料を別の食品へ利用したりすることはあった。でも、この店ではそれが特別な料理というより、仕込みで出たものを無駄にしないための日常的なつまみになっているらしい。
「こういうの好きだなぁ」
「安いからか?」
「それもあります」
「正直だな」
「でも、それだけじゃなくて」
酒を作る店で、その酒を作ったあとの麦まで食べる。
何となく、この店らしい。
もし薄焼き腸詰めを選んでいたら、それはそれで美味しかったと思う。でも予定外に選んだ麦粕焼きのおかげで、この店がどういう場所なのかをもう一つ知ることができた。
香麦をゆっくり飲む。
最初に三種類を比べたときより、もう「ビールに似ているかどうか」は気にならなくなっていた。
香麦は香麦でよく、淡穂も黒穂も、それぞれ違う味を持っている。この世界で「麦酒」と呼ばれているものの中に、私がまだ知らない酒がいくつもあるのだと分かっただけで、少し嬉しい。
「これ、別の店だとまた違うんですよね?」
主人へ聞く。
「そりゃ違う。仕込み手が違えば味も変わるし、土地が変われば麦も苦葉も違う」
「じゃあ同じ名前でも?」
「似たような名前つけてても、同じ味とは限らんな」
「危険だなぁ」
「何が危険なんだ?」
「飲み比べたくなる店が増える」
「客としては正しいだろ」
「財布には正しくないです」
主人が笑った。
隣の二人もそろそろ帰るらしい。
「明日早いんだろ」
「ああ。だから今日は一杯だけ」
「もう二杯飲んでるぞ」
「小さいのは数えない」
「それ通るなら俺も三杯じゃないな」
「その理屈、危ないですよ」
私が言うと、二人とも笑った。
「嬢ちゃんも飲んでるじゃねぇか」
「私は予算内です」
「そこだけは真面目なんだな」
「そこが一番大事なので」
私は残っていた香麦を飲み切った。
会計は最初の三種小杯百八十ゴールド、塩燻豆七十ゴールド、追加の香麦百二十ゴールド、麦粕焼き八十ゴールドで、合計四百五十ゴールド。今夜の予算五百ゴールドから、きちんと五十ゴールド残った。
「ごちそうさまでした」
「どうだった?」
「最初は全部ビールみたいなものかなって思ってたんですけど、もうちょっと違いました」
「よく分からん感想だな」
「私にはかなり大事なんです」
「そうか」
主人はそれ以上聞かなかった。
店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。
今日は柵を直しただけで大きな戦闘もなく、昨日ほど身体を酷使したわけでもない。報酬は九百五十ゴールドで、昼食と水に百ゴールド、夜に四百五十ゴールド、宿代に三百ゴールドを使えば、一日で残るのは百ゴールドだけだった。
それでも、今夜使った四百五十ゴールドをもったいないとは思わない。
三種類の麦酒を飲み比べたことで、それぞれがまるで違う味を持っていることを知り、苦葉という香りづけの植物や、麦と水の違いでも酒の味が変わること、それに仕込み終えた麦を捨てずにつまみへ変える食べ方まで知ることができた。
食べたり飲んだりするたびに、この世界について知っていることが少しずつ増えていく。
それは冒険者ギルドで地図を覚えたり、魔物の特徴を教わったりするのとは違うけれど、私にとっては同じくらい、この世界で暮らしていくための知識になり始めていた。
前の世界の味を忘れたわけではなく、冷えたビールを飲んだときの喉越しも、仕事帰りに居酒屋で最初の一杯を飲んだときの気持ちも、まだちゃんと覚えている。だから似ているものを見つけると、つい比べてしまう。
でも、似ているからといって無理に同じものとして考えなくてもいい。
今日飲んだ香麦は、前の世界のビールに似ている部分を持ちながら、それでも香麦というこの世界の酒として十分に美味しかった。
「ビールじゃない。でも、もう一杯飲みたくなるんだから、それでいいか」
そう呟くと、さっき飲んだ香麦の草花みたいな香りをもう一度思い出した。
今日は百ゴールドしか残らなかったけれど、それ以上に、知らなかった一杯を知れたことの方が印象に残っている。
明日の朝になれば、私はまた依頼板の前で報酬額を見比べるだろう。それでも、飲みたいものがまた一つ増えたと思えば、そのぶん働く理由まで一つ増えたような気がした。
そんなことを考えながら、私は筋肉痛の残る腰をかばいすぎない程度にゆっくり歩き、《銀鈴の宿》へ戻った。




